群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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「青き上に」とは(私論)

<歌碑「青き上に」>

 青き上に榛名を永久の幻に出でて帰らぬ我のみにあらじ 文明

 文明が生前唯一歌碑にすることを認めた短歌と言われています。

 歌碑は、「上毛野はにわの里公園」に建つ土屋文明記念文学館の前庭の小高い築山の上にあります。

 歌碑の除幕式が当時の群馬町(2006年に高崎市に合併)によって行われたのは1990年9月5日でした。3か月後に百歳の生涯を閉じる文明は式に出席することはできず、長女の小市草子夫妻が出席しました。

 文字は、文明の母校上郊小学校に送られた色紙の筆跡に従っています。そのため、歌集では「とはのまぼろし」と表記されていますが、歌碑は「永久の幻」となっています。

<青空に映える榛名山>

 青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ

 この短歌は、昭和35年の『短歌』十月号に「七十年」(「群馬郡上郊村」13首、「五万分一地形図榛名山」13首、「ポプラのある学校」9首からなる)の「五万分一地形図榛名山」)の最後の短歌として発表され、歌集『青南集』に収録されました。「七十年」とは、この年70歳の文明が70年の人生を振り返って詠んだということだと思います。「五万分一地形図榛名山」とは、東京の南青山で暮らす文明が榛名山周辺の地図を見ながら故郷を思い出して詠んだということでしょう。

 当館で作成した『群馬が生んだ大歌人土屋文明ってどんな人??』では、「青い草木の上にそびえる榛名山はいつも私の心の中にあり、なつかしいが、故郷には帰る家もない。しかし、私と同じような立場の人はたくさんいる。自分だけでなく、近代の社会になって増えた、故郷を離れて暮らす人々の悲しみを大きくよみこんだ短歌です。」と紹介しています。

 この短歌の解釈が分かれるのは、「青き上に」とはどのような情景なのか、つまり、文明は地図を前にどのような情景を思い浮かべてこの短歌を詠んだのかということです。

大まかにいえば次の4つに分かれています。

①青い草木の上に

②青い桑畑の上に

③青く澄んだ空の上に

④小高く青い山々の上に

 統計を取ったわけではありませんが、歌人たちの解釈は①、②の順に多いように思います。当館も前述のPR冊子では、多数が指示する解釈に従い、①を採用しています。文明はしばしば、草木の緑を「青」と表現します。また、文明が育った頃の群馬県は、養蚕が盛んで桑畑が一面に広がり、文明の父親も繭の仲買関係の仕事をしていたので、②の可能性もあります。

<色紙「青き時」>(この短歌の「青」は緑)

 榛名山は単独の山ではなく、複数の山の総称なので、理屈上は④の解釈も成り立ちますが、文明の育った上郊村からは小高い山の上に榛名山がそびえているようには見えないので、④の解釈は無理があるような気がします。

 私の結論を申し上げれば、③の解釈を選びます。

 根拠は次の3つです。

 根拠1:私は当館に勤めて9年、毎朝車で榛名山を眺めながら通ってきました。季節や天候によって山は姿を変えますが、最も美しく見えるのは秋晴れの青空を背景にそびえる濃い緑色の榛名山のような気がします。青空の青と榛名山の濃緑の対照がそれぞれの美しさを引き立てます。19年間上郊村で暮らした文明も最も美しい情景を思い浮かべ短歌に詠んだに違いありません。

 根拠2:榛名山に向かい、少しずつ高くなる草木の青は、榛名山と一つながりで切れ目なく一体に見えます。草木と榛名山は対比して表現することはむずかしいと思います。根拠1、2については、「青空に映える榛名山」の写真をご覧ください。

<「青き上に」の歌稿>

 根拠3:当館の常設展示室には、「五万分一地形図榛名山」の歌稿が展示されています。この歌については、2点の校正が見られます。ひとつは、「とは」と「永久」を迷った末に「とは」と平仮名書きにしています。もうひとつは、「青き上の」を直して「青き上に」としています。

 重要なことは、この短歌を詠むときに、文明が思い浮かべていた情景は「青き上の」とも言える情景であったということです。「上の」は「上に」より前後にあるもの(「青き」と「榛名山」)の密着度が強いと思います。あるいは、前にあるもの(「青き」)が後にあるもの(「榛名山」)を包括しているとも言えます。このように考えると、青い草木の上に榛名山が並んでいる情景を表現しているのではなく、青空を背景に榛名山がそびえている情景を表現していると解釈する方がよいように思います。

 真相は文明先生に聞かなければ分からないのですが、9年間毎朝榛名山をながめ、常設展示室の歌稿を身近に見ているものとして、私はこのように考えています。

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