特別館長日記
恩師、伊藤左千夫
7月30日は、伊藤左千夫の命日です。
文明が左千夫の牛舎で働きながら文学を学ぼうと上京したのは明治42年4月10日です。しかし、左千夫は脳溢血のために大正2年7月30日に急死したので、文明が左千夫につかえたのは5年余です。この間、左千夫は、文明に短歌を指導するとともに、さまざまな歌会に文明を同行し、さまざまな歌人たちに引き合わせています。それだけでなく、入門間もない時期に、文明の将来性を見抜き、学費の支援者を用意した上で、明治42年の秋には文明を第一高等学校に進学させます。やがて、文明は、大正5年に東京帝国大学を卒業します。左千夫と出会わなければ、文明の人生は全く違ったものになっていたはずです。それだけに、文明は、左千夫に感謝し、その気持ちを一生忘れませんでした。文明は左千夫に関連する短歌を200首近く詠んでいますが、それらを読むと、文明が文学の師としてだけでなく、人間として左千夫を尊敬し、慕っていたことがよくわかります。
私の印象に残ったものを紹介します。
あるがままの蚊取線香を上げたれば落ちてたまれる虫のかなしさ (『ふゆくさ』左千夫先生逝去、大正2年)
ひと片の花のにほひに画の技のこころをみよと教へ給ひき (『往還集』蓮を見る、大正14年)
左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きしことも遥けし (『山谷集』城東区、昭和8年)
茅場町左千夫邸跡(錦糸町駅前)
前こごみにて足早の姿おもふさへかすかなるかな二十年前は (『山谷集』左千夫先生を思ふ、昭和8年)
あはれあはれ吾の一生のみちびきにこのよき先生にあひまつりけり (『山谷集』十二月十六日、昭和9年)
松葉(まつば)牡丹(ぼたん)その日のさまに咲くみ墓二十三年は過ぎゆきにけり (『六月風』左千夫先生二十三回忌、昭和10年)
亀沢町終点のところなりき伴はれてビフテキを食ひし記憶かなしも (『六月風』歌会の歌、昭和11年)
この海を左千夫先生よみたまひ一生まねびて到りがたしも (『少安集』虎見崎 一月三日又十三日、昭和14年)
虎見崎海岸
まのあたりあざむき給ふ日にもあひきまざまざとして涙ながる (『少安集』左千夫先生忌日近し、昭和14年)
蒲生野を一日歩きて眠らむにまた思ひかへす先生の解釈を (『少安集』左千夫忌 七月二十一日、昭和15年)
唯真がつひのよりどとなる教いのちの限り吾はまねばむ (『山の間の霧』黒姫山麓、昭和17年)
明治四十二年なほ石油ランプ用ゐたる先生を貧しとも豊かとも思ひ出づ (『青南集』夾竹桃、昭和27年)
朝市の車に並び馳せたりき地下足袋の触感は今に力を与ふ (『青南集』江東二題 七月三十日、昭和35年)
さくら鍋硬かりければ豚にかへき左千夫先生との最後の食事 (『続青南集』病後越年、昭和38年)
過ぎし人々いかにか山の湖に上り来し別して明治四十二年左千夫先生 (『続青南集』角館田沢湖、昭和40年)
六十年思ふ九十九里に先生にうつつに従ふことなかりけり (『続々青南集』冬となりて、昭和45年)
喜びて得意にて歌なほし下されし左千夫先生神の如しも (『続々青南集』集を終らむとして、昭和48年)
輝きて白きは成東のコシヒカリうから左千夫先生に頼りて食ふ (『青南後集』米と芋殻、昭和51年)
一様に舗装バスターミナルに変るとも此処ぞと指さむ唯真閣跡 (『青南後集』伊藤左千夫終焉地、昭和54年)
掃木の持ち方左千夫先生に直されき何時か忘れて今はうやむや (『青南後集以後』四月、昭和61年)
左千夫生家(山武市)
生家の隣に移築された唯真閣