特別館長日記
世に従はず背かぬ
先日、深谷シネマで「わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-」を鑑賞しました。
映画は東京女子大で万葉集の講義をする土屋文明が諏訪高等女学校長時代の教え子伊藤千代子のことを女学生に語る回想シーンから始まります。
千代子は大正11年に生徒代表として答辞を読んで諏訪高等女学校を卒業します。地元の代用教員等を経て東京女子大に進学した千代子は、大学の社会科学研究会に参加し、共産党員の浅野晃と結婚、自らも入党して活動しますが、治安維持法違反で逮捕されます。厳しい転向の強要を拒否し続けますが、夫の転向を伝えられると、精神に異常をきたし、やがて亡くなります。
昭和10年に、東京女子大を講演で訪れた文明は千代子を偲び、「某日某学園にて」と題して短歌6首を詠んでいます。
語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
清き世をこひねがひつつひたすらなる処女等の中に今日はもの言ふ
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきておもはむ〈映画でも紹介〉
高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき
非運の死をとげた教え子を悼む気持ちがひしひしと伝わってきます。
文明は戦前の不幸な時代をどう生きていたのか、私は大変興味をもっていますが、現時点では、次のように推測しています。
○自由を束縛する軍国主義的な社会のあり方に強い不満を持っていた。
○社会との決定的な対立は避け、歌人としてできることを積み重ねた。
暴力をゆるし来し国よこの野蛮をなほたたへむとするか
代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき
芝の上に子を抱く兵多くして君若ければこともなく見ゆ
信濃にて此の国の磯菜食ひたりき世に従はず背かぬ吾等にて
おそれつつ世にありしかば思ひきり争ひたりしはただ妻とのみ
などの短歌はこの推測に端的に合っていると思います。
文明が太平洋戦争末期に陸軍省嘱託として中国を旅しながらも、当時の社会通年に反し中国の文化や民衆を尊重する短歌を詠んでいるのも同様です。
方を劃す黄なる甍の幾百ぞ一団の釉溶けて沸ぎらむとす
垢づける面にかがやく目の光民族の聡明を少年に見る
社会に矛盾を感じたとき、弾圧を恐れず一気に解決しようとする生き方と、激しい衝突を避けて少しずつ改善していく生き方があります。文明はどちらかと言えば後者でしょうが、前者の千代子のような生き方も理解し同情していたのだろうと思います。