群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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上信道工事中

 

 3月25日、東吾妻町川戸の大川家旧宅を訪ねました。すぐ前を通る上信道の工事が現在進行中で、文明が戦中戦後疎開し、その後も当時の様相がほぼ残されてきた川戸もまもなく大きく変わってしまいそうです。

 昭和20年5月25日、アメリカ軍のB29による無差別空襲で、東京南青山の文明宅も全焼しました。文明は、長女の草子かやこが吾妻高等女学校に勤めていたこともあり、群馬県吾妻郡原町の旧家である大川正宅の部屋を借りて暮らしました。

 この時、文明は55歳、敗戦後の食糧難の時代に、山の土地を借りて開墾し、自ら畑を耕して暮らす生活はさぞかし苦労が多かったと思います。川戸での疎開生活は、昭和26年11月までの長期にわたりますが、歌集『山下水』『自流泉』に収められた短歌を読むと、年を経るに従い、生活状況が改善していったことが分ります。

 疎開中も、文明は、短歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)の立場にありました。
 太平洋戦争が終わるといち早く、20年11月には、会員との連絡が困難で、物資も不足する状況にもかかわらず、長い間休刊していた『アララギ』を、昭和二十年九月号(出詠者8名16ページ)として復刊しました。

 また、昭和21年から22年にかけて叫ばれた、短歌の文学的価値を軽視する「第二芸術論」には、自らの歌づくり、全国をまわっての講演、歌人への激励等で対抗し、短歌の伝統を守り、発展させました。文明の指導で、『アララギ』の地方誌が全国各地にでき、群馬県には、齋藤喜博の尽力で『ケノクニ』ができました。

 一高時代の友人の紹介で、山口大学に赴任する話もありましたが、実現せず、東京へ戻った翌年27年に明治大学の教授に就任しています。

 

川戸疎開から南青山復帰まで、文明の様子がわかる短歌を掲載しました。なお、「垣山に」の短歌は奈良県で詠まれたものです。

朝よひに(ま)清水(しみづ)(つ)み山に採み養ふ命は来む時のため(『山下水』20年)

朝々に霜にうたるる(みづ)芥子(がらし)となりの兎と土屋とが食ふ(〃20年)

山の上に吾に十坪の新墾(あらき)あり(かぶ)まきて食はむ饑ゑ死ぬる前に(〃20年)

にんじんは明日蒔けばよし歸らむよ東一(あづまいち)(げ)の花も(と)ざしぬ(〃21年)

ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し(〃21年)

友二人われをおくりて(ゆふ)(かは)田辺(たんべ)わたればわが川戸(かはど)(むら)(〃21年)

歌作るを生意志なきことと吾も思ふ論じ高ぶる阿房どもの前に(〃21年)

垣山(かきやま)にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ(21年)

南瓜(かぼちゃ)二つくさりて春となりたるもゆたかなりける今年の冬ぞ(『自流泉』22年)

疎開人かへりつくしし春にして泉の芹を我独占す(〃23年)

大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな(〃24年)

この山の(いも)を盗まねば(う)うるかと恐れしと時も過ぎて(はる)かなり(〃25年)

戦ひて敗れて餓ゑて苦しみて凌ぎて待ちし日と言はむかも(〃26年)

うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮しを始む(『青南集』26年)

 文明が暮らした大川家は、町長も務める旧家にふさわしく、今見てもたいへんな豪邸です。南側の庭も広く、錦鯉が泳ぐ大きな池を配し、たくさんの樹々が植えられていました。

 文明が暮らした部屋は、屋敷の西側にあり、それなりの広さがありましたが、家族で暮らすには手狭だったと思います。部屋の正面には、「友二人」の短歌の色紙が飾られていました。

 「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌というものはほろびないばかりではない、いかなる社会機構の中でも存在しつづける」という名古屋での講演も、この部屋で考えたのではないかと思うと、感慨深いものがありました。

 上信道の工事が行われているのは、大川家の南側で、工事現場の近くには、清水が湧く場所があり、筧で豊富な水が大川家の庭に引かれています。向こうに見える山林の中には、文明が飢えをしのぐために開墾した「十坪の新墾」もありました。世の移り変わりは常とはいえ、文明ゆかりの地が大きく変わってしまうことに寂しさを感じました。

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