群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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特別館長日記

恩師、伊藤左千夫

2024年07月28日

 7月30日は、伊藤左千夫の命日です。
 文明が左千夫の牛舎で働きながら文学を学ぼうと上京したのは明治42年4月10日です。しかし、左千夫は脳溢血のために大正2年7月30日に急死したので、文明が左千夫につかえたのは5年余です。この間、左千夫は、文明に短歌を指導するとともに、さまざまな歌会に文明を同行し、さまざまな歌人たちに引き合わせています。それだけでなく、入門間もない時期に、文明の将来性を見抜き、学費の支援者を用意した上で、明治42年の秋には文明を第一高等学校に進学させます。やがて、文明は、大正5年に東京帝国大学を卒業します。左千夫と出会わなければ、文明の人生は全く違ったものになっていたはずです。それだけに、文明は、左千夫に感謝し、その気持ちを一生忘れませんでした。文明は左千夫に関連する短歌を200首近く詠んでいますが、それらを読むと、文明が文学の師としてだけでなく、人間として左千夫を尊敬し、慕っていたことがよくわかります。
 私の印象に残ったものを紹介します。


あるがままの蚊取線香かとりせんかうげたればちてたまれるむしのかなしさ (『ふゆくさ』左千夫先生逝去、大正2年)
ひとひらの花のにほひにわざのこころをみよと教へ給ひき (『往還集』蓮を見る、大正14年)
左千夫先生の大島牛舎に五の橋を渡りて行きしことも遥けし (『山谷集』城東区、昭和8年)

茅場町左千夫邸跡(錦糸町駅前)


前こごみにて足早の姿おもふさへかすかなるかな二十年前は (『山谷集』左千夫先生を思ふ、昭和8年)
あはれあはれ吾の一生のみちびきにこのよき先生にあひまつりけり (『山谷集』十二月十六日、昭和9年)
松葉(まつば)牡丹(ぼたん)その日のさまに咲くみ墓二十三年にじふさんねんは過ぎゆきにけり (『六月風』左千夫先生二十三回忌、昭和10年)
亀沢町かめざはちやう終点しゅうてんのところなりきともなはれてビフテキをひし記憶きおくかなしも (『六月風』歌会の歌、昭和11年)
この海を左千夫先生よみたまひ一生ひとよまねびて到りがたしも (『少安集』虎見崎 一月三日又十三日、昭和14年)

虎見崎海岸


まのあたりあざむき給ふ日にもあひきまざまざとして涙ながる (『少安集』左千夫先生忌日近し、昭和14年)
蒲生野を一日歩きて眠らむにまた思ひかへす先生の解釈を (『少安集』左千夫忌 七月二十一日、昭和15年)
唯真がつひのよりどとなる教いのちの限り吾はまねばむ (『山の間の霧』黒姫山麓、昭和17年)
明治四十二年なほ石油ランプ用ゐたる先生を貧しとも豊かとも思ひ出づ (『青南集』夾竹桃、昭和27年)
朝市の車に並び馳せたりき地下足袋の触感は今に力を与ふ (『青南集』江東二題 七月三十日、昭和35年)
さくら鍋硬かりければ豚にかへき左千夫先生との最後の食事 (『続青南集』病後越年、昭和38年)
過ぎし人々いかにか山の湖に上り来しべっして明治四十二年左千夫先生 (『続青南集』角館田沢湖、昭和40年)
六十年思ふ九十九里に先生にうつつに従ふことなかりけり (『続々青南集』冬となりて、昭和45年)
喜びて得意にて歌なほし下されし左千夫先生神の如しも (『続々青南集』集を終らむとして、昭和48年)
輝きて白きは成東のコシヒカリうから左千夫先生に頼りて食ふ (『青南後集』米と芋殻、昭和51年)
一様に舗装バスターミナルに変るとも此処ぞと指さむ唯真閣跡 (『青南後集』伊藤左千夫終焉地、昭和54年)
掃木の持ち方左千夫先生に直されき何時か忘れて今はうやむや (『青南後集以後』四月、昭和61年)

左千夫生家(山武市)

生家の隣に移築された唯真閣

斎藤茂吉のふるさとを訪ねて

2024年06月30日

 ただまねび従ひて来し四十年一つほのほを目守るごとくに
 昭和28年茂吉が亡くなったときの文明の追悼歌です。文明が茂吉を尊敬し、親交を重ねてきたことが分かります。文明が茂吉と最初に出会ったのは明治42年4月11日、上京の翌日伊藤左千夫に連れられて参加した歌会においてでした。以来二人は多くの時間を共有し、短歌の発展に他に類のないほどの大きな役割を果たしました。文明が昭和5年から22年間務めた歌誌『アララギ』の編集発行人も、茂吉から引き継ぎ、引き継いだ後も茂吉の意見を尊重しながら務めました。
 そのようなことから、常々私は、文明を知ろうとするなら、茂吉を知ることが必要であり、茂吉の生家がある金瓶や斎藤茂吉記念館を実際に訪れ、肌で茂吉を感じることが大切だと考えていました。
 
 この度、土屋文明記念文学館の燻蒸休館と私の利用するJRの「大人の休日倶楽部パス」の期間が一致したので、6月22日(土)に行ってきました。高崎駅から上越新幹線で大宮駅へ、東北新幹線に乗り換えてかみのやま温泉駅まで行きました。同駅からはタクシーで金瓶へ行き、茂吉の生家、茂吉の学んだ金瓶学校、茂吉生前自らが作った「茂吉の墓」のある宝泉寺、茂吉の母の火葬が行われた地域の火葬場跡などを見学しました。タクシーが去ったあとの金瓶の集落は静かで明治の昔にタイムスリップしたようでした。通りの向こうから袴を穿いた茂吉少年が今にも現れそうでした。

金瓶の通り

茂吉の生家(守屋家)

茂吉が通った金瓶学校

宝泉寺山門

宝泉寺の歌碑
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり

宝泉寺にある茂吉の墓

金瓶の火葬場跡

火葬場跡の歌碑
灰のなかにははひろへり朝日子ののぼるがなかにははひろへり

 金瓶の集落の周囲は田植えの終わった田んぼで、文明が育った保渡田の場合は桑畑ですが、二人がいずれも自然豊かな農村で育ったことをあらためて実感しました。茂吉が蔵王山を、文明が榛名山をそれぞれ愛し、故郷を離れた後、しばしばなつかしく思い出していたこと、茂吉が養家の斎藤紀一に、文明が伊藤左千夫に大学進学の道を開いてもらったことなど、二人の似ているところを考えながら、金瓶を小一時間散策しました。
 その後、タクシーを呼んで茂吉記念館へ行きました。記念館は明治天皇が訪れた「みゆき公園」のなかにありました。土屋文明記念文学館も「上毛野はにわの公園」のなかにあり、天皇が訪れたことがあるので似ています。
 まず、明治天皇が休憩された環翠亭、茂吉の次男北杜夫の小説にも登場する箱根山荘の勉強部屋(移築されたもの)、茂吉の歌碑を見学しました。建物はしっかりと保存され、歌碑はいずれも立派でした。

記念館のあるみゆき公園入口

環翠亭

移築された箱根の勉強部屋

みゆき公園内の歌碑
ゆふされば大根の葉にふるしぐれいたく寂しく降りにけるかも

みゆき公園内の歌碑
蔵王山その全けきを大君は明治十四年あふぎたまひき

記念館前に立つ茂吉胸像

 その後、記念館を見学させてもらいました。貴重な資料がたくさん展示されていること、映像や写真等で分かりやすくすることを心がけていること、文字による解説は最小限に抑えていること、空白を多くして観る人の負担感を少なくしていることなど、優れた構成になっていると感じました。学芸員の五十嵐義隆さんから、数回の改修の過程でさまざまな工夫を加えて現在に至っているというお話を伺い、『斎藤茂吉記念館』の図録もいただきました。土屋文明記念文学館も令和8年の開館30周年に向けて常設展示室のリニューアルを検討しているので、参考にさせていただきたいと考えています。

茂吉記念館前駅

 帰りは、電車時刻の都合で、茂吉記念館前駅から反対方向の山形駅へ行き、山形城址跡を見て、かみのやま温泉駅にもどり、上ノ山城や温泉街を見学し、若干のお土産を買って新幹線に乗りました。梅雨入り直前の東北でしたが、天候に恵まれ、暑さも我慢できる程度だったことが幸運でした。

上州水沢寺

2024年06月02日

 榛名山系の水沢山の東麓に、水沢寺があります。天台宗の寺院で、山号は五徳山、本尊は十一面千手観音、坂東十六番札所になっています。寺伝によれば、高句麗僧の恵灌が推古天皇の時代に開基したと伝えられています。
 前橋と伊香保温泉を結ぶ県道15号は、水沢寺の近くに来ると、両側に水沢うどんの店が並んでいます。その突き当りに寺に上る石段があり、少し登ると仁王門があります。しかし、もっと高い場所に寺の広い駐車場があり、そこからも境内に入れるので、石段を登る人は少なく、私も仁王門をくぐったことはありません。

水沢うどん店街

山門石段


 現在の本堂(観音堂)は天明7(1787)年の再建で、その側に六角二重塔が建てられています。
 六角二重塔は、二階部分に大日如来が安置され、一階部分は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界を守る六体の地蔵が安置され、手で押して回転させて祈願するようにできています。
 境内に樹齢約700年に達するといわれる杉の大木もあります。周辺には桜の木もたくさん植えられています。

本堂と六角堂

手水

古代杉

土屋文明の歌集『少安集』には、「上州水沢寺」と題して以下の15首が掲載されています。

 午後三時山のかげりの早くして檜原ひはらの道はこほりけるかも
 土ほこり立ててくだれるバスののち檜原の道のしづまる一時ひととき
 国原くにはらのなかばまでかげの及ぶ見え山中やまなかの道夕ぐれにけり
 氷しろき沢の日かげに道めぐり子供等はころぶ一人また一人
 冬山ふゆやまたきぎをきりて積む見れば昔の時のかへるごとしも
 立ちかはり水沢みづさは部落ぶらく栄ゆるは見るにこころよしいにしへおもひて
 新しき宿屋たちたり風呂をたく煙はなびく一村ひとむらの上に
 杉の下に寺あることの変らねば落ちたる水のとはに清しも
 わが母と吾と来し日をかへりみるに四十五年になりやしぬらむ
 うつつにし今のぼる石段いしだん有様ありさまこまかきことは多くわすれぬ
 ここにして船尾ふなをの滝のしら木綿ゆふの落ちざるまでに山はかれたり
 子供等と六角堂の六地蔵肩あて並めてめぐらしあそぶ
 二組ふたくみ異人いじんの夫婦いで来り地蔵をまはす吾等を真似て
 くれなゐ水木みづきの枝を折りあそび夕べの道に子等と吾と居り
 赤城あかぎにのこるむらさき夕映ゆふばえにいましめ合ひてこほりの上をゆく

 このときのことを、文明の長女である小市草子がその著書『かぐのひとつみ-父文明のこと』のなかで書いています。少し長くなりますが、短歌が詠まれた状況、文明の人柄や暮らしがよく分かるので引用させていただきます。

 昭和十三年の正月休みに私たち兄妹四人をつれた一泊旅行も、父が目論んだものだった。あの時はまず上郊村に行き、父の伯母のぶを井出に尋ねた。父を幼時育ててくれた私たちの井出のおばあちゃんは、当時一人暮しをしていたが、親子の訪問に驚き喜び、早速青菜のたっぷり入った雑煮を囲炉裏にかけた鉄鍋で煮てくれた。餅は焼かないでそのまま鍋に入れて煮たのが珍しくおいしかったのが、木の大きなお玉杓子と共に忘れられないものだ。体がほかほかとあたたまった。そこから水沢寺に寄った頃はもう日がかげり始めていた。年内に降った雪が残って凍っていた。親子五人で六地蔵を廻して興じたり、水木の枝を掛け合わせて勝負をきめて遊んだりした。そんな時父はとても楽しそうで一所懸命だった。そうこうしているうちに日が暮れ、伊香保温泉に泊まったのだが、翌日の榛名湖畔は雪がもっと深かった。私たち兄妹四人が一列になって歩く後から、父が声をかけながら要心深くついてきた。湖畔で熱い甘酒をふきふき飲んだ。榛名富士が影をおとしている湖水に向かって休んでいた父の横顔が思い出される。

 水沢寺は、高崎からは車で1時間くらいで行けるので、私も今までに何度も訪れていますが、今回は、文明の短歌にちなむ写真をスマホで撮りながらゆっくり歩いてみました。短歌が詠まれた時からは86年が経過していますが、当時をしのぶ情景はたくさん残っているように感じました。ただし、クマが怖いので船尾の滝までは行けませんでした。

船尾の滝入口

千枚田の田植え

2024年05月16日

 5月12日の新聞で、11日、石川県輪島市にある白米千枚田で田植えが始まったという記事を読みました。棚田全体の1割程度とのことですが、1月1日の能登半島地震で大きな被害を受けたにもかかわらず、農業復興への営みが始まったことをたいへんうれしく思うとともに、関係者の皆様のご苦労とご努力に心より敬意を表します。

 すでに一度日記に書きましたが、白米千枚田には、昨年3月に土屋文明の短歌
 一椀いちわんにも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも
 の歌碑が建てられました。10月には、輪島市役所への挨拶を兼ねて歌碑を視察に行ってきたばかりなので、地震の発生と甚大な被害には大きな衝撃を受けました。言葉にするほど簡単なことではありませんが、能登の人々の昔からの粘り強さが発揮され、復興が進むことを願うしかありません。

 土屋文明は、万葉集調査などのために、越中守を務めた大伴家持の足跡を追い、何度も能登を訪れています。
 そして、自身も半農半商の小さな家の子として苦労を強いられてきたことから、文明は、白米千枚田の棚田を見て、厳しい自然と対峙しながら懸命に暮らしてきた能登の人々に強く心を動かされました。この文明の真意が能登の人々に伝わり、歌碑が建てられたのだと思います。

 文明が生きていれば、今回の地震の発生に大きな衝撃を受けて、亡くられた方々を悼む短歌や被害を受けた方々を見舞う短歌をたくさん詠んだはずです。そして、この度、田植えが行われたことについても、その感動を後世に伝える短歌を詠んだにちがいありません。
 しかし、残念ながらかなわないことなので、文明が能登を訪れて詠んだ短歌を少し抜き出してみました。

 今朝の雨やみて賑ふ朝市はとほし吾を迎ふとにあらし
 歯を染めて立てるにあへば遠き来て吾が亡き母にあふがにも思ふ
 豊かなりし年のみのりを言ふおうなに心なぎつつ吾等ゆきつも
 時おきて来る光に海にせまる片側に重ねし如き田のあり
 首筋のいたくなるまでバスに乗り何に恋ひつつ行きし二日ぞ

 (以上、『少安集』羇旅五十三首より、昭和16年)

 朝きらふ島の宿りをいで立ちて栗ひとつ拾ふ道芝のなか
 (『山の間の霧』能登一宿より、昭和17年)

 能登の海の莫告藻なのりそ食ふもはげみにて日に読む万葉集巻十七
 (以上、『青南集』能登のなのりそより、昭和30年)

 大根の葉を青々となびかせて市に出づる車見ての朝だち
 木の葉より小さき田を斜面に重ね並べ耕すあはれはいつの代よりぞ
 時々の政治我知らず今は人は出挙に頼らず出稼ぎに依る

 (以上、『続青南集』珠洲郡より、昭和40年)

川原湯温泉

2024年04月03日

 土屋文明は、昭和26年に当時の川原湯温泉を訪れ、10首の短歌を詠んでいます。それらは、『アララギ』の同年9月号と10月号にそれぞれ5首ずつ発表され、歌集『自流泉』に収録されています。

 てんを限る青き菅尾すがをに次々に朝のしら雲あそぶ如しも
 たにに奥草原に黄なる朝日さし菅尾の雲はやうやく高し
 暇あるごとくに浴むる朝夕に横ふす菅尾ただにゆたけし
 浴みつつ青葉に眠る夜々を何にうながしまぬ瀬音ぞ
 此のあした雲を抱ける青谷あをだにや行かば一日のいこひあるべし
 時過ぎし塩手しほでに寄りて道を譲る露にぬれ峠下り来る母子おやこ
 雲の中に榛名山はるなやまみゆ芋柄いもがらを帯にして越えきと亡き祖母そぼ語りき
 食らふものし芋がらをたづさへて遠くみにし祖母おほばをぞおもふ
 つばくらの峠に見下みおろす谷の道雲より遥かなりふるさとのかた
 山越えて二度ふたたびみしこの出湯いでゆ一生ひとよたのしみ語りしものを

<王湯正面>

 文明は、東京南青山の自宅が空襲で焼けたために、戦後も長い間疎開していた吾妻町川戸から川原湯温泉を訪れました。短歌からは、苦労が絶えなかった祖母がこの温泉を好んだことを思い出しながら、周囲の自然に親しみ、温泉を楽しむ文明の姿や心を読み取ることができます。
 昭和27年の調査開始からさまざまな経緯を経て八ッ場ダムがつくられ、令和2年から運用が開始されたことにより、かつての川原湯温泉はダム湖の底に沈みました。しかし、それに伴い、鉄道や温泉施設の移転整備が進められ、共同浴場の「王湯」もダム湖を臨む丘の上に移転されました。そこには、温泉発見者とされる源頼朝にちなんで、その家紋が掲げられています。また、伝統の湯かけまつりも毎年1月に行われています。さらに、玄関脇には、松尾芭蕉「山路来て何やら床し菫草」の句碑も移転されていますが、芭蕉が川原湯温泉を訪れたという確固たる記録はないようです。

<川原湯温泉駅>

<芭蕉句碑>

 高崎市街からは、小栗上野介が没した倉渕を貫ければ1時間前後で行けるし、平日は貸し切りになるくらい空いているので、私も雪のない季節にはしばしば日帰りで通っています。
 昔とは大きく様変わりしていると思いますが、周囲を取り囲む山々を眺めながら、かすかな硫黄臭を伴う無色透明で柔らかい源泉かけ流しの湯につかっていると、文明の短歌の気分が改めて感じられ、日々の疲れが癒されるような気がします。
 川原湯温泉は、すばらしい温泉なので、たくさんの人に訪れていただきたいと思う反面、わがままなことに、自分が行くときには空いていることを願っています。

角館田沢湖

2023年12月10日

<田沢湖>

<御座石>

<御座の石の杉>

 世の中にあやしく深き遠底の瑠璃の水底に姫は沈めり 左千夫
 うつせみは願いを持てばあわれなりけり田沢の湖に伝説ひとつ 茂吉

 たつこ像が建てられたのは、昭和43年だが、田沢湖のたつこ伝説は有名で、角館出身の平福百穂に促されて田沢湖を訪れた伊藤左千夫や斎藤茂吉も伝説に因んだ短歌を詠んでいる。
 地元の人々に敬愛された親子2代の画伯で、アララギ派の歌人でもあった百穂の歌碑も田沢湖畔にある。

 いにしえゆ國をさかひす嶺のうえ岩手秋田の国を界す 百穂

 百穂は、さまざまな面で角館の発展に尽力したが、特に角館中学校(現角館高等学校)設立の中心的役割を果たした。角館中学校は武家屋敷通りの北端に建てれたが、現在は東側の丘陵上に移転している。
 当時の中学校跡地には、現在、平福百穂の歌碑、秋田県立角館高等学校跡の碑、島木赤彦の原稿を斎藤茂吉が補筆した角館中学校校歌原稿の碑が立っている。
 特に、百穂の歌碑は、昭和14年、昭和8年に55歳で亡くなった百穂の7回忌に建てられたもので、2つの短歌と百穂の半身像が刻まれている。その壮麗さを見ると、百穂が角館の人々から深く敬愛されていたことがよくわかる。
 さらに、昭和63年には、その場所に角館町平福記念美術館が建てられ、百穂とその父である穂庵の絵が展示されている。

<角館武家屋敷の通り>

<角館町平福記念美術館>

<百穂の歌碑>

<同半身像>

<秋田県立角館高等学校跡の碑>

<角館中学校校歌原稿の碑>

<百穂の墓(学法寺)>

 画伯として認められて、経済的に恵まれ、有力者との交際も広かった百穂は、アララギの歌人たちを支援したが、土屋文明もさまざまな支援を受けた。経済的に苦しかった学生時代、文明のアルバイトをさまざまな形で支援した。東京帝国大学卒業後、新聞記者になることを希望していた文明に国民新聞の有力者を紹介してくれた。しかし、文明は採用されなかった。長野県諏訪高等女学校に教頭として赴任する文明に、女学校であることから、結婚を強く勧め、文明はそれに従った。教育者としての信念を貫き、松本高等女学校から木曽中学校への転任を拒否して辞職した文明に、角館中学校の校長職を紹介した。文明はそれを受けなかったが、百穂の配慮に感激したにちがいない。

<生徒登校口の碑>

 現在の角館高等学校の生徒の登校口に、「中学は角館に設立されればそれでよいとは思はぬ。それは尠なくも将来東北で尤も優良な中学にしなくてはならぬ」という百穂のことばの碑が建てられている。
 このことばを読むと、百穂は、職を失った文明にたんに同情していたわけではなく、文明を評価し、学校の未来を託そうとしていたことがわかる。
 百穂が昭和8年に亡くなると、すでにアララギの編集発行人になっていた文明は、各界有力者の追悼文を掲載するとともに、自らも「平福畫伯のこと」と題して追悼文を掲載し、昭和9年4月にアララギの平福百穂追悼号を発刊した。
 左千夫も百穂も茂吉もすでにこの世を去ってかなりの時が過ぎた昭和39年9月、東北地方を旅した土屋文明は、この地を訪れ、「角館田沢湖」という題で23首の短歌を詠んでいる。

 花植ゑし駅の多きを見つつゆく中に目に立つダチュラアルバか
 山形よりいづくにて秋田に入りにしや稲のみのりは分ちなく見ゆ
 耕す時すぎて稔りに働けど機械ありて馬を見ることのなし
 韮の畝実をつけし見るしばしばにて角館に降り立ちにけり
 この町の出身学生ありたりき平福百穂の名を知らざりき
 教ふる人なき墓どころ尋ぬべく町の役場の白き中に入る
 代々のみ墓かく保たれて故郷を思ひ給ひし心もしるし
 大村藩士の為に立てたる墓のことも聞きたりき今日は見る
 二度の火に焼けたりといふ石立てて二穂にすゐ誕生のところをあらはす
 木は高くなりて家居の立ちかはる静かなる出生の跡を保てり
 力尽し此の町に成りし中学校職失ひし我を誘ひ給ひき
 石に彫りしみ姿秋の日の中に草には低き風露草の花
 湖の道ゆきすぎむとして足とどむ木下暗む時み歌ゑりし石
 水ぎはまで田作り稲の熟れし色今日は波なしといふ水海に
 過ぎし人々いかにか山のうみに上り来しべっして明治四十二年左千夫先生
 水海のかなたの岸の村も見ゆ黄にみのりたる親しさもちて
 新しき水路のために水の色昔にかはりゆくといふものを
 湖に近づく時によぎりたる一つ曲屋まがりやのくらし思ほゆ
 杉の老木君の描きし形に見ゆ長かりしかな此のうみを我の思ひて
 波の寄る御座ござの石に立ち夕日させば我が老妻も処女さび見ゆ
 駒ヶ岳に雲凝り離れまた寄り来る朝のしばしは心しづまる
 ぶなの梢の早きもみぢをあはれみて我が立つ前を霧は早しも
 高きより朝の湖見て別る霧のたなびき人になつかし

12月4日と5日の両日、文明の短歌を参考にしながら、田沢湖と角館を旅した。雪がたくさん積もっていることに驚いたが、天候には恵まれ、文明の心境に思いをはせながらのんびり巡ることができた。町の至るところに枝垂れ桜の木が植えられ、春の爛漫が目に浮かんだ。桜の満開は4月下旬とのこと。

<枝垂れ桜>

白米千枚田

2023年10月22日

<白米千枚田>

<文明歌碑>

 10月20日、長谷川誠主幹とともに、石川県輪島市の白米千枚田を訪ねました。そこは、世界農業遺産、日本の棚田百選、国指定文化財名勝に指定されています。今年千枚田を望む道の駅千枚田ポケットパークに、土屋文明の歌碑が建てられ、3月27日に除幕式が行われました。

 一わんにも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも

 海に面した斜面に並ぶ棚田を目の当たりにし、苦労しても少ない米しか取れないであろう狭い田んぼをいくつも並べ耕し続けてきた能登の人々の生活に強く心を動かされた文明が詠んだ歌です。
 この歌には、人々の生活や社会のあり方を見つめて歌を詠む文明の特徴がよく出ています。詠まれたのは、昭和15年12月ですが、戦後主張された「第二芸術論」に対抗するものをすでに備えていたことが分かります。
 歌碑の建立にあたっては、一昨年、輪島市産業部長兼観光課長の永井一成氏、能登半島広域観光協会相談役の藤平朝雄氏に、土屋文明記念文学館までお越しいただきました。
 お二人のお話をお伺いし、文明の歌が地元の人々にも深い感銘を与えていることが分かり、改めて歌人文明の大きさを認識しました。
 生前土屋文明は歌碑の建立をあまり好まなかったので、ご遺族の了解が得られるか心配していましたが、了解が得られたことをうれしく思いました。

 前日、福井ふるさと文学館を訪ねた後、金沢を通りすぎ和倉温泉で一泊して、翌日レンタカーで白米町へ行きましたが、能登半島の奥深さがよく分かりました。文明は万葉集調査のために訪れたようですが、当時の交通事情を考えると、その熱意がよく分かります。
 当日は雷雨模様で、雨と風が強くなったり、弱くなったりする状況でした。弱まったときに車から出て、歌碑と千枚田の写真を撮りましたが、途中で風と雨が強まったりしたので、ずぶぬれになりながら、何度か繰り返し、何枚かの写真を写すことができました。
 能登の自然の厳しさを私たちも味わっているようで、いやな気持ばかりではありませんでした。

馬湯を訪ねて

2023年10月13日

<ホテル「蓼科親湯温泉」>

 先日、長野県の蓼科高原にある親湯温泉に行ってきました。大正9年、当時諏訪高等女学校の校長であった土屋文明は、ここを訪れ、歌を詠んでいます。
 茅野市街から「ビーナスライン」を上がっていくと、蓼科湖、さらに上っていくと、滝ノ湯温泉の入り口、その先に親湯温泉の入り口があります。
 私は、群馬から出かけたので、上信越自動車道を佐久インターで下り、ナビの言うとおりによく分からない道を進み、長門牧場で温かい牛乳を飲んで、女神湖の横を通り、白樺湖に出る直前で寂しい脇道に入り、心配しながらしばらく進むと、ビーナスラインに合流することができました。道を下り、チェックインには早すぎたので、いったん通り越して蓼科湖の周囲を散策してから、親湯温泉に行きました。

<蓼科湖>

 そもそも、親湯温泉は、滝ノ湯温泉に対して、新しく見つかった温泉ということで、「新湯」と呼ばれたそうです。土屋文明の第一歌集『ふゆくさ』に「新湯」という題で8首の歌が載っています。前半6首で「馬湯」につかる馬の様子を詠み、後半2首で温泉宿に寛ぐ自分たちの様子を詠んでいます。

新湯
 うまうまなな日照雨ひでりあめに背のかけむしろみなぬれてあり
 首筋を流るる雨におどろきてからだ動かす馬いとけなし
 馬の湯につづく湯の池およぎつつ馬に近づけば馬くさきかも
 馬の腹にひたひたとつく湯のたたへ底の石みな青光あをびかりせり
 岩の上の青葉をあふる霧早し湯をいでし馬はふるひいななく
 馬の湯に今朝ゐる馬は一つなり湯の中に楽楽らくらく尾をふり遊ぶ
 霧ふれば暗き部屋ぬち三人みたり居て言葉まれなりうときにはあらず
 一日ひとひ居て話はたえぬ窓にむき逸也いつやは本をよみはじめたり

 文明は、東京帝大を卒業しても2年間定職に就くことができず、大正7年にようやく先輩歌人島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校教頭の職に就くことができました。しかも、赴任の直前には長い間付き合っていた同郷の女性と結婚しました。三村安治校長のもとで2年間存分に手腕を発揮した文明は、長野県主席視学に転任する三村の推薦で大正9年1月に校長に就任し、大正11年に松本高等女学校に転任するまで、教育者、歌人として充実した日々を過ごしました。文明の100年の生涯で最も安定した時期だったのではないかと思います。文明は、温泉につかり、のんびりした馬の姿を詠んでいますが、自身ものんびりしていたのでしょう。

 そもそも親湯温泉は、伊藤左千夫が好んで訪れ、裏山には2つの歌碑があり、アララギの歌人たちもたくさん訪れました。文明がここを訪れたのも、文学・人生の師である左千夫を強く慕う気持ちがあってのことと思います。
 ホテル「蓼科親湯温泉」は、大正15年の創業で、勢いよく流れ落ちる谷川の左岸に建てられています。文明が訪れた当時は、地域の人々の湯治宿が現在のホテルと川をはさんで反対側にあったそうです。さらに、現在のホテルは、2019年4月に全面リニューアルしたそうですが、長い歴史と文化を守りながらも新しいきめ細かい工夫が加わり、快適な空間がつくられています。ラウンジ、廊下、客室など、至る所に興味深い書籍や絵画、軸、色紙などが配され、ながめていると時間の過ぎるのを忘れてしまいます。蔵書は、ラウンジだけで3万冊だそうです。私の泊まった部屋には斎藤茂吉の全集4冊が置かれていました。

<ロビーの書籍>

<ギャラリー>

 また、「アララギ」「伊藤左千夫」「島木赤彦」「斎藤茂吉」等の名がつけられた10室のスイートルームがあり、「土屋文明」のスイートルームもありました。チェックアウトの時間後に見せていただくと、文明の部屋の壁には、文明の肖像画と、「歌ふものもなく老いたるむろの樹よ千年を重ねて大瀬の崎に」(『続々青南集』所収)の色紙と、「くもり夜の月あるごとくおもほゆれしらじらとして川遠くゆく」(『山谷集』所収)の短冊が飾られていました。次回訪れることがあれば、ぜひこの部屋に泊まりたいと思いました。

<文明肖像画>

<文明短冊>

<文明色紙>

 温泉は、無色透明で熱くもなくぬるくもなく、長時間入っていられました。文明先生も馬もさぞかし気持ち良かったことと思います。文明先生には申し訳ないのですが、夕朝の食事もたいへん豪華で満足しました。
 さて、肝心の馬湯ですが、現在は存在しません。その痕跡もありません。ホテルの方に教えていただき、唯一、文明が「馬の湯につづく湯の池およぎつつ」と詠んだ場所で、後に温泉プールがつくられオリンピック選手も練習した場所の名残として、今もたくさんの注ぎ口から湯が絶えず沸き出ている場所が駐車場の脇にありました。
 いずれにしても、文明先生が歌に詠んでくれたお陰で、思い出に残る秋の旅をすることができました。

信州山田温泉

2023年06月02日

 昨日(6月1日)将棋の名人戦第5局2日目が行われ、藤井聡太六冠が勝って新名人が誕生しました。
 対局が行われたのは、長野県上高井郡高山村山田温泉の緑霞山宿藤井荘です。
 偶然ですが、1ヶ月ほど前の5月11日、文明の足跡をたずねて山田温泉に行ってきたところです。

〈藤井荘〉

 群馬県からみると、山田温泉は、位置的に県境の山を挟んで、草津や万座の反対側になります。往きは、高い山道を越える自信がないので、遠回りの上に高速道路代金もかかるのですが、上信越自動車を利用し、須坂市から訪ねました。帰りは、天候も良かったので、上田市から鳥居峠を越え、嬬恋村を通って帰ってきました。

 昭和2年5月1日、文明は、万葉集の講演で長野県を訪れた際に山田温泉を訪れました。
『山谷集』に「信州山田温泉」と題して、次の9首が収められています。

 斑尾の嶺につく雲の雪につく夕かぎろひを上り来にけり
 足引の山桜花ほのぼのと硫黄にごれる沢はふかしも
 硫黄にごりてたぎち流るる沢みればみどりかなしく柳萌え居り
 とどろける硫黄の川に細谷の真清水川が落ち入りにつつ
 なだれ雪土を被れるあたりには蕗の薹一尺ばかり伸び立ちにけり
 こゑ上げて酔ひたる人ら浴み居り其が家妻を言にいひつつ
 真日くれて大湯に集ふにぎはひや塩魚焙る香の寂しけれ
 雪のこる山のかなたの七味湯を心に思へど行きがたきかな
 忙しく一夜やどりて足引の山沢羊歯も食ひにけるかも

 文明が宿泊した風景館も、歌に詠まれた大湯も、訪れた当時の建物ではないようですが、山の豊かな緑に囲まれ、底の見えない深い渓谷に臨む温泉全体の雰囲気から、当時を忍ぶことができました。

〈風景館〉

 山田温泉には、文明のほか、松尾芭蕉、小林一茶、森鷗外、与謝野晶子、会津八一など、多くの文人墨客が訪れています。
 名人戦の行われた藤井荘には、明治23年鷗外が滞在しています。
 また、温泉のいたるところに句碑や歌碑がありました。
 大湯のかたわらには、「春風に猿もおや子の湯治哉」という、まさに一茶らしい句碑もありました。

〈小林一茶の句碑〉

〈大湯〉

 風景館のすでに引退された女将さんのお話では、文明の歌碑を建てようという動きもあったそうですが、君は頭はいいけど、字は下手だと言われたことがトラウマになっていたのか、文明自身が歌碑に自分の字を遺すことを好まなかったこともあり、実現しなかったようです。

〈松川渓谷に落ちる八滝〉

信州松原湖

2023年04月20日

 長野県佐久郡小海町に松原湖という湖があります。最もその名は、周辺で最も大きい猪名湖を指す場合もあれば、猪名湖、長湖、大月湖などその周辺に点在する複数の湖の総称として使われることもあるようです。

 文明は昭和のはじめに2回ここを訪れ、それぞれ短歌を詠んでいます。
 最初は、昭和4年5月18日に訪れています。翌日は、南佐久郡中込小学校で開かれた万葉集の会で講義をしています。歌集『往還集』に「信濃松原湖」の題を付した6首が掲載されています。

 夜行車に来りし吾は山水やまみづたぎちに下りて歯みがきつかふ
 今朝の汽車弁当を残し来て食ひ居るからだの疲労つかれを思ふ
 春すぎてゆくと云ふことも思はざりき桜のこれるに今日は遇ひける
 うちかすむ村はまひるのかはづのこゑ畳のうへに覚めてまた眠る
 うみのへの家にねむりをむさぼりてわか芽立つ谷を見にゆかむとす
 あさつきはすでに黄ばめる草はらに散れる桜の花をながめつ

 もう1回は、昭和11年5月8日に訪れているようです。翌日は、上田別所で開かれた 歌会に出席しています。歌集『六月風』に「信州松原湖」の題を付した4首が掲載されています。

 汗をながし吾はのぼりゆく長湖ながうみのやさしき水を再びみむとして
 にひはりの道に並びて落ちきたる春の水あらし鳴りつつぞ来る
 春日てる荒野あらのの道をのぼり来て猪名ゐなの湖しづもりにけり
 ふくらみし桜に降りつぐ雨寒し夕食すめば鞄をひらく

 これらの短歌を詠むと、文明がこの地をたいへん愛していたことが分かり、かねてから一度行ってみたいと思っていました。文明が訪れたのは5月ですが、最近は春の訪れが早く、土屋文明記念文学館の周辺ではすでに桜の花もすっかり散ってしまったので、その名残惜しさもあり、4月17日(月)に松原湖に出かけました。
 関越自動車道(80キロ制限)、中部横断自動車道(70キロ制限、無料)を利用し、高崎を出て2時間弱で松原湖に着きました。天候にも恵まれ、途中の道は高低差があるので、満開の桜を含め、さまざまな春の姿を見ることができ、快適な旅になりました。

 猪名湖は、全体的にはひっそりしていました。湖畔に大きな桜の木があり、花が満開で、ハイキングの人たちが弁当を食べていました。文明もこの桜を見たのかと思うと、いっそう美しく見えました。
 県道沿いの長湖は、最初平凡に見えましたが、細い道を少し上って行くと、静かな湖を小山が囲み、さらにその上に、雪を残した八ヶ岳に陽が差す、まさに絵のような光景が広がっていました。

<猪名湖畔の桜>

<猪名湖全景>

<長湖と八ヶ岳>

 文明が訪れたのはすでに90年以上前のことなので、当時のことは分からないだろうと思いながらも、松原湖観光案内所で昭和初年には存在した宮本屋と蔦屋(現在はペンションアルコニ)を教えてもらいました。
 いずれに文明が泊まったかは分かりませんでした。しかし、松原湖が関東、甲斐と善光寺を結ぶ、古くから開けた街道の脇にあること、文明が最初に松原湖を訪れた前年の昭和3年に斎藤茂吉が蔦屋に泊まった記録が残っていること、アララギの歌人は蔦屋を利用することが多かったこと、宮本屋にも若山牧水などの文人が泊まったことなどを教えてもらいました。

 昭和4年10月24日、ニューヨーク株式取引所で株価が大暴落し、世界大恐慌が始まりました。昭和11年2月26日、陸軍青年将校らによるクーデターが勃発しました。
 文明が松原湖を訪れたのは、陸軍をはじめとする誤った指導者のために日本がファシズム化し、太平洋戦争へと進んでいく時代でした。文明は、権力との激しい衝突を避けながらも権力に迎合することなく、良心と良識をもって対応する人生を送っていました。

 松原湖から県道を上ったところにある温泉施設「八峰の湯」で露天風呂に入り、見慣れた群馬の山よりも天空に近い八ヶ岳をながめながら、昭和初期の文明のことをぼんやり想っていると、帰路に着かなければならない時間になりました。

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