特別館長日記
令和2年11月30日(月)
気短きわれをたしなめしかられし尊き人は死なせ給ひぬ(『ふゆくさ』)
11月30日は、土屋文明の恩師村上成之の命日です。
恩師の死を悼む文明の短歌が第一歌集『ふゆくさ』(歌数380首)の最後に収録されています。「十一月三十日村上先生逝く即参りて死顔を拝す」という詞書があります。
明治40年、文明が旧制高崎中学校(現高崎高等学校)4年のとき、村上は、千葉県の成東中学校から国語の教員として着任しました。
成東は、伊藤左千夫の故郷で、村上は、左千夫と親交があり、『アカネ』に短歌、『ホトトギス』に俳句を出詠していました。
文明は、挨拶の仕方で村上に注意され反発したこともありましたが、やがて村上を文学の師と仰ぎ、指導を受けるようになりました。
明治42年、高崎中学校を卒業した文明は、村上の仲介で、搾乳業を営みながら文学者として活躍していた左千夫のもとに上京し、牧夫をしながら文学の道を歩みはじめました。
そして、左千夫は、文明の豊かな資質をすばやく見抜き、文学者として大成させるために、寺田憲をはじめとする学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校に進学させます。
大正7年3月、諏訪高等女学校教頭としての赴任を前に、文明は塚越テル子と結婚しますが、村上が媒酌の労を取りました。
大正13年、文明は、松本高等女学校長から木曽中学校長への転任を拒否して長野県の教職を退職し、大学で講師をしながら、文学者として活動します。その年の11月30日に、村上成之は、故郷の名古屋で亡くなりました。
村上のもとにかけつけ、万感の悲しみを込めて詠んだのが冒頭の短歌です。
「たしなめ」「しかられし」とことばを重ねていることで、文明と村上の親交の深さが表現されています。「気短きわれ」は文明の短所でした。村上は、その短所を見抜き、親身になって繰り返し指導してくれたのだと思います。
「死なせ給ひぬ」は素朴な表現ですが、ことばを飾らないことで、恩師の死に戸惑う姿や深い悲しみが的確に表現されています。
私も高崎高等学校で11年間国語の教員として勤めましたが、生徒を感化する力量において、村上先生に遠く及ばなかったことを残念に思っています。