群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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信州松原湖

 長野県佐久郡小海町に松原湖という湖があります。最もその名は、周辺で最も大きい猪名湖を指す場合もあれば、猪名湖、長湖、大月湖などその周辺に点在する複数の湖の総称として使われることもあるようです。

 文明は昭和のはじめに2回ここを訪れ、それぞれ短歌を詠んでいます。
 最初は、昭和4年5月18日に訪れています。翌日は、南佐久郡中込小学校で開かれた万葉集の会で講義をしています。歌集『往還集』に「信濃松原湖」の題を付した6首が掲載されています。

 夜行車に来りし吾は山水やまみづたぎちに下りて歯みがきつかふ
 今朝の汽車弁当を残し来て食ひ居るからだの疲労つかれを思ふ
 春すぎてゆくと云ふことも思はざりき桜のこれるに今日は遇ひける
 うちかすむ村はまひるのかはづのこゑ畳のうへに覚めてまた眠る
 うみのへの家にねむりをむさぼりてわか芽立つ谷を見にゆかむとす
 あさつきはすでに黄ばめる草はらに散れる桜の花をながめつ

 もう1回は、昭和11年5月8日に訪れているようです。翌日は、上田別所で開かれた 歌会に出席しています。歌集『六月風』に「信州松原湖」の題を付した4首が掲載されています。

 汗をながし吾はのぼりゆく長湖ながうみのやさしき水を再びみむとして
 にひはりの道に並びて落ちきたる春の水あらし鳴りつつぞ来る
 春日てる荒野あらのの道をのぼり来て猪名ゐなの湖しづもりにけり
 ふくらみし桜に降りつぐ雨寒し夕食すめば鞄をひらく

 これらの短歌を詠むと、文明がこの地をたいへん愛していたことが分かり、かねてから一度行ってみたいと思っていました。文明が訪れたのは5月ですが、最近は春の訪れが早く、土屋文明記念文学館の周辺ではすでに桜の花もすっかり散ってしまったので、その名残惜しさもあり、4月17日(月)に松原湖に出かけました。
 関越自動車道(80キロ制限)、中部横断自動車道(70キロ制限、無料)を利用し、高崎を出て2時間弱で松原湖に着きました。天候にも恵まれ、途中の道は高低差があるので、満開の桜を含め、さまざまな春の姿を見ることができ、快適な旅になりました。

 猪名湖は、全体的にはひっそりしていました。湖畔に大きな桜の木があり、花が満開で、ハイキングの人たちが弁当を食べていました。文明もこの桜を見たのかと思うと、いっそう美しく見えました。
 県道沿いの長湖は、最初平凡に見えましたが、細い道を少し上って行くと、静かな湖を小山が囲み、さらにその上に、雪を残した八ヶ岳に陽が差す、まさに絵のような光景が広がっていました。

<猪名湖畔の桜>

<猪名湖全景>

<長湖と八ヶ岳>

 文明が訪れたのはすでに90年以上前のことなので、当時のことは分からないだろうと思いながらも、松原湖観光案内所で昭和初年には存在した宮本屋と蔦屋(現在はペンションアルコニ)を教えてもらいました。
 いずれに文明が泊まったかは分かりませんでした。しかし、松原湖が関東、甲斐と善光寺を結ぶ、古くから開けた街道の脇にあること、文明が最初に松原湖を訪れた前年の昭和3年に斎藤茂吉が蔦屋に泊まった記録が残っていること、アララギの歌人は蔦屋を利用することが多かったこと、宮本屋にも若山牧水などの文人が泊まったことなどを教えてもらいました。

 昭和4年10月24日、ニューヨーク株式取引所で株価が大暴落し、世界大恐慌が始まりました。昭和11年2月26日、陸軍青年将校らによるクーデターが勃発しました。
 文明が松原湖を訪れたのは、陸軍をはじめとする誤った指導者のために日本がファシズム化し、太平洋戦争へと進んでいく時代でした。文明は、権力との激しい衝突を避けながらも権力に迎合することなく、良心と良識をもって対応する人生を送っていました。

 松原湖から県道を上ったところにある温泉施設「八峰の湯」で露天風呂に入り、見慣れた群馬の山よりも天空に近い八ヶ岳をながめながら、昭和初期の文明のことをぼんやり想っていると、帰路に着かなければならない時間になりました。

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