特別館長日記
「五人娘」
水郷で有名な佐原から西に10キロ程度離れたところに、神崎という町があります。
町の中心に神崎神社(境内に水戸光圀由来の「なんじゃもんじゃ」の楠木)の丘があり、北側には群馬に比べ、だいぶ川幅が増した利根川が流れています。「発酵の里」神崎は水田が豊かに広がり、古来すぐれた酵母菌が住み着いているので、酒造りや味噌造りが主要な産業として行われてきました。
寺田本家は江戸時代から続く創業340年以上の造り酒屋で、その主力の自然酒が「五人娘」です。土屋文明が命名しました。
明治42年、弟子入りした文明の優れた資質を見抜いた伊藤左千夫は、文明を将来の文学界を担う人物として大成させるために、帝大に進学させたいと考え、学費の支援者を探しました。そのとき、支援を承諾してくれたのが、すでに『アララギ』も支援していた寺田憲でした。寺田憲は、寺田本家の20代当主で、歌をたしなむ文化人でした。
やがて、23代当主の寺田啓佐氏が苦労して造りあげた自然酒への命名を文明先生にお願いしたとき、先生は、昔寺田本家を訪れたとき、娘さんがたくさん挨拶に出てきて驚いたのを覚えていて、その清純さと明るい雰囲気にちなんで「五人娘」と命名したそうです。ところが、実際は寺田家の娘さんは3人で、お母さんとお婆ちゃんは「文明さんはあたし達も娘にしてくれた」と喜んだというエピソードも伝わっています。
寺田本家には、「これが酒蔵」という存在感が漂っていました。門脇の店舗には、外にも内にも文明自筆の「五人娘」の布看板が下がっていて、「遠いのによく訪ねてきたな」と文明先生が言ってくれているように感じました。
「五人娘」のかすみ酒とお猪口を買ってお店の女性にご挨拶申し上げると、「五人娘」が背後の神崎神社に湧く水で造られていることなど、いろいろなお話をしてくださり、寺田憲氏の歌碑除幕に参列したときの文明の写真も見せてくれました。しかし、学費を支援していたことには決して触れようとはしないことに寺田本家の品格を感じました。
寺田本家の脇を通って背後の神崎神社の丘に登ると、参道の途中大木の下に、寺田憲の歌碑がありました。
碑には歌2首が刻まれていました。
新酒のかをりよろしも我醸みしこの新酒かおりよろしも
咲く花の香取とふ酒をくむ人は憂をとはに忘れてあらむ
裏の碑文末尾には、「昭和五十三年十月 受恩後生土屋文明 謹識」と刻まれていました。表裏合わせれば相当の字数で、文明先生が文字を書くのが大嫌いなことを知っている者には、先生が寺田家にいかに感謝していたか、さらには先生の義理堅さがよく伝わります。
此の石に君を彰はすついでにて君に受けたる名をぞとどむる 文明
旧制第一高等学校の入学試験は、願書締め切りが6月上旬、試験が7月中旬だったので、私が神崎を訪れた5月10日頃には、すでに寺田憲氏の学費支援が決まり、文明先生は入学試験に向けて勉強していたのでしょう。神崎はそのようなことに思いを馳せることのできる落ち着いた町でした。