特別館長日記
浅虫温泉(海に沈んだ歌人を想う)
文明の歌集『続青南集』に「津軽浅虫」の題で21首の短歌が載っています。そのうち以下の9首は、文明が昭和39年に浅虫温泉を訪れ、すでに故人であった桜田角郎(明治38年~昭和29年)という人物を思い出して詠んだ短歌のようです。
港の灯と思ふあたりを見て寝ねき明時の汽笛ゆるやかに聞ゆ
送りたる根室の鮭は我に到り君は颱風に船に沈みき
米持たぬ我等迎ふと海渡り来りて米を求めあるきし
温泉の町に君が探しし米を食ひ塩はゆき温泉に共に宿りき
在りし日も亡きあともかなしき物語君がうへに聞く心にしみて
君得意にて朝鮮神社にみちびきき間もなく国の破るるにあふ
国の破るる待たずにありし君の不幸君が言はねば我知らざりき
君が納屋にひそかにかみし馬鈴薯の濁り酒も思へば悲しき一つ
朝の海くもりて静かなる前の島に向ふあひだも亡き君思ほゆ
これらの短歌が桜田について詠んだものらしいということは、関西アララギ会員による文明短歌研究で知りました。その後、旧制函館中学校、函館中部高等学校の同窓会である「白楊ヶ丘同窓会」の東京支部の会報「東京白楊だより」の第18号(平成7年7月20日発行)に、昭和13年卒業の同窓生井上勲氏が「昭和万葉集と桜田先生」と題して投稿されているのを発見しました。
それによると、桜田は、神宮皇学館を卒業後、旧制函館中学校などで国語を教えましたが、昭和17年には朝鮮に渡り国策で造られた光州神社の主典(宮司)となりました。昭和20年に召集され、終戦を迎えましたが、宮司であったことから戦後は公職追放となり、大変苦労しました。そして、昭和29年9月26日、桜田は運悪く颱風で沈没した洞爺丸に乗り合わせ、この世を去りました。
『アララギ』の昭和9年5月号には、「函館大火」の題で、同年3月21日に被災した体験をもとに、
重傷 負える妻を引き連れ念じ来し砂山もすでに災 の海となりぬ
目の前に災となりし人いくたり見つつ術なく吾等逃げ行く
など、桜田が詠んだ短歌5首が載っていることも記されていました。
井上氏の投稿を参考にして、文明の短歌を読むと、桜田が文明を師として慕い、厚くもてなしていたことがわかります。光州神社の主典在任中には、朝鮮を訪れた文明の案内をしたり、太平洋戦争後は、食料不足のなか浅虫温泉を訪れた文明一行のために、北海道からわざわざ海を渡ってやって来て、米を調達したりしてくれたようです。海難事故で亡くなる直前には根室産の鮭を送ってくれたようです。
事故から10年後に桜田との思い出の地である浅虫温泉を訪れ、海を眺め、遠くに青函連絡船の港である青森港を望みながら、自分に尽くしてくれた桜田のことを回想して詠んだのがこれらの短歌です。
このようなことが分かってくると、どうしても浅虫温泉へ行ってみたくなりました。当日は、上越新幹線、東北新幹線で新青森に着き、弘前に寄り道したのち、青森駅から青い森鉄道に乗り、20分くらいで浅虫温泉駅に着きました。駅を出ると、穏やかな海が、岸近くに大きな湯の島を配し、湾状に広がっています。陸続きの左奥には、青森の市街が小さく見え、その背後には岩木山が望めます。見晴らしのよいホテルに一泊しましたが、温泉は塩はゆく、海は昼、晩、朝と、さまざまに変化し、美しさの尽きることがありませんでした。それだけに、人生のはかなさを思い、感傷的になりました。そして、苦労が尽きず、最後は海難事故でこの世を去った桜田角郎のことを思わずにいられなかった文明に思いを馳せることになりました。
青い森鉄道
浅虫温泉駅
浅虫温泉旅館街
海の向こうに青森市街と岩木山を望む
青が鮮やかな浅虫の海
夕日の沈む浅虫の海