群馬県立土屋文明記念文学館

常設展示室

常設展示「土屋文明―その作品と生涯―」、「三十六歌人」コーナー
 文化勲章も受章した日本を代表する歌人・土屋文明(つちや ぶんめい、1890.9.8-1990.12.8)の作品と生涯を紹介しています。
 中央の「三十六歌人」コーナーでは、当館が開館時に独自に選んだ「三十六歌人」の短歌と人形などを展示しています。



常設展示室の写真

第1章「榛名山のふもとで育つ」



移築書斎の写真

第6章「東京南青山での日々」の中にある「移築書斎」



短歌の世界の写真

短歌の世「三十六歌人」コーナー

 

第1章「榛名山のふもとで育つ―『アカネ』への投稿―」
 明治23年(1890)~ 明治42年(1909)


 明治23年(1890)9月18日、土屋保太郎・ヒデ夫妻の子として、現在の高崎市保渡田町に生まれた土屋文明は、父の姉である伯母ノブと、その夫・周次郎夫妻のもとで育てられ、上郊小学校井出分教場、分教場廃止後は上郊小学校で学び、旧制高崎中学に進学します。当時は総合文芸雑誌であった『ホトトギス』を読んだり、正岡子規(1867-1902)の流れを引く根岸派の歌人・俳人でもあった国漢教師・村上成之の影響を受けたりしながら文学への興味を高め、蛇床子のペンネームで雑誌『アカネ』などに作品が掲載されるようになりました。村上成之の紹介で、根岸派の歌人で小説『野菊の墓』でも盛名を得ていた伊藤左千夫(1864-1913)を頼り、明治42年(1909)4月に上京することになります。

第2章「東京から長野へ―短歌と小説と教職と―」
 明治42年(1909)~昭和5年(1930)


 上京した文明は、牛乳搾取販売業を営む歌人・伊藤左千夫のもとで牛の世話などをして働いていましたが、文明の才能を認めた左千夫は、貧しい文明の学費援助を友人の寺田憲に頼みます。当時は秋入学の旧制第一高等学校に晴れて入学した文明は、東京帝国大学哲学科に進学して心理学を学び、在学中には芥川龍之介らが集った第三次『新思潮』に井出説太郎名義で短篇小説を発表しました。左千夫を中心とする短歌結社「アララギ」では島木赤彦、斎藤茂吉らと知り合い、赤彦の紹介で、27歳から33歳を長野県の高等女学校の教頭・校長として過ごします。再上京後の大正14年(1925)に34歳で第一歌集『ふゆくさ』を出版し、その後も赤彦の斡旋で就任した『信濃教育』編集長としての長野県との往復が続いて、第二歌集は『往還集』と名付けられました。

第3章「歌壇の中枢に―写生、破調(散文調)、新即物主義―」
 昭和5年(1930)~昭和20年(1945)

 大正時代を通じて、写生を基本とするアララギが歌壇を制圧したと言われます。しかし伊藤左千夫や長塚節は大正の始めにすでに亡く、主要メンバーの石原純、古泉千樫、釈迢空(折口信夫)はアララギを去り、島木赤彦、平福百穂、中村憲吉も大正末から昭和の始めに亡くなりました。こうした中、アララギを牽引したのが、斎藤茂吉と、茂吉から昭和5年(1930)に『アララギ』編集発行人を引き継いだ文明でした。この時期、文明の短歌は二つの絶頂を迎えます。鉄道や工場などを題材に、極端な字余り、破調でありながら緊張感のある韻律を持ち、新即物主義(ノイエザハリヒカイト)的とも評価される歌。戦争中に中国に派遣された文明が現地の風土と人に出会って生まれた歌。前者は第三歌集『山谷集』、後者は第六歌集『韮菁集』に収められています。

第4章「万葉集研究の継続―自らの足で感じる―」

 万葉集研究は、短歌結社アララギに引き継がれる重要テーマでした。正岡子規による短歌革新の重要な一面が、古今和歌集(10世紀初頭に成立)を技巧的なものとして攻撃し、それ以前の万葉集(8世紀後半に成立か)を高く評価することであったこともあり、『アララギ』の誌面には外部の万葉集研究者からの寄稿や会員による原稿が頻繁に掲載されました。伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉といった各時代のアララギのリーダーも当然万葉研究を行っていましたが、4500首以上ある万葉集の全歌注釈を成し遂げたのは土屋文明だけです。『万葉集私注』(全20巻、1949-1956年)は、万葉集研究の分野ではただ「私注」と言えば通る存在で、『万葉集』にまつわる地を戦前から実際に歩き、歌人としての実感から思考を巡らしていることが特徴です。

第5章「川戸への疎開―敗戦と第二芸術論に抗して―」
 昭和20年(1945)~昭和26年(1951)

 空襲で東京南青山の家を焼失した文明は、昭和20 年(1945 )6月、現在の群馬県吾妻郡東吾妻町川戸に疎開しました。敗戦後は、紙不足でページ数が少ないこともあり『アララギ』の選者を自分一人として求心力を強める一方、「アララギ地方誌」の創刊を働きかけるなど、結社経営に辣腕をふるいました。実作面では、疎開先で行う畑仕事などを詠んだ歌に交え、敗戦と第二芸術論、二つの脅威にさらされていた歌人たちを鼓舞するような短歌史に残る重要な歌を残し、そうした歌は文明の最高傑作とも言える第七歌集『山下水』に収められています。この時期に行った「歌を作る一人として」、「短歌の現在及び将来に就て」といった講演とその速記録も重要で、斎藤茂吉が東北にある中、アララギを、短歌を、歌壇の中心として背負って立つ日々でした。

第6章「東京南青山での日々―歌壇の最長老に―」
 昭和26年(1951)~平成2年(1990)

 文明は昭和26年(1951)11月、歌の弟子であり建築技師でもあった近藤芳美の設計による東京南青山の新築の自宅に戻りました。明治大学教授を昭和35年(1960)まで務め、昭和28年(1953)には宮中歌会始の選者となっています。斎藤茂吉(1882-1953)や窪田空穂(1877-1967)が亡くなり、歌壇の最長老格となっていった文明は、前衛短歌の登場などに対して強く反応することはありませんでしたが、写生的作品の中に、いかにも文明らしい重厚なアイロニーとユーモアを持った作品を交えながら短歌を作り続け、晩年は幼年期、故郷を思う歌も数多く残しました。また、文明は歌人としてよりも選歌者として自信があると述べており、時に辛辣極まりない選評からは、歌や歌を作る人に向き合う気概が伝わってきます。文化勲章受章などの栄誉にも包まれ、平成2年(1990)12月8日、100歳と2ヶ月足らずの人生を終えました。

移築書斎

 新居の設計は、弟子の歌人で清水建設の建築技師あった近藤芳美が行いました。書斎は、引戸がついた本棚や、窓ガラス手前にある辞典類を広げるための棚が特徴で、常設展示室内に移築されています。

常設展示室中央「三十六歌人」コーナー

 外側の柱には、人形と風景のケースが組み込まれ、万葉の時代から現代に至る当館オリジナル「三十六歌人」の短歌を紹介しています。小さなガラスケースの中に詰め込まれた歌の世界をお楽しみ下さい。
 中央のケースには、『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』から現代短歌に至るまでの、写本や色紙、短冊などが展示されています。

三十六歌人

ここでは、展示された三十六歌人と短歌の一般的な情報を提供しています。