特別館長日記
槻の丘(墓参り)
12月8日は文明先生の命日です。今年は、当日が日曜日で、恒例の暮鳥文明まつりが文学館で開催されたので、13日、職員4名で、埼玉県比企郡ときがわ町にある文明のお墓と菩提寺である慈光寺にお参りしました。
墓地入口
土屋家墓
墓参り
亡き後をの歌碑
紅葉の山道
慈光寺山門
多羅葉樹
文明のお墓は、慈光寺に向かう山道の途中、けやきなどの樹々に囲まれたこぢんまりした墓地にあります。私がお参りしたのは、3年ぶりくらいですが、樹々が大きくなり、墓が増えていることに時の流れを感じました。
墓地はよく管理され、落ち葉がわずかに散っているくらいで、たいへん整然としていました。土屋家のお墓には花が進ぜられており、まだそれほど日が経っていないように見えました。私たちも花をお供えし、お線香を上げて手を合わせました。
墓地の傍らの歌碑は、紅葉を背に、以前と変わらずひっそりと建っていました。
亡き後を言ふにあらねど比企の郡槻の丘には待つ者が有る(『青南後集以後』)
この歌碑を見ると、長男や妻に先立たれた文明のさびしさをいつも思い出します。
文明は、昭和49年に長男の夏実氏が亡くなった後、子がいたにもかかわらず、長野県教員を辞めた、50年前のことを悔いて詠んでいます。
ほしいままに職を捨て幼きを養はず悔いて言ふとも五十年前
昭和57年に最愛の妻であるテル子さんが亡くなった時に詠んだ絶唱もあります。
さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝を柩に
終わりなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ
いずれも『青南後集』に収められています。
お墓にお参りした後、紅葉の山道をさらに上って慈光寺を参拝し、ご住職にご挨拶申し上げ、土屋家の位牌にも手を合わせました。
慈光寺は673年創建のたいへん由緒のあるお寺で、宝物館には国宝「慈光寺経」なども蔵し、境内には「はがき」という言葉のもととなった「多羅葉樹」の木もあります。
久しぶりに比企を訪れて、文明先生が永眠するにふさわしい山とつくづく思いました。
ああ久米正雄
11月14日に福島県郡山市にある「こおりやま文学の森資料館」を訪ねました。広い敷地の中、紅葉した木々に囲まれ、郡山市文学資料館と郡山市久米正雄記念館の2つの施設がありました。
こおりやま文学の森資料館(正面入り口)
こおりやま文学の森資料館(外景)
久米正雄記念館
久米正雄記念館応接室
久米正雄銅像(文学の森内)
久米正雄句碑(文学の森内)
久米正雄句碑(開成山公園内)
宮本(中条)百合子文学碑(開成山公園内)
久米正雄(俳号三汀)は明治43年に旧制第一高等学校に入学し、前年に入学したもののドイツ語の単位を落として留年した土屋文明と同級になり、二人の付き合いが始まりました。特に、大正7年に文明が長野県諏訪高等女学校教頭として赴任するまで、文学活動をともにしながら親しくしていました。
資料館には、大正7年に文明が久米に送った封書とはがきの2つの資料が展示されていました。
封書は、1月4日付で、夏目漱石の娘筆子との縁談が破談となり、失意のうちに郡山に帰省した久米に、「君が立つ時から田舎に於ける生活の単調に君が堪へられるかどうか心配して居たそれで今朝の君のたよりを受けて矢張君には東京以外の地の適しないことを知った」と書き、帰京を促しています。文明の言葉のとおり久米はこの手紙が郡山に着く前にすでに帰京していたそうです。後に久米はこの失恋を題材として小説「破船」を発表しています。
はがきは、日付がはっきりしませんが、久米が文明に依頼していた『帝国文学』の小説原稿の執筆が遅れていることを詫び、まもなく長野県へ行かざるをえないことを告げるものです。結局は、5月1日発行『帝国文学』24巻5号に、「弟を死なす」という文明の小説が発表されます。
昭和41年に上毛新聞に連載した「折り折りの人」の第7回で、文明は久米との思い出を詳しく書いています。
「久米は碧梧桐の『日本及日本人』の新傾向作者として知られていたから、その一高入学は、私の耳にも久米を見ないうちからはいっていた。」
「三年の時であったろう。久米は少し身体をこわしたというので逗子に転地したことがある。一度泊りがけで遊びに来ないかというたよりをもらったので出かけた。…駅近くの菓子店でバラ売りのキャラメルを五十銭か八十銭買って持った。」
「『新思潮』を出すと時に、私を仲間に入れたのは、たぶん久米が主として考えたのであろう。」
「中条百合子に恋文を渡したのに、なかなか返事が来ない、どうしようなどと訴えたりしたこともある。」(中条(宮本)百合子の祖父と久米正雄の母方の祖父はともに安積開拓に尽力した。)
「東京を引きあげ郡山の母の家に帰るということになり、山本有三君と死んだ中島精一、それに私で銀座の肉屋で別宴をやり、上野駅まで送った。すると、四、五日たったかたたないのに中島が来て、久米は帰っているぜというのだ。」
「私が長野県の学校へ赴任する夜、久米と山本君が天神下で送別の宴をしてくれて、飯田橋駅まで送ってくれた。」
「信州に六年も居って、文学とは遠ざかってしまったから、帰京後も久米と再び親しくする機会はなかった。」
「戦時中文学報国会のことで二年間、いくらかの接触の機会があった。…この満州失言が取り上げられた時、久米がまず羽織を脱ぎすてて、いきおいこんで反論に立ちあがったのは、往年の久米そのままで、今となっては生き残っている私の楽しい思い出である。」
昭和27年3月1日の久米の逝去を受けて、その悲しみを「ああ久米正雄」という題で詠んだ短歌6首が、文明の歌集『青南集』に載っています。
ああ久米正雄
中条百合子まだ処女子の葡萄茶着て道にあひ赤くなりし久米正雄ああ
赤門前今成りし道のすぐなればなべては清く幼なかりにき
恋知らぬ処女子ゆゑに恋ひわづらひ魴鮄の骨焼きて籠りしを
いくつかは吾より若い筈なのに君なきかああこころ遂げきや
送られて飯田町たちし三月より文学に君に疎くなりしかな
猪苗代寒月の波に感じたる若き三汀を吾は思ふなり
この時、文明は62歳。ともに過ごした若い頃をなつかしく思い出しながら、久米の逝去を悼んでいます。
横須賀を訪ねて
JR横須賀駅の外に出ると、海沿いにヴェルニー公園がありました。
ヴェルニー公園から望む横須賀軍港
ヴェルニーは、横須賀造船所の基礎を築いたフランス人技師で、造船所の建設を提案した江戸幕府勘定奉行小栗上野介とともに、公園内に銅像があります。公園からは、米軍や自衛隊の基地が見え、いろいろな艦船が停泊していました。右手には造船所のドックが並び、建造中あるいは修理中の艦船が見られ、槌音も聞こえてきました。
ヴェルニーの銅像
小栗上野介の銅像
公園やその周辺は、観光客で賑わい、軍港めぐりの船にはたくさんの人が乗っていました。幼児や犬をつれて散歩している人やベンチに腰掛け海をながめる人もたくさん見かけました。
やや離れたところにある三笠公園でも、国内外のたくさんの観光客が、日露戦争の旗艦三笠を見学していました。
どこも、秋晴れのせいもあって、明るく平和な雰囲気でした。
日露戦争旗艦三笠
土屋文明は、「横須賀」18首を『アララギ』昭和8年3月に発表し、『山谷集』に収録しています。
横須賀
軍艦は出でたるあとの軍港に春の潮みちくらげ多く浮く
静かなる春の潮にボートこぎて声はこだますドックの方に
幾隻か灰色の入渠船の後にて赭き建造船にとどろく音あり
子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず
午ちかく逸見の波止場に集り来るランチの汽笛すでに勇まし
三笠艦見つつし思ふ力つくし戦ふはただに功利のためのみならじ
国を守りの戦ながらひたすらに生命いきほふはそれのみによし
敵またよく戦ひし跡はしるく残る幾千の命ただに戦ひけむ
此所に戦死の人のあと見れば生き死の吾が観念の変るかと思ふ
ただに生死のことのみならず戦争をたたへし思想に思ひ及ぶかも
ふり仰ぐ四十サンチのい砲門の斉射のさまを君説きて聞かす
初弾命中に国の存亡はかかるといふその時の砲術長を思ひ涙ながるる
艤へる軍艦見れば戦争の勝負は決してありとも思はる
戦をここに決すべき工廠を妻子をつれてしばし見物す
列をなし航空母艦を見てあるく小学生等もいたくおとなし
春の日の夕日になりし工廠の戦艦のマストなほ酸素燃ゆ
春の日のかぎれる中にひらめきて鉄截る酸素の焔きびしき
わが前の若き士官の友のうへに海行く生吾は思はむ
これらの短歌を読んだ時、私は強い衝撃を受けました。
昭和8年2月、国際連盟は、総会を開催し、満州事変、満州国建国等に関するリットン調査団の報告を受けて日本に対する撤退勧告案を可決しました。これに対し、日本は翌3月、勧告を拒否し、国際連盟を脱退しました。文明が「横須賀」18首を詠んだのは、まさに日本が太平洋戦争敗戦に向かっていく歴史の転換点でした。
文明は、豊富な教養を有する知識人でしたし、社会状況から率直に詠むことは控えていましたが、当時の政府や軍隊に対して批判的な視点も有していました。
しかし、文明が詠んでいるのは、あくまでも日露戦争で独立自衛のために戦った戦艦三笠や、造船で活気づく軍港の様子などです。個々の人間が歴史の実相を見抜くことがいかにむずしいか、ひょっとしたら、現在もそのような歴史の転換点にあって、自分たちが気づいていないだけなのかもしれません。
横須賀を訪れて、そのような思いを再度新たにしました。
横須賀軍港
大石田の文明(芭蕉と茂吉の足跡をたずねて)
文明は、昭和23年8月に大石田を訪れ、そのときに詠んだ短歌が歌集『自流泉』に「大石田にて」という題で掲載されています。
大石田にて
秋海棠の茂りも夜は静まりて打ちたる水ぞ光れる
ここに伝へて古き五月雨の一巻を遠来し吾ははらばひてみる
声出して板垣君がよむ巻物ただ尊みてわれは見てゆく
水の音すがすがとしてはねあがる鯉の池には月のさし来る
橋ながく涼しき川の風ふけばうづくまるも一人二人にあらず
うづまきて盛り上る水に月てれり下関の渡思ひ出づべく
川ひろく月は岸まで照りたれば今宵蛍も認ぎがたしも
君すみし三年思ほゆ聴禽書屋障子ひらきてみゆるたたみも
この茂る馬酔木さながら降り埋むる雪をさまざまに人は話すも
朝の市終りの時にほしきもの長夕顔もしまはれてゆく
もがみ川吾等のらむと芦の間の沙踏みくづし君がみちびく
底ごもる水の音に少しおそれつつ吾等最上の中淀にあり
舟の上に向ひあひたる結城氏の額の汗は日にてらされつ
さん俵しきていこひの君が森も舟より見ればたちまちにすぐ
石をする舟底のひびき感じつつ一つ早瀬を息のみてこゆ
見下して川ゆたかなる山の上の寺にひめしやがの時はすぎたり
川上より川下より友等あつまりて吾にくれたるあめ玉一つかみ
人参の朱の実による妻と吾老のしるしと誰か見るらむ
汽車にのる友数人は最上川渡りて芦の中ゆくがみゆ
大川におちてあつまる支流みゆ其の水の鮎も吾は食ひたり
尾花沢小学校のわづか見ゆいづくの峠人は越えにし
ゆたかなる枝豆引きて人の居りそれをもしばし立ちて見むとす
道暑く足をさし来る靴の釘友は石拾ひまげてくれたり
夕かげる聴禽書屋見下して今宵の鮎を今食はむとす
庭へだてかげれる聴禽書屋ありすでに障子を閉めて静まる
大石田は、かつて最上川の水運でたいへん栄えた船泊の町でした。松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で訪れ、高野一栄亭で3泊し、同行の曾良、一栄、地元の俳人高桑川水と四吟歌仙を巻きました。その記録が芭蕉の真蹟(直筆)で残され、俗に『最上川歌仙』と呼ばれています。芭蕉の発句は、「五月雨を集めて涼し最上川」。高野一栄亭跡の標示と歌仙碑が最上川の堤防脇にあります。
高野一栄亭跡
芭蕉歌仙碑
また、大石田は、斎藤茂吉が昭和20年4月に故郷金瓶に疎開した後、昭和21年2月から昭和22年11月まで移り住み、歌集『白き山』に収められた短歌を詠んだ町でもあります。
最上川の上空にしてのこれるは未だうつくしき虹の断片
(茂吉が好んで散策した虹ヶ丘公園に歌碑があります。)
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
(茂吉の分骨墓地のある乗舩時に歌碑があります。)
茂吉は、地元の素封家二藤部家の離れを借り、「聴禽書屋」と名付けて、一人で暮らしました。食事の世話は二藤部夫人と同家の使用人、諸々の雑事の世話は短歌の門人板垣家子夫がしてくれました。
聴禽書屋の前庭には、移住直後に大病を患い、その病がようやく癒えようとする頃に詠まれた短歌の碑が建てられています。
蛍火を一つ見いでて目守りしがいざ帰りなむ老の臥處に
木々の間に見える聴禽書屋
文明は、昭和23年10月7日付けの手紙で、茂吉に大石田を訪ねたことを報告しています。
「大石田ではいろいろよいところを見せて貰ひました。全く御蔭によるもので、それにつけても御滞在中参上出来なかったのは残念でした。橋のところから船で黒瀧山まで下りました。五月雨の歌仙も見せて貰ひ感激しました。九月の時報告に上るつもりのところひどい暑さで参いてしまひ失礼しました。」(句読点は筆者補充)
この手紙を参考にしながら、文明の短歌を読むと、さまざまな心情がみごとに表現されていることが分かります。
茂吉が自ら名付け2年を過ごした「聴禽書屋」や、最上川をはじめ茂吉が短歌に詠んだ大石田を見ることができた喜び。芭蕉直筆の『最上川歌仙』の巻物を見せてもらった感激。自然豊かで落ち着いた雰囲気の大石田の町の心地よさ。滞在のお世話をしてくれた茂吉の門人である板垣家子夫や結城哀草果への感謝。最上川を下る船旅の楽しさ。多くの知人友人に会い楽しく過ごせた喜び…などが詠まれています。
10月3日、山形新幹線を利用して大石田に行ってきました。大石田は、駅前から見わたすと、町自体は大きいのですが、高い建物はあまりありません。古い家が多く、静かな雰囲気でした。
まず、聴禽書屋を保存している大石田町立歴史民俗資料館を目指しました。道は下り坂でしたが、予想以上に距離があり、疲れたと思い始めたころにようやく着きました。
大石田町立歴史民俗資料館
資料館の案内版に従い、庭にまわって、聴禽書屋を外から眺めました。古い建物ですが、よく手が入り、きれいに残されていました。「蛍火を」の短歌の碑もありました。その後、学芸員の大谷俊継さんの案内で聴禽書屋の屋内を見せていただきました。屋内はたいへんきれいで、外から見たときよりも広く感じました。座敷からは縁側越にさきほどの歌碑が見えました。床の間には茂吉の軸が下げられ、川岸に坐って最上川を眺める茂吉の代表的な写真や、大石田での生活を支えた門人板垣家子夫、結城哀草果と一緒の写真などが飾られていました。大谷さんからは、乗舩寺に茂吉の墓が建てられたいきさつなども教えていただきました。
聴禽書屋全景
聴禽書屋(座敷)
蛍火をの歌碑
資料館から5分くらい歩くと、茂吉の墓のある乗舩寺に着きました。舟運が盛んだった頃の大石田は富み栄え、乗舩寺にはそのころ造られた大きな釈迦涅槃像もあるそうですが、現在はたいへんひっそりとしていました。しかし、茂吉の墓だけはきれいな花が供えられ、整然としていました。
乗船寺山門
斎藤茂吉の墓(乗船寺)
寺を後にし、北上川に懸かる大橋のたもとへ行きました。北上川は、河川敷の幅はそれほど広くありませんが、水量は豊富でした。堤防を東に行き、川船方役所跡を見た後、引き返して西に行き、芭蕉ゆかりの高野一栄亭跡、歌仙碑を見ました。その周囲は必ずしも整備されていませんでしたが、350年ほど前、あの芭蕉が3日も滞在し、「五月雨を」の発句を詠んだことを思うと感慨深いものがありました。
大橋の懸かる最上川
2時近くになり、見物にも疲れたので、大石田そば街道の蕎麦と、文明の短歌にもある鮎を食べようと探したのですが、曜日のせいか、時刻のせいか、空いている蕎麦屋が見つかりませんでした。それでも、お客がたくさんいるだんご屋で、抹茶だんごとみたらしだんごを食べることができました。
駅にもどると、帰りの新幹線までまだ時間があったので、町が見渡せるようになっている駅の屋上から大石田の町をしばらくながめながら、芭蕉のこと、茂吉のこと、文明のことを考えていると、あっという間に、出発の時間になりました。
大石田の町(駅屋上から)
浅虫温泉(海に沈んだ歌人を想う)
文明の歌集『続青南集』に「津軽浅虫」の題で21首の短歌が載っています。そのうち以下の9首は、文明が昭和39年に浅虫温泉を訪れ、すでに故人であった桜田角郎(明治38年~昭和29年)という人物を思い出して詠んだ短歌のようです。
港の灯と思ふあたりを見て寝ねき明時の汽笛ゆるやかに聞ゆ
送りたる根室の鮭は我に到り君は颱風に船に沈みき
米持たぬ我等迎ふと海渡り来りて米を求めあるきし
温泉の町に君が探しし米を食ひ塩はゆき温泉に共に宿りき
在りし日も亡きあともかなしき物語君がうへに聞く心にしみて
君得意にて朝鮮神社にみちびきき間もなく国の破るるにあふ
国の破るる待たずにありし君の不幸君が言はねば我知らざりき
君が納屋にひそかにかみし馬鈴薯の濁り酒も思へば悲しき一つ
朝の海くもりて静かなる前の島に向ふあひだも亡き君思ほゆ
これらの短歌が桜田について詠んだものらしいということは、関西アララギ会員による文明短歌研究で知りました。その後、旧制函館中学校、函館中部高等学校の同窓会である「白楊ヶ丘同窓会」の東京支部の会報「東京白楊だより」の第18号(平成7年7月20日発行)に、昭和13年卒業の同窓生井上勲氏が「昭和万葉集と桜田先生」と題して投稿されているのを発見しました。
それによると、桜田は、神宮皇学館を卒業後、旧制函館中学校などで国語を教えましたが、昭和17年には朝鮮に渡り国策で造られた光州神社の主典(宮司)となりました。昭和20年に召集され、終戦を迎えましたが、宮司であったことから戦後は公職追放となり、大変苦労しました。そして、昭和29年9月26日、桜田は運悪く颱風で沈没した洞爺丸に乗り合わせ、この世を去りました。
『アララギ』の昭和9年5月号には、「函館大火」の題で、同年3月21日に被災した体験をもとに、
重傷 負える妻を引き連れ念じ来し砂山もすでに災 の海となりぬ
目の前に災となりし人いくたり見つつ術なく吾等逃げ行く
など、桜田が詠んだ短歌5首が載っていることも記されていました。
井上氏の投稿を参考にして、文明の短歌を読むと、桜田が文明を師として慕い、厚くもてなしていたことがわかります。光州神社の主典在任中には、朝鮮を訪れた文明の案内をしたり、太平洋戦争後は、食料不足のなか浅虫温泉を訪れた文明一行のために、北海道からわざわざ海を渡ってやって来て、米を調達したりしてくれたようです。海難事故で亡くなる直前には根室産の鮭を送ってくれたようです。
事故から10年後に桜田との思い出の地である浅虫温泉を訪れ、海を眺め、遠くに青函連絡船の港である青森港を望みながら、自分に尽くしてくれた桜田のことを回想して詠んだのがこれらの短歌です。
このようなことが分かってくると、どうしても浅虫温泉へ行ってみたくなりました。当日は、上越新幹線、東北新幹線で新青森に着き、弘前に寄り道したのち、青森駅から青い森鉄道に乗り、20分くらいで浅虫温泉駅に着きました。駅を出ると、穏やかな海が、岸近くに大きな湯の島を配し、湾状に広がっています。陸続きの左奥には、青森の市街が小さく見え、その背後には岩木山が望めます。見晴らしのよいホテルに一泊しましたが、温泉は塩はゆく、海は昼、晩、朝と、さまざまに変化し、美しさの尽きることがありませんでした。それだけに、人生のはかなさを思い、感傷的になりました。そして、苦労が尽きず、最後は海難事故でこの世を去った桜田角郎のことを思わずにいられなかった文明に思いを馳せることになりました。
青い森鉄道
浅虫温泉駅
浅虫温泉旅館街
海の向こうに青森市街と岩木山を望む
青が鮮やかな浅虫の海
夕日の沈む浅虫の海
恩師、伊藤左千夫
7月30日は、伊藤左千夫の命日です。
文明が左千夫の牛舎で働きながら文学を学ぼうと上京したのは明治42年4月10日です。しかし、左千夫は脳溢血のために大正2年7月30日に急死したので、文明が左千夫につかえたのは5年余です。この間、左千夫は、文明に短歌を指導するとともに、さまざまな歌会に文明を同行し、さまざまな歌人たちに引き合わせています。それだけでなく、入門間もない時期に、文明の将来性を見抜き、学費の支援者を用意した上で、明治42年の秋には文明を第一高等学校に進学させます。やがて、文明は、大正5年に東京帝国大学を卒業します。左千夫と出会わなければ、文明の人生は全く違ったものになっていたはずです。それだけに、文明は、左千夫に感謝し、その気持ちを一生忘れませんでした。文明は左千夫に関連する短歌を200首近く詠んでいますが、それらを読むと、文明が文学の師としてだけでなく、人間として左千夫を尊敬し、慕っていたことがよくわかります。
私の印象に残ったものを紹介します。
あるがままの蚊取線香を上げたれば落ちてたまれる虫のかなしさ (『ふゆくさ』左千夫先生逝去、大正2年)
ひと片の花のにほひに画の技のこころをみよと教へ給ひき (『往還集』蓮を見る、大正14年)
左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きしことも遥けし (『山谷集』城東区、昭和8年)
茅場町左千夫邸跡(錦糸町駅前)
前こごみにて足早の姿おもふさへかすかなるかな二十年前は (『山谷集』左千夫先生を思ふ、昭和8年)
あはれあはれ吾の一生のみちびきにこのよき先生にあひまつりけり (『山谷集』十二月十六日、昭和9年)
松葉(まつば)牡丹(ぼたん)その日のさまに咲くみ墓二十三年は過ぎゆきにけり (『六月風』左千夫先生二十三回忌、昭和10年)
亀沢町終点のところなりき伴はれてビフテキを食ひし記憶かなしも (『六月風』歌会の歌、昭和11年)
この海を左千夫先生よみたまひ一生まねびて到りがたしも (『少安集』虎見崎 一月三日又十三日、昭和14年)
虎見崎海岸
まのあたりあざむき給ふ日にもあひきまざまざとして涙ながる (『少安集』左千夫先生忌日近し、昭和14年)
蒲生野を一日歩きて眠らむにまた思ひかへす先生の解釈を (『少安集』左千夫忌 七月二十一日、昭和15年)
唯真がつひのよりどとなる教いのちの限り吾はまねばむ (『山の間の霧』黒姫山麓、昭和17年)
明治四十二年なほ石油ランプ用ゐたる先生を貧しとも豊かとも思ひ出づ (『青南集』夾竹桃、昭和27年)
朝市の車に並び馳せたりき地下足袋の触感は今に力を与ふ (『青南集』江東二題 七月三十日、昭和35年)
さくら鍋硬かりければ豚にかへき左千夫先生との最後の食事 (『続青南集』病後越年、昭和38年)
過ぎし人々いかにか山の湖に上り来し別して明治四十二年左千夫先生 (『続青南集』角館田沢湖、昭和40年)
六十年思ふ九十九里に先生にうつつに従ふことなかりけり (『続々青南集』冬となりて、昭和45年)
喜びて得意にて歌なほし下されし左千夫先生神の如しも (『続々青南集』集を終らむとして、昭和48年)
輝きて白きは成東のコシヒカリうから左千夫先生に頼りて食ふ (『青南後集』米と芋殻、昭和51年)
一様に舗装バスターミナルに変るとも此処ぞと指さむ唯真閣跡 (『青南後集』伊藤左千夫終焉地、昭和54年)
掃木の持ち方左千夫先生に直されき何時か忘れて今はうやむや (『青南後集以後』四月、昭和61年)
左千夫生家(山武市)
生家の隣に移築された唯真閣
斎藤茂吉のふるさとを訪ねて
ただまねび従ひて来し四十年一つほのほを目守るごとくに
昭和28年茂吉が亡くなったときの文明の追悼歌です。文明が茂吉を尊敬し、親交を重ねてきたことが分かります。文明が茂吉と最初に出会ったのは明治42年4月11日、上京の翌日伊藤左千夫に連れられて参加した歌会においてでした。以来二人は多くの時間を共有し、短歌の発展に他に類のないほどの大きな役割を果たしました。文明が昭和5年から22年間務めた歌誌『アララギ』の編集発行人も、茂吉から引き継ぎ、引き継いだ後も茂吉の意見を尊重しながら務めました。
そのようなことから、常々私は、文明を知ろうとするなら、茂吉を知ることが必要であり、茂吉の生家がある金瓶や斎藤茂吉記念館を実際に訪れ、肌で茂吉を感じることが大切だと考えていました。
この度、土屋文明記念文学館の燻蒸休館と私の利用するJRの「大人の休日倶楽部パス」の期間が一致したので、6月22日(土)に行ってきました。高崎駅から上越新幹線で大宮駅へ、東北新幹線に乗り換えてかみのやま温泉駅まで行きました。同駅からはタクシーで金瓶へ行き、茂吉の生家、茂吉の学んだ金瓶学校、茂吉生前自らが作った「茂吉の墓」のある宝泉寺、茂吉の母の火葬が行われた地域の火葬場跡などを見学しました。タクシーが去ったあとの金瓶の集落は静かで明治の昔にタイムスリップしたようでした。通りの向こうから袴を穿いた茂吉少年が今にも現れそうでした。
金瓶の通り
茂吉の生家(守屋家)
茂吉が通った金瓶学校
宝泉寺山門
宝泉寺の歌碑
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり
宝泉寺にある茂吉の墓
金瓶の火葬場跡
火葬場跡の歌碑
灰のなかにははひろへり朝日子ののぼるがなかにははひろへり
金瓶の集落の周囲は田植えの終わった田んぼで、文明が育った保渡田の場合は桑畑ですが、二人がいずれも自然豊かな農村で育ったことをあらためて実感しました。茂吉が蔵王山を、文明が榛名山をそれぞれ愛し、故郷を離れた後、しばしばなつかしく思い出していたこと、茂吉が養家の斎藤紀一に、文明が伊藤左千夫に大学進学の道を開いてもらったことなど、二人の似ているところを考えながら、金瓶を小一時間散策しました。
その後、タクシーを呼んで茂吉記念館へ行きました。記念館は明治天皇が訪れた「みゆき公園」のなかにありました。土屋文明記念文学館も「上毛野はにわの公園」のなかにあり、天皇が訪れたことがあるので似ています。
まず、明治天皇が休憩された環翠亭、茂吉の次男北杜夫の小説にも登場する箱根山荘の勉強部屋(移築されたもの)、茂吉の歌碑を見学しました。建物はしっかりと保存され、歌碑はいずれも立派でした。
記念館のあるみゆき公園入口
環翠亭
移築された箱根の勉強部屋
みゆき公園内の歌碑
ゆふされば大根の葉にふるしぐれいたく寂しく降りにけるかも
みゆき公園内の歌碑
蔵王山その全けきを大君は明治十四年あふぎたまひき
記念館前に立つ茂吉胸像
その後、記念館を見学させてもらいました。貴重な資料がたくさん展示されていること、映像や写真等で分かりやすくすることを心がけていること、文字による解説は最小限に抑えていること、空白を多くして観る人の負担感を少なくしていることなど、優れた構成になっていると感じました。学芸員の五十嵐義隆さんから、数回の改修の過程でさまざまな工夫を加えて現在に至っているというお話を伺い、『斎藤茂吉記念館』の図録もいただきました。土屋文明記念文学館も令和8年の開館30周年に向けて常設展示室のリニューアルを検討しているので、参考にさせていただきたいと考えています。
茂吉記念館前駅
帰りは、電車時刻の都合で、茂吉記念館前駅から反対方向の山形駅へ行き、山形城址跡を見て、かみのやま温泉駅にもどり、上ノ山城や温泉街を見学し、若干のお土産を買って新幹線に乗りました。梅雨入り直前の東北でしたが、天候に恵まれ、暑さも我慢できる程度だったことが幸運でした。
上州水沢寺
榛名山系の水沢山の東麓に、水沢寺があります。天台宗の寺院で、山号は五徳山、本尊は十一面千手観音、坂東十六番札所になっています。寺伝によれば、高句麗僧の恵灌が推古天皇の時代に開基したと伝えられています。
前橋と伊香保温泉を結ぶ県道15号は、水沢寺の近くに来ると、両側に水沢うどんの店が並んでいます。その突き当りに寺に上る石段があり、少し登ると仁王門があります。しかし、もっと高い場所に寺の広い駐車場があり、そこからも境内に入れるので、石段を登る人は少なく、私も仁王門をくぐったことはありません。
水沢うどん店街
山門石段
現在の本堂(観音堂)は天明7(1787)年の再建で、その側に六角二重塔が建てられています。
六角二重塔は、二階部分に大日如来が安置され、一階部分は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界を守る六体の地蔵が安置され、手で押して回転させて祈願するようにできています。
境内に樹齢約700年に達するといわれる杉の大木もあります。周辺には桜の木もたくさん植えられています。
本堂と六角堂
手水
古代杉
土屋文明の歌集『少安集』には、「上州水沢寺」と題して以下の15首が掲載されています。
午後三時山のかげりの早くして檜原の道はこほりけるかも
土ほこり立てて下れるバスの後檜原の道のしづまる一時
国原のなかばまで陰の及ぶ見え山中の道夕ぐれにけり
氷しろき沢の日かげに道めぐり子供等はころぶ一人また一人
冬山に薪をきりて積む見れば昔の時のかへるごとしも
立ちかはり水沢部落栄ゆるは見るにこころよし古おもひて
新しき宿屋たちたり風呂をたく煙はなびく一村の上に
杉の下に寺あることの変らねば落ちたる水のとはに清しも
わが母と吾と来し日をかへりみるに四十五年になりやしぬらむ
現にし今のぼる石段の有様も細きことは多くわすれぬ
ここにして船尾の滝の白木綿の落ちざるまでに山はかれたり
子供等と六角堂の六地蔵肩あて並めてめぐらしあそぶ
二組の異人の夫婦いで来り地蔵をまはす吾等を真似て
紅の水木の枝を折りあそび夕べの道に子等と吾と居り
赤城嶺にのこる紫の夕映にいましめ合ひて氷の上をゆく
このときのことを、文明の長女である小市草子がその著書『かぐのひとつみ-父文明のこと』のなかで書いています。少し長くなりますが、短歌が詠まれた状況、文明の人柄や暮らしがよく分かるので引用させていただきます。
昭和十三年の正月休みに私たち兄妹四人をつれた一泊旅行も、父が目論んだものだった。あの時はまず上郊村に行き、父の伯母のぶを井出に尋ねた。父を幼時育ててくれた私たちの井出のおばあちゃんは、当時一人暮しをしていたが、親子の訪問に驚き喜び、早速青菜のたっぷり入った雑煮を囲炉裏にかけた鉄鍋で煮てくれた。餅は焼かないでそのまま鍋に入れて煮たのが珍しくおいしかったのが、木の大きなお玉杓子と共に忘れられないものだ。体がほかほかとあたたまった。そこから水沢寺に寄った頃はもう日がかげり始めていた。年内に降った雪が残って凍っていた。親子五人で六地蔵を廻して興じたり、水木の枝を掛け合わせて勝負をきめて遊んだりした。そんな時父はとても楽しそうで一所懸命だった。そうこうしているうちに日が暮れ、伊香保温泉に泊まったのだが、翌日の榛名湖畔は雪がもっと深かった。私たち兄妹四人が一列になって歩く後から、父が声をかけながら要心深くついてきた。湖畔で熱い甘酒をふきふき飲んだ。榛名富士が影をおとしている湖水に向かって休んでいた父の横顔が思い出される。
水沢寺は、高崎からは車で1時間くらいで行けるので、私も今までに何度も訪れていますが、今回は、文明の短歌にちなむ写真をスマホで撮りながらゆっくり歩いてみました。短歌が詠まれた時からは86年が経過していますが、当時をしのぶ情景はたくさん残っているように感じました。ただし、クマが怖いので船尾の滝までは行けませんでした。
船尾の滝入口
千枚田の田植え
5月12日の新聞で、11日、石川県輪島市にある白米千枚田で田植えが始まったという記事を読みました。棚田全体の1割程度とのことですが、1月1日の能登半島地震で大きな被害を受けたにもかかわらず、農業復興への営みが始まったことをたいへんうれしく思うとともに、関係者の皆様のご苦労とご努力に心より敬意を表します。
すでに一度日記に書きましたが、白米千枚田には、昨年3月に土屋文明の短歌
一椀にも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも
の歌碑が建てられました。10月には、輪島市役所への挨拶を兼ねて歌碑を視察に行ってきたばかりなので、地震の発生と甚大な被害には大きな衝撃を受けました。言葉にするほど簡単なことではありませんが、能登の人々の昔からの粘り強さが発揮され、復興が進むことを願うしかありません。
土屋文明は、万葉集調査などのために、越中守を務めた大伴家持の足跡を追い、何度も能登を訪れています。
そして、自身も半農半商の小さな家の子として苦労を強いられてきたことから、文明は、白米千枚田の棚田を見て、厳しい自然と対峙しながら懸命に暮らしてきた能登の人々に強く心を動かされました。この文明の真意が能登の人々に伝わり、歌碑が建てられたのだと思います。
文明が生きていれば、今回の地震の発生に大きな衝撃を受けて、亡くられた方々を悼む短歌や被害を受けた方々を見舞う短歌をたくさん詠んだはずです。そして、この度、田植えが行われたことについても、その感動を後世に伝える短歌を詠んだにちがいありません。
しかし、残念ながらかなわないことなので、文明が能登を訪れて詠んだ短歌を少し抜き出してみました。
今朝の雨やみて賑ふ朝市は遠来し吾を迎ふとにあらし
歯を染めて立てるにあへば遠き来て吾が亡き母にあふがにも思ふ
豊かなりし年のみのりを言ふ媼に心なぎつつ吾等ゆきつも
時おきて来る光に海にせまる片側に重ねし如き田のあり
首筋のいたくなるまでバスに乗り何に恋ひつつ行きし二日ぞ
(以上、『少安集』羇旅五十三首より、昭和16年)
朝きらふ島の宿りをいで立ちて栗ひとつ拾ふ道芝のなか
(『山の間の霧』能登一宿より、昭和17年)
能登の海の莫告藻食ふもはげみにて日に読む万葉集巻十七
(以上、『青南集』能登のなのりそより、昭和30年)
大根の葉を青々となびかせて市に出づる車見ての朝だち
木の葉より小さき田を斜面に重ね並べ耕すあはれはいつの代よりぞ
時々の政治我知らず今は人は出挙に頼らず出稼ぎに依る
(以上、『続青南集』珠洲郡より、昭和40年)
川原湯温泉
土屋文明は、昭和26年に当時の川原湯温泉を訪れ、10首の短歌を詠んでいます。それらは、『アララギ』の同年9月号と10月号にそれぞれ5首ずつ発表され、歌集『自流泉』に収録されています。
天を限る青き菅尾に次々に朝のしら雲あそぶ如しも
谷に奥草原に黄なる朝日さし菅尾の雲はやうやく高し
暇あるごとくに浴むる朝夕に横ふす菅尾ただにゆたけし
浴みつつ青葉に眠る夜々を何にうながし止まぬ瀬音ぞ
此のあした雲を抱ける青谷や行かば一日の息ひあるべし
時過ぎし塩手に寄りて道を譲る露にぬれ峠下り来る母子に
雲の中に榛名山みゆ芋柄を帯にして越えきと亡き祖母語りき
食らふもの干し芋がらを携へて遠く浴みにし祖母をぞおもふ
燕の峠に見下ろす谷の道雲より遥かなりふるさとの方は
山越えて二度浴みしこの出湯一生楽しみ語りしものを
<王湯>
<王湯正面>
文明は、東京南青山の自宅が空襲で焼けたために、戦後も長い間疎開していた吾妻町川戸から川原湯温泉を訪れました。短歌からは、苦労が絶えなかった祖母がこの温泉を好んだことを思い出しながら、周囲の自然に親しみ、温泉を楽しむ文明の姿や心を読み取ることができます。
昭和27年の調査開始からさまざまな経緯を経て八ッ場ダムがつくられ、令和2年から運用が開始されたことにより、かつての川原湯温泉はダム湖の底に沈みました。しかし、それに伴い、鉄道や温泉施設の移転整備が進められ、共同浴場の「王湯」もダム湖を臨む丘の上に移転されました。そこには、温泉発見者とされる源頼朝にちなんで、その家紋が掲げられています。また、伝統の湯かけまつりも毎年1月に行われています。さらに、玄関脇には、松尾芭蕉「山路来て何やら床し菫草」の句碑も移転されていますが、芭蕉が川原湯温泉を訪れたという確固たる記録はないようです。
<川原湯温泉駅>
<芭蕉句碑>
高崎市街からは、小栗上野介が没した倉渕を貫ければ1時間前後で行けるし、平日は貸し切りになるくらい空いているので、私も雪のない季節にはしばしば日帰りで通っています。
昔とは大きく様変わりしていると思いますが、周囲を取り囲む山々を眺めながら、かすかな硫黄臭を伴う無色透明で柔らかい源泉かけ流しの湯につかっていると、文明の短歌の気分が改めて感じられ、日々の疲れが癒されるような気がします。
川原湯温泉は、すばらしい温泉なので、たくさんの人に訪れていただきたいと思う反面、わがままなことに、自分が行くときには空いていることを願っています。