群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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かたい友情

上水沿いの太宰治文学碑

山本有三記念館入り口

山本有三記念館正門

山本有三記念館

木立に囲まれる山本有三記念館

山本有三記念館床の間

山本有三先生顕彰碑

 山本有三記念館を訪ねました。
 三鷹駅から玉川上水沿いの道を歩きました。上水の流れはゆるやかでしたが、途中には太宰治の文学碑がありました。15分ほどで家並みが途切れ、「三鷹市山本有三記念館」という控えめの看板と、企画展「山本有三没後50年 濁流 雑談 近衛文麿 ―燃ゆる創作への想い―」の標示を見つけました。道からかなり入ったところにあり、門も建物も洋風で、山本が国語の口語化を強く主張したことを思い出しました。

 1階は、子どもを大切にした山本にふさわしく「おはなし会」がちょうど開催されていたので、見ることができませんでしたが、2階では、標示されていた企画展が開催中で、ボランティアの方に丁寧に解説していただきながら観覧することができました。建物のすばらしさとともに、近衛文麿と山本有三とのかたい友情に感動しました。近衛は、昭和19年7月、東条英機内閣打倒のため首相暗殺も辞さないことを山本に告げ、その声明文の執筆を依頼しました。戦後しばらくして、山本は、近衛の真相を知ってもらうために「雑談」を発表しました。

荻外荘

荻外荘客間

荻外荘書斎

 荻外荘には、山本有三記念館に来る前に寄ってきました。
 荻外荘は、総理大臣を三度務めた政治家近衛文麿の旧宅ですが、約10年にわたる復原整備工事が終了し、昨年12月から一般公開されています。荻窪駅から住宅が並ぶ中をだいぶ歩いて、途中で尋ねたりしてようやく着きました。木々に囲まれた壮大な日本邸宅の美しさに藤原氏の伝統を受け継ぐ近衛家を実感しました。昭和15年7月、第2次近衛内閣の閣僚予定者である近衛文麿(総理)、東条英機(陸相)、吉田善吾(海相)、松岡洋右(外相)が会談し、ドイツ・イタリアと同盟を結び、東南アジアへ南進する政策方針が決められ、太平洋戦争への道を歩むことになった客間。敗戦後の昭和20年12月、戦犯としてGHQへの出頭を求められた近衛が自決した書斎。日本史の舞台となった部屋を目の前にして厳粛な気持ちになりました。

 山本有三と土屋文明は、明治42年旧制第一高等学校に入学して出会いました。ともに、ドイツ語の単位を落として留年しましたが、錚々たる仲間のなかで、二人だけが文化勲章を受章しています。二人は、久米正雄、菊池寛、芥川龍之介などとともに第三次『新思潮』のメンバーです。国語の口語化を主張する山本と万葉集を尊重する文明と、考え方はそれぞれでしたが、かたい友情に結ばれていました。そのことは、山本の死を悼んで詠んだ文明の短歌にもよく表れています。近衛文麿も旧制一高の同級生です。

   山本有三君を悲しむ(『青南後集』昭和49年)
 ありし日の如く清らに言葉なき終の姿にあふもかなしも
 談らひし伊勢の旅ゆきもはたさぬに君は早くも終り給ふか
 古く長く交はることを心にし我がため多くはかりくれにき
 少き交はりに共に老に入りなほ長き日をたのみしものを
 伊豆の海の光も岸の冬の日も君を別れて見るべきものか

   三鷹にて山本有三を思ふ(『青南後集』昭和52年)
 君が住みし七処の五処知りたれど思は深しかの牟礼の家
 君がもとのあたりいづらと見やるとも変化ははげし新興市街
 建物の間にわづかに旧上水水は行くのか行かぬのか見ず
 三十年過ぎて変るといふならずすでに新しき異国あり
 君が庭の水鳥の来る池の落葉昨日のごとく我は思ふに
 なごやかにゆたかに湯河原はありたれどみ山なす静けさに三鷹の家
 上水に沿ふも静かに人稀に行きつつ我をばはげましくれき
 世におくれ職をはなるるしばしばにて君が言葉は力なりけり
 生ける世に最も長き交はりと君をぞ思ふ駅の迷路に

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