特別館長日記
令和3年3月27日(土)
諏訪湖畔
湖の氷はとけて猶さむし三日月の影波にうつろふ 赤彦
(『太虚集』大正13年)
高木村
亡き人の村冬に入る菜の茂り山を見るこそ静かなりけれ 文明
(『山谷集』昭和6年)
島木赤彦五十年忌に
生くるに難くありたる時に先づ来り救の手をばのべし君なり 文明
(『青南後集』昭和50年)
3月27日は「赤彦忌」、諏訪が生んだ『アララギ』の代表的歌人島木赤彦の命日です。
赤彦は、明治9年に生まれ、大正15年に亡くなるまでの49年間、短歌界に大きな足跡を残しました。
大正2年に、伊藤左千夫が没すると、嘱望されていた教育界を退き、短歌誌『アララギ』の編集発行人となって、多士済々の歌人たちをよくまとめました。『アララギ』の編集発行人は、斎藤茂吉、土屋文明と受け継がれていきますが、赤彦がいなければ、早くに途切れてしまったかもしれません。
赤彦は、文明にとって、歌人としての先輩であるだけでなく、かけがえのない人生の恩人でした。
東京帝国大学を卒業したにもかかわらず2年間定職のなかった文明に、諏訪高等女学校教頭の職を紹介してくれました。長野師範学校の先輩で同校校長の三村安治との縁によるものでした。
文明は2年後、同校の校長となり、松本高等女学校の校長として退職するまで6年間、長野県の教育界で過ごしました。この6年間は、文明にとって、必ずしも順風満帆ではありませんでしたが、歌人として活躍するための貴重な社会的経験を積むことができました。
赤彦の功績を讃えて、諏訪湖のほとりには、「赤彦記念館」が建てられています。諏訪は、まだ朝晩、寒さが厳しいかもしれませんが、野山の草木も少しずつ春の装いを見せはじめているのではないかと思います。