特別館長日記
多胡碑の「羊」は「年」
山上碑、多胡碑、金井沢碑の「上野三碑」がユネスコの「世界の記憶」に登録されてから5年になります。
10月30日と31日、5周年を記念してガラス越しでなく見られる特別公開を行っていたので、参観してきました。
飛鳥、奈良の時代につくられたものに接していることを実感し、不思議な感動を覚えました。
<山上碑>
<多胡碑>
<金井沢碑>
「給羊」に私の考証のこさむも生れ育ちし上野思出のため 文明
この短歌は、文明が昭和19年6月に多胡碑の「給羊」について詠んだもので、私家集「山の間の霧」に収録されています。翌7月、文明は、戦火が逼迫するなかで、陸軍省嘱託として中国視察の旅に出かけました。
多胡碑は、現在の群馬県高崎市吉井町池に、周辺の三郡から三百戸を割いて新たに多胡郡をつくったことを記念して建てられたと、ほぼ見解が一致しています。
しかし、碑文中の「給羊」については見解が分かれます。文明が『日本紀行』の「十九上野三碑」で「此所でも土地の人は羊太夫説以外は頑として受付けないらしい。」と述べているとおり、地元では、羊太夫の伝説も広く流布されていることから、「羊」を人物名として捉え、多胡郡を羊に給したと一般的に解されています。
それに対し、文明は、西本願寺本萬葉集に「年」の字を「羊」と書いた例が多く見られることから、「給羊」は「給年」と読むべきだと主張します。そして、「一年間百姓の賦役を免ず」を「給復一年」というので、「給年」はその省略であり、新たに郡をつくり百姓に苦労をかけるからその年の賦役を免除すると解するべきだと主張します。そして、中国から持ち帰った、多胡碑よりも早い時期につくられた碑の拓本のなかに、「年」を「羊」と書いた実例を発見したと書いています。(以上、「支那で拾って来た多胡の『羊』」文藝春秋昭和20年2月号掲載による)
多胡碑の「給羊」も難解ですが、文明短歌の「『給羊』に私の考証のこさむ」も同じくらい難解でした。その謎は、数年前に文明のご親族から寄贈された『上野名跡志 二』(富田永世輯録)に遺された書き込みによって解決しました。
この短歌の意は、戦乱の中国に出かけるにあたり、自分が生まれ育った群馬の思い出として、多胡碑の「給羊」は「給年」で、「一年間百姓の賦役を免ず」と解するべきだという自説を、『上野名跡志 二』に書き込んでおく、と解してよいと思います。
これらのことを調べていきながら、土屋文明が文化や伝統を愛し、丹念に探求するなかで、歌人として大成していったことをあらためて認識しました。
<『上野名跡志 二』に遺る文明の書き込み>