群馬県立土屋文明記念文学館

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斎藤茂吉のふるさとを訪ねて

 ただまねび従ひて来し四十年一つほのほを目守るごとくに
 昭和28年茂吉が亡くなったときの文明の追悼歌です。文明が茂吉を尊敬し、親交を重ねてきたことが分かります。文明が茂吉と最初に出会ったのは明治42年4月11日、上京の翌日伊藤左千夫に連れられて参加した歌会においてでした。以来二人は多くの時間を共有し、短歌の発展に他に類のないほどの大きな役割を果たしました。文明が昭和5年から22年間務めた歌誌『アララギ』の編集発行人も、茂吉から引き継ぎ、引き継いだ後も茂吉の意見を尊重しながら務めました。
 そのようなことから、常々私は、文明を知ろうとするなら、茂吉を知ることが必要であり、茂吉の生家がある金瓶や斎藤茂吉記念館を実際に訪れ、肌で茂吉を感じることが大切だと考えていました。
 
 この度、土屋文明記念文学館の燻蒸休館と私の利用するJRの「大人の休日倶楽部パス」の期間が一致したので、6月22日(土)に行ってきました。高崎駅から上越新幹線で大宮駅へ、東北新幹線に乗り換えてかみのやま温泉駅まで行きました。同駅からはタクシーで金瓶へ行き、茂吉の生家、茂吉の学んだ金瓶学校、茂吉生前自らが作った「茂吉の墓」のある宝泉寺、茂吉の母の火葬が行われた地域の火葬場跡などを見学しました。タクシーが去ったあとの金瓶の集落は静かで明治の昔にタイムスリップしたようでした。通りの向こうから袴を穿いた茂吉少年が今にも現れそうでした。

金瓶の通り

茂吉の生家(守屋家)

茂吉が通った金瓶学校

宝泉寺山門

宝泉寺の歌碑
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

宝泉寺にある茂吉の墓

金瓶の火葬場跡

火葬場跡の歌碑
灰のなかにははひろへり朝日子ののぼるがなかにははひろへり

 金瓶の集落の周囲は田植えの終わった田んぼで、文明が育った保渡田の場合は桑畑ですが、二人がいずれも自然豊かな農村で育ったことをあらためて実感しました。茂吉が蔵王山を、文明が榛名山をそれぞれ愛し、故郷を離れた後、しばしばなつかしく思い出していたこと、茂吉が養家の斎藤紀一に、文明が伊藤左千夫に大学進学の道を開いてもらったことなど、二人の似ているところを考えながら、金瓶を小一時間散策しました。
 その後、タクシーを呼んで茂吉記念館へ行きました。記念館は明治天皇が訪れた「みゆき公園」のなかにありました。土屋文明記念文学館も「上毛野はにわの公園」のなかにあり、天皇が訪れたことがあるので似ています。
 まず、明治天皇が休憩された環翠亭、茂吉の次男北杜夫の小説にも登場する箱根山荘の勉強部屋(移築されたもの)、茂吉の歌碑を見学しました。建物はしっかりと保存され、歌碑はいずれも立派でした。

記念館のあるみゆき公園入口

環翠亭

移築された箱根の勉強部屋

みゆき公園内の歌碑
ゆふされば大根の葉にふるしぐれいたく寂しく降りにけるかも

みゆき公園内の歌碑
蔵王山その全けきを大君は明治十四年あふぎたまひき

記念館前に立つ茂吉胸像

 その後、記念館を見学させてもらいました。貴重な資料がたくさん展示されていること、映像や写真等で分かりやすくすることを心がけていること、文字による解説は最小限に抑えていること、空白を多くして観る人の負担感を少なくしていることなど、優れた構成になっていると感じました。学芸員の五十嵐義隆さんから、数回の改修の過程でさまざまな工夫を加えて現在に至っているというお話を伺い、『斎藤茂吉記念館』の図録もいただきました。土屋文明記念文学館も令和8年の開館30周年に向けて常設展示室のリニューアルを検討しているので、参考にさせていただきたいと考えています。

茂吉記念館前駅

 帰りは、電車時刻の都合で、茂吉記念館前駅から反対方向の山形駅へ行き、山形城址跡を見て、かみのやま温泉駅にもどり、上ノ山城や温泉街を見学し、若干のお土産を買って新幹線に乗りました。梅雨入り直前の東北でしたが、天候に恵まれ、暑さも我慢できる程度だったことが幸運でした。

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