群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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馬湯を訪ねて

<ホテル「蓼科親湯温泉」>

 先日、長野県の蓼科高原にある親湯温泉に行ってきました。大正9年、当時諏訪高等女学校の校長であった土屋文明は、ここを訪れ、歌を詠んでいます。
 茅野市街から「ビーナスライン」を上がっていくと、蓼科湖、さらに上っていくと、滝ノ湯温泉の入り口、その先に親湯温泉の入り口があります。
 私は、群馬から出かけたので、上信越自動車道を佐久インターで下り、ナビの言うとおりによく分からない道を進み、長門牧場で温かい牛乳を飲んで、女神湖の横を通り、白樺湖に出る直前で寂しい脇道に入り、心配しながらしばらく進むと、ビーナスラインに合流することができました。道を下り、チェックインには早すぎたので、いったん通り越して蓼科湖の周囲を散策してから、親湯温泉に行きました。

<蓼科湖>

 そもそも、親湯温泉は、滝ノ湯温泉に対して、新しく見つかった温泉ということで、「新湯」と呼ばれたそうです。土屋文明の第一歌集『ふゆくさ』に「新湯」という題で8首の歌が載っています。前半6首で「馬湯」につかる馬の様子を詠み、後半2首で温泉宿に寛ぐ自分たちの様子を詠んでいます。

新湯
 うまうまなな日照雨ひでりあめに背のかけむしろみなぬれてあり
 首筋を流るる雨におどろきてからだ動かす馬いとけなし
 馬の湯につづく湯の池およぎつつ馬に近づけば馬くさきかも
 馬の腹にひたひたとつく湯のたたへ底の石みな青光あをびかりせり
 岩の上の青葉をあふる霧早し湯をいでし馬はふるひいななく
 馬の湯に今朝ゐる馬は一つなり湯の中に楽楽らくらく尾をふり遊ぶ
 霧ふれば暗き部屋ぬち三人みたり居て言葉まれなりうときにはあらず
 一日ひとひ居て話はたえぬ窓にむき逸也いつやは本をよみはじめたり

 文明は、東京帝大を卒業しても2年間定職に就くことができず、大正7年にようやく先輩歌人島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校教頭の職に就くことができました。しかも、赴任の直前には長い間付き合っていた同郷の女性と結婚しました。三村安治校長のもとで2年間存分に手腕を発揮した文明は、長野県主席視学に転任する三村の推薦で大正9年1月に校長に就任し、大正11年に松本高等女学校に転任するまで、教育者、歌人として充実した日々を過ごしました。文明の100年の生涯で最も安定した時期だったのではないかと思います。文明は、温泉につかり、のんびりした馬の姿を詠んでいますが、自身ものんびりしていたのでしょう。

 そもそも親湯温泉は、伊藤左千夫が好んで訪れ、裏山には2つの歌碑があり、アララギの歌人たちもたくさん訪れました。文明がここを訪れたのも、文学・人生の師である左千夫を強く慕う気持ちがあってのことと思います。
 ホテル「蓼科親湯温泉」は、大正15年の創業で、勢いよく流れ落ちる谷川の左岸に建てられています。文明が訪れた当時は、地域の人々の湯治宿が現在のホテルと川をはさんで反対側にあったそうです。さらに、現在のホテルは、2019年4月に全面リニューアルしたそうですが、長い歴史と文化を守りながらも新しいきめ細かい工夫が加わり、快適な空間がつくられています。ラウンジ、廊下、客室など、至る所に興味深い書籍や絵画、軸、色紙などが配され、ながめていると時間の過ぎるのを忘れてしまいます。蔵書は、ラウンジだけで3万冊だそうです。私の泊まった部屋には斎藤茂吉の全集4冊が置かれていました。

<ロビーの書籍>

<ギャラリー>

 また、「アララギ」「伊藤左千夫」「島木赤彦」「斎藤茂吉」等の名がつけられた10室のスイートルームがあり、「土屋文明」のスイートルームもありました。チェックアウトの時間後に見せていただくと、文明の部屋の壁には、文明の肖像画と、「歌ふものもなく老いたるむろの樹よ千年を重ねて大瀬の崎に」(『続々青南集』所収)の色紙と、「くもり夜の月あるごとくおもほゆれしらじらとして川遠くゆく」(『山谷集』所収)の短冊が飾られていました。次回訪れることがあれば、ぜひこの部屋に泊まりたいと思いました。

<文明肖像画>

<文明短冊>

<文明色紙>

 温泉は、無色透明で熱くもなくぬるくもなく、長時間入っていられました。文明先生も馬もさぞかし気持ち良かったことと思います。文明先生には申し訳ないのですが、夕朝の食事もたいへん豪華で満足しました。
 さて、肝心の馬湯ですが、現在は存在しません。その痕跡もありません。ホテルの方に教えていただき、唯一、文明が「馬の湯につづく湯の池およぎつつ」と詠んだ場所で、後に温泉プールがつくられオリンピック選手も練習した場所の名残として、今もたくさんの注ぎ口から湯が絶えず沸き出ている場所が駐車場の脇にありました。
 いずれにしても、文明先生が歌に詠んでくれたお陰で、思い出に残る秋の旅をすることができました。

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