群馬県立土屋文明記念文学館

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左千夫の生家を訪ねて

 秋草の草山岬に吾立ちてあはれはるかなり九十九里のはては 文明

 3月29日、山武市にある伊藤左千夫の生家を訪ねました。周辺は、田畑が広がり、簡素で、たいへんのどかでした。
明治42年4月10日、旧制高崎中学校を卒業した文明は、文学を志し、茅場町(現在の錦糸町駅付近)で牛舎を営む左千夫のもとに上京しました。文明の才能を素早く見抜いた左千夫は、学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校へ進学させました。
左千夫は、文明にとって、『アララギ』に迎え入れ、様々な薫陶、支援を与え、文学者として大成する道を拓いてくれた恩人です。
 冒頭の歌は、生家近くの伊藤左千夫記念公園に、左千夫ゆかりの歌人として、歌碑が建てられています。
 昭和8年頃の作ですが、文明は、雄大な九十九里浜と、大正2年文明が東京帝大に進学する直前に急死した左千夫を重ね合わせて詠んでいるような気がします。

 

〈『野菊の墓』の記念像、アララギ八歌人の歌碑などがあります。〉

 牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る 左千夫

生家の入り口にこの歌の大きな歌碑が建てられていました。

〈入り口に「牛飼…」の歌の歌碑があります。〉

茅葺平屋建ての母屋と土蔵は、約200年前に建築されたもので、中農の家構えということです。傍らには、移築された茶室「唯真閣」もありました。

〈左千夫が愛した茶室〉

 左千夫は、政治を志し、法律の勉強のために東京に遊学しながらも、眼疾のため郷里に戻りました。しかし、末子のため家を継ぐ立場になかったので、当時景気のよかった乳牛の仕事に就くため再度上京し、文学の道に進んでいきます。生家をながめながら、文明のことも思い浮かべ、左千夫の人生に思いを馳せました。

 天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り 左千夫

 左千夫の生家から車で10分ほど行くと、この歌の碑が建っている本須賀海岸に行くことができます。広い砂浜がはてが見えないくらい続き、正面には太平洋が広がっていました。文明は、この歌を評し、「そののびのびとして居て、しかも緊張した調子、大自然と人間との調和が無理なくあらはれてゐるなど、まずまず左千夫短歌の一頂点といひ得るであらう」と述べています。文明にとって、伊藤左千夫は、九十九里の浜の向こうに広がる太平洋のように大きな存在だったのだろうと思います。

〈「天地の…」の歌の歌碑があります。〉

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