特別館長日記
子規の球春
群馬県立土屋文明記念文学館は、平成8年7月11日に開館し、今年30周年を迎えます。記念の企画展として、「正岡子規とアララギ」を計画しています。
正岡子規がいなければ、アララギの短歌は生まれなかったし、伊藤左千夫、島木赤彦、斎藤茂吉をはじめとするアララギの先達がいなければ、土屋文明の短歌も生まれなかった、そして、土屋文明記念文学館も建てられることはなかったと考えるからです。
子規については、昨年の2月にも「子規庵をたずねて」という題で書かせていただきましたが、その時は訪ねることができなかった場所を今回訪ねたので書かせていただきます。
(特別館長日記「子規庵をたずねて」https://bungaku.pref.gunma.jp/2304/)


まず、上野公園にある正岡子規記念球場を訪ねました。東京文化会館に隣接して小さな草野球場があります。以前も傍を通ったことがあると思います。入り口には看板もあるし、ボールをかたどった句碑や説明版もあるのですが、子規を記念した施設とは気づきませんでした。
子規と野球については、神田順治著『子規とベースボール』(ベースボール・マガジン社)に詳しく書かれています。以下はその抜粋です。
子規がベースボールに興味をもち始めたのは明治19年、翌20年には「第一高等中学校の名キャッチャー」と呼ばれた。子規は明治21年頃から特に野球に熱中し、その年から順次発表された随筆『筆まかせ』で野球のことをたくさん書いている。第一編では、遊びの中で「愉快とよばしむる者ただ一ツあり」としてベースボールを挙げている。第二編では、自分が演説をするなら「ベース、ボール玄論」と述べ、自らの雅号の一つに「野球」を挙げている。第三編では、明治23年3月21日上野公園博物館横の空地で野球の試合をした様子を、独自に考案したと思われるスコア・カードを載せながら報告している。第四編では、冗談を言うときも野球を引用するほど「正岡升ベースボールに耽る」と書いている。そして、明治29年新聞『日本』に掲載された随筆『松蘿玉液』で、3回にわたり、本格的なベースボール論を展開している。
正岡子規は野球を広めた功績が認められ、平成14年に野球殿堂入りしています。「打者」「走者」「直球」などは子規の訳語と言われています。
春風やまりを投げたき草の原 子規
という句碑が記念球場の傍らに立っています。
高校野球が始まり、まもなくプロ野球や大学野球も始まりますが、子規が野球界に「野球を楽しむ心」を遺したように思います。
古を学ぶは新しき道のため子規の尚古はただ改新のため 文明
この短歌のとおり、正岡子規の人生は、野球だけでなく、さまざまな分野で、古いものに学びながら新しいものを追求する生涯でした。



次に、子規の墓所のある田端の大龍寺を訪ねました。住宅地の中にあり、分かりづらかったのですが、道を歩いていた地元の中学生が場所を教えてくれました。大龍寺は改装中のため支柱に囲まれていました。子規の墓は本堂の左横に広がる墓地の奥まった所にありました。中央に「子規居士之墓」、その右側に母の「正岡八重墓」、左側に「正岡氏累世墓」と並んでいます。さらに左側に平成19年建立の新しい墓碑も立っていました。
墓碑の銘は、子規自身が友人の河東可全(碧梧桐の兄)に託した紙片の筆跡で刻まれています。銘の最後に刻まれた「明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓」の□が哀れを誘います。子規は実際に亡くなる4年前の明治31年に「コレヨリ上一字増シテモ余計ジャ」という手紙とともにこの銘を託しました。「月給四十圓」に子規らしいユーモアが感じられ救いとなっているように感じました。


仕舞いに、羽二重団子本店を訪ねました。前回も訪ねて団子は食べたのですが、不勉強で「正岡子規・漫録セット」は食べそこねました。今回は迷わず注文し、子規が妹の律に買ってこさせてペロリと食べたという「あん付き3本、焼き1本」を食べてみました。そのボリュームに圧倒され、子規のエネルギーの源泉が食欲にあったことを実感しました。


せっかくなので、子規庵にもよって卓のまえに坐り、糸瓜をながめ、次回は笹の雪で豆腐料理を食べようと決めて帰途につきました。







