特別館長日記
『磔茂左衛門』の作者―藤森成吉
5月5日の上毛新聞「上毛かるたを歩く」は、「天下の義人茂左衛門」についてでしたが、藤森成吉について次のように触れていました。
戯曲『磔茂左衛門』(藤森成吉・26年)を読むと、ストーリー展開の要はやはり将軍直訴。…藤森はプロレタリア作家、…茂左衛門は時代の要請を受けて権力と対峙する義民の役割を演じてきたともいえる。



藤森成吉は、土屋文明の友人です。文明は、長野県の高等女学校に教頭、校長として勤めた大正7年から13年までの6年間を回想した自伝『信濃の六年』の中で、次のように述べています。
期限つきの家から、第二の借家に移ったのは、奇遇といえば、奇遇であった。それは大阪屋という薬屋の別荘として建てたのであるが、更に新しい別荘が出来たので、借家としたという。広くはないが、自家用の温泉と浴室がある。家内が借用を頼みに出向いたところ、主人が、成吉の友人だそうですから前よりも家賃を引いて置きますということであった。藤森成吉君は、一高の寄宿舎で隣室であり、諏訪出身であるというので、私も諏訪に友人があるということから、いくらか話しあったこもあったのである。藤森君は帰省の際わざわざ訪問され、家のことで不自由があったら遠慮くなくとまで言ってくれた。
藤森家から借りた温泉付きの家での安定した生活は、一高・帝大時代、そして卒業後の2年間、経済的に苦労してきた文明が、先輩歌人島木赤彦の尽力で諏訪高等女学校教頭の職につき、赴任前に長年交際していた同郷の女性と結婚して手に入れたものでした。
第一歌集『ふゆくさ』に、その家での生活や文明の心情を伺うことのできる短歌が23首収録されています。
湯ある家
湯ある家求めうつれり湯室ばたの楓まがりて衰へはやし
湯室漏れまきめぐる湯気に立ちそへる楓葉は朽ち散りそめにけり
山国の秋早みかも此の朝け立つ湯煙のあたたかにみゆ
煙たつ湯をまぜながら言ふ妻の声はこもらふ深き湯室に
掘り下げし湯室に居れば前の川を下る船あり石にふれつつ
雨の夜は物音もなし庭さきに二つともれるシグナル赤し
地盤よわき二階家に住みゆれ通る汽車にもなれてねむる夜かも
寒き国に移りて秋の早ければ温泉の幸をたのむ妻かも
田宿の家
国とほくここに来りて妻とわれ住む家求む川にのぞみて
温泉わけば借りてわが住む家の前をのろく流れて行く衣渡川
煙ぬりの板の木戸朽ちややかしぎ直ちに向ふ前の流に
収穫すみて隣の人がつなぐ船阿伽は溜りて岸につきたり
朝な朝なつなげる船に米洗ふ向うの人等いまだ馴れずも
湯の口に近く植ゑたる菁莪の葉の朝の凍りに寒さを計る
旅にして家借り住まふ小和田村隣もうとく冬にいりけり
夜おそく湯槽を払ふ放ち湯の落ちゆくかもよ地下に音して
降りし雪凍てて凝れば空きらひ低くくもりて寒き日つづく
寒き国の町の習はし夕はやく大戸下ろして静まりにけり
並ぶ町家大戸おろせば上諏訪のゆふべの道は凍りて寒し
土湯を汲む人等さむざむ並び居て高く立ちのぼる温泉のけむり
土湯そばの船処あまねく湯気は立ち田宿の家にわがかへるなり
わが家の湯尻は川に湯気立てて寒く流れてゐたりけるかも
かきあつめ楓がもとにつめる雪ややとくるらし湯の地温みに
(注)歌集『ふゆくさ』の短歌には、漢字すべてにルビが振られています。
藤森成吉は、昭和3年に行われた普通選挙制による初めての選挙に、労働農民党から立候補しました。そのとき、文明の校長時代に諏訪高等女学校を総代で卒業した伊藤千代子が選挙運動を支援しました。千代子はまもなく治安維持法違反で検挙され、転向を強要されて昭和4年に病死します。
昭和10年に文明が東京女子大学(千代子の母校)で講演したときに、伊藤千代子のことを思い出して詠んだ短歌6首が歌集『六月風』に収録されています。
某日某学園にて
語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
清き世をこひねがひつつひたすらなる処女等の中に今日はもの言ふ
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきておもはむ
高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき

土屋文明について、日本文学報国会に参加したり、陸軍省嘱託として中国を視察していることを捉え、戦時体制に協力したのに反省が足らないと指摘されたこともありますが、中国視察の短歌を収録した『韮菁集』を含め、文明がこの時期に詠んだ短歌を総合的に判断すれば、そのような指摘が誤りであることは明らかだと思います。
小さいころに覚え親しんだ上毛かるた。上毛新聞の特集でそれぞれの札について、知識が広がっていくのを楽しんでいます。
自己を犠牲にして民衆を救おうとした茂左衛門、社会運動に信念をもって取り組んだ藤森成吉、伊藤千代子、現実を短歌に表現することにすべてをかけた土屋文明がつながっていきました。