特別館長日記
森鷗外と文明
9月27日(土)、上野の東京都美術館でゴッホ展を見た後、千駄木の森鷗外記念館を訪ねました。この場所に、鷗外は1892(明治25)年30歳の時から1922(大正11)年60歳で亡くなるまで暮らし、家の2階から海が見えたので、自ら「観潮楼」と名付けました。



1907年から10年にかけては、俗に「観潮楼歌会」と呼ばれる歌会が開催されました。鷗外を中心に、伊藤左千夫、与謝野鉄幹、佐佐木信綱など、当時の短歌界を代表する歌人が集まり、切磋琢磨を重ねました。斎藤茂吉、北原白秋、石川啄木も参加しています。
文明はまだ上京したばかりで参加していませんが、恩師の左千夫や兄弟子の茂吉からその様子を聞き、鉄幹をはじめとする「明星」のグループにライバル心を燃やしていたエピソードが伝わっています。
文明は、「信濃の六年」のなかで、鷗外との出会いについて書いています。
上野精養軒で一高文芸会とかいう会合に、先生をお招きして、話を聞いたことがある。私はもちろん、遠い席から、会の進行をながめるだけであったが、その時は、多分先生は役所からのお帰りがけで、軍服であったと記憶するが、正倉院の先生は背広姿の若々しくさえ見受けられる御様子であった。
(『羊歯の芽』より)
一高校友会雑誌300号『橄欖樹』によれば、鷗外を招いた文芸会は1912(明治45)年に開催されました。文明が正倉院で鷗外に面会したのは、1920(大正9)年の11月でした。長野県諏訪高等女学校長をしていた文明は、大阪で開催された全国会議に出張した際に、奈良を訪れ、正倉院の曝涼を拝観し、帝室博物館総長を務め、正倉院に滞在していた鷗外と対面しました。当時鷗外が『アララギ』に歴史小説を連載していた縁で、島木赤彦が仲介したものでした。
文明の文章を読むと、何度も「先生」という語が使われ、鷗外を尊敬していることがよく分かります。文明は、作歌の基礎として、万葉集の和歌4000余首すべてに注を付すくらい精力的に研究したように、基盤となる学識を蓄えることを重視した文学者です。おそらく鷗外に見習うべきものを見ていたのだと思います。
戦後まもない昭和21年文明は再び正倉院を訪れ、10首の短歌を詠んでいます。鷗外との思い出もよぎったに違いありません。
正倉院展観に寄せて
西の方遠き世界につながりて今見る青く美しくくぐもる光
魚とも言へ毛物とも言へ吾が前に青き光に包まれ生きたるその物
黄河思へば水上にしてうづまける雲の下ゆく西方の道
背に恋ふる雪の朝の皇后よ強くも見ゆ豊かにも見ゆ藤三娘の自署
身分違ふ藤家の美人得させむに民を納得さする御言のりあり
海の上の小さなる国さびしめどこまかく鏤めて命生きにき
古しへに通ふ心の限られて狭きを取りののしるは誰ぞ
押され気味に進む群衆の一人にて朱蜜陀の前に吐く息硝子の曇となる
てる日の下秋靄ごもり奈良は見ゆ小さなる鹿草拾ふらむか
けむりひとつ陰れる町の中に立ち大きなる甍枯色の山
地下鉄の千駄木駅から坂道を5分程度上ったところに森鷗外記念館はありました。残暑が厳しい日だったのでたいへんでしたが、「観潮楼」へ来たという気分を味わうことができました。ボランティアの方に案内をしていただいたので、貴重なものを見落とさないですみました。「観潮楼址」の碑。永井荷風書の詩碑「沙羅の木」。鷗外が暮らした当時のもので現存している貴重な銀杏の木。その下にある「三人冗語の石」(『めざまし草』連載の鷗外・幸田露伴・斎藤緑雨合評の文芸批評に由来する)。かつて海が見えた方角にはビルの間にスカイツリーが見えていましたが、かつては海が見えていたことを想像することはできました。



館内ではコレクション展「小説『舞姫』をよんでみよう!」が開催されていました。跡見学園女子大学所蔵の「森鷗外自筆 舞姫草稿」が展示されていたので、高校で教えていた頃のことを思い出しながら観覧しました。常設の展示も興味深いものがたくさんで森鷗外に親しむ良い機会になりました。
