群馬県立土屋文明記念文学館

130周年

特別館長日記

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12月8日

12月8日といえば、「太平洋戦争開戦の日」ですが、最近の私にとっては、「文明先生の命日」という思いがずっと強くなっています。
文学館の庭には、先生が愛した橙の木がたくさんの黄色い実を付けています。先生が眠る慈光寺の木々も冬支度を整えたことと思います。

 

百年はめでたしめでたし我にありては生きて汚き百年なりき 文明

土屋文明は、1890(明治23)年9月18日に生まれ、1990(平成2)年12月8日に亡くなるまで、明治、大正、昭和、平成の4つの時代を生きました。
30代のまだ若い頃、短歌をやめ教育者として生きていこうとしたにもかかわらず、自分の信念が受け入れられないと、長野県当局の転任命令を拒否して校長職を辞任しました。
40代から50代前半の日中戦争から太平洋戦争の頃、当時の国民としては普通のことでしたが、戦後の価値観とは相容れない歌も詠みました。
陸軍省の嘱託として中国各地を旅したこともありました。旅の中で詠んだ歌は『韮菁集(かいせいしゅう)』として発表されました。戦いの勝利を願ったり、祝ったりする歌も詠んでいますが、戦いに斃(たお)れていく兵の悲劇、中国の文化への尊敬の念や人々への親愛の情を込めた歌もたくさん詠んでいます。

文明は、1930(昭和5)年から1952(昭和27)年までの22年間、歌壇の中心であった『アララギ』の編集発行人として短歌界を牽引しました。
特に、日本で最も長い伝統をもつ短歌(和歌)という文学を、太平洋戦争後の「第二芸術論」に代表されるような混乱から守った功績は、明治維新の「混乱」から守った正岡子規のそれに匹敵すると思います。
「現在の短歌には、日本民族の伝統というものがよほどの分量ではいっている」
「簡単に現在のような商業主義文化受用方式がいつも優先するものだとは考えられない」
「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌といふものは…いかなる社会機構の中でも存在しつづける」
こうした文明の言葉は、今も色褪せることがありません。

100年の人生にはいろいろなことがありました。文明先生は良いことも悪いこともすべて含めて「生きて汚き百年なりき」と詠んでいるような気がします。

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