特別館長日記
瀬波岩船
土屋文明は、瀬波岩船に3度訪れています。
最初は、昭和16年の夏、文明51歳。日中戦争が長期化し、日米交渉も切迫する中で人々の暮らしが日々苦しさを増していた暗い時代でした。
文明は選歌に忙しかったのですが、自然と温泉に囲まれて安らかに過ごしたようです。
松原、夕日、実る稲、海岸の砂、浜茄子、浜立壺菫、海に浮かぶ淡島、澄んだ光や静けさを感じされる音などが暗い世情に沈み選歌に疲れた心を癒してくれました。
ノモンハン事件で戦死した知人の墓にお参りし、傍らに日露戦争中二〇三高地で戦死した人の墓を見つけて当時の感動やこの地と似ている故郷の自然を思いおこしています。
また、大和朝廷が北方の拠点として設置した「磐舟の柵」の旧跡を訪れこの地を守った人々にも思いをはせています。
そして、恩師である伊藤左千夫の「まごころ」を守り、アララギの歌人として歩んできた人生を振り返っています。
瀬波岩船(『少安集』昭和16年)
苦を常と考へし来し方も少し改めむ今日の安けし
斧の音ひねもす響くひねもすに印してう倦まず鉛筆の丸
パルシヤガルに永久に帰らぬ君がため碑白し君が村の松原の中
いま一つ古りしみ墓に幼き感動は帰る二〇三高地に戦死せり
音たえて松の幹赤き夕の時忘れたる所に帰るごとしも
ま近なる小さき山を故里に似せしめて夕日さす暫くを向ふ
北国のみのり気づかふ時にして秋ともしるく澄む光見つ
済みし選歌済まざる選歌仕分け置き済みたる増すは心たのしも
涙たれ昂り幾年をよみつぎし吾が結論なりまごころの説は
懺悔きく如き思ひにて向ひつつ時に止みがたき憎しみのわく
芝植ゑてわづかに示す岩船の柵の阯にて汗のごふ吾は
此の丘を国の境と守りたる遠き命を人は思へよ
粟島に渡らむ船は今日いでず仕事終へし吾は留り難し
まなご地にこぼしし魚の少くて立ち来るかもそのくさる香の
浜茄子を手に採みためぬ変異ありて棘は全き果を覆ふあり
此所に生え浜立壺菫となりたりし細胞は幾許の年を経にけむ
長き葉が丸き葉となるきはむだに汝が一生空しからめや
ものの声ここに及ばぬ沙熱く踵やぶりてゆく一人あり
次は、昭和18年9月、文明53歳。老舗旅館の「はぎのや」で、文明が口述したものを、宮本利男が筆記し、評論『短歌小径』を寄稿しました。
なお、『山の間の霧』に収録された「短歌小径起稿」には、地名が出てこないため、瀬波温泉で詠まれたことは多くの研究書が見落としていました。平成25年度に当館で開催した企画展「土屋文明とその門下の歌人たちー『自生地』と『ケノクニ』―」の際に、当時の学芸係長木村一実が『土屋文明書簡集』に収録されている土屋文明・宮本利男連名の樋口賢治宛はがきの消印日付を精査し、次に紹介する昭和47年に訪れた際に詠まれた「越後岩船」との整合性を考察した結果、文明が昭和16年の選歌のために続き、昭和18年にも瀬波温泉を訪れ、『短歌小径』を寄稿したと推定しました。はがきの差出は「瀬波萩野屋」からになっています。
短歌小径起稿(『山の間の霧』昭和18年)
行く雲の過ぎにし三人のよき人を並べよみつつ夜昼を居り
松の呼ぶ夕べに小さき魚食ひてひと時足を伸ばす楽しも
数へつつ吾が亡き少き友おもふ歌よみ過ぎき二十幾人
立ち屈み暗くなるまでいそはぎき刈跡見れば吾がことは空し
最後は、昭和47年6月頃、文明82歳。すでに触れましたが、このときに詠まれた短歌の中にある、「三十年前」「宮本利男共に来て口授筆記の短歌小径」などの言葉が、昭和18年にも瀬波温泉を訪れたことの有力な根拠になっています。
越後岩船(『続々青南集』昭和47年)
花に恋ひ来しといはむもおぼろにて暑き沙行きき三十年前
初々しく咲けるはまなすの紅の花びらに少し海の上の風
広き国やうやく狭くなほ田あり丘の間に幾群か植う
越後守威奈ノ大村食ふ米を作りし世より今に作るらむ
尋ね来し食物茶屋廃業改装のしつくひ匂ふ奥をめぐり見る
葉茶持ち雪路を人力車にて来りけり彼の処女最も幸福の日に
幸去りて世を終へし処女主かはる温泉の家桐の花盛りの時
まめまめしく宮本利男共に来て口授筆記の短歌小径あり
昭和16年、昭和18年、昭和47年、いずれの連作にも、瀬波岩船の自然とのんびりした温泉の雰囲気が詠まれています。文明にとって瀬波岩船は繰り返し訪れてもいいくらい気持ちよく仕事のできる場所だったのだと思います。
9月29日に、古い町並みが残る村上市内を散策した後、ホテルのマイクロバスで瀬波温泉に行き、1泊しました。天候が曇りだったので、日本海に沈む夕日は見ることはできませんでしたが、西の空は薄すら赤くなっていました。海が見渡せるお風呂にのんびり入ったあと鮭の兜煮を食べる幸せは、歌のとおり「今日の安けし」でした。








