特別館長日記

漱石山房・小石川後楽園を訪ねて
4月3日は小雨日和でしたが、東京はちょうど桜が満開だったので、漱石山房記念館、小石川後楽園を訪ねました。




漱石山房記念館は、漱石の自宅のあった早稲田南町にあります。同じ町内には、正岡子規門下の俳人で政治活動をしていた赤木格堂の経営する青年日本社兼自宅もありました。大正2年頃、学費に苦労していた土屋文明は、恩師伊藤左千夫の紹介で雑誌「青年日本」の編集手伝いとして格堂のもとに寄食していました。
赤木先生包み下されし幾ばくか手を触れざりき貧は貧 『続々青南集』
漱石山房記念館の展示室では、漱石と関係のあった文学者等が写真とともにたくさん紹介されていました。その中に、芥川龍之介や久米正雄など文明の一高時代の同級生もいましたが、文明の名はありませんでした。文明が夏目漱石に接した記録自体もありません。
同級生たちが会費を出し合って第三次「新思潮」を刊行した時も、文明は会費を出すことができず、仮の会員として参加したと伝えられていますが、文明に経済的な余裕があれば、漱石に会う機会もあり、その人生も変わっていたかもしれません。
「小石川後楽園」14首は、「短歌研究」の昭和13年9月号に発表され、歌集『少安集』に収録されました。
笹うゑし廬山の形小さくしてこむらの下に黄にしづまりぬ
狭き水に西湖の塘かたどりぬ石塘直に草はあれたり
みつがしは実の穂になりて衰へつつ水蓮もはびこる程にはならず
見ぬ国をここに小さくつくりいで峰を並べて山あはれなり
幾度か火に焼けし園に残りつつあくまで茂るしだれ桜は
いりゆきて夏の落葉のしげきかな音たえし谷の一所あり
移り去りし工廠のあとなほ広く草のしげりのほしいままに見ゆ
菖蒲田となりて残れり大名の米をたふとび作りたる田は
紅はうすき光の中ににほひ夕べの蓮くづほれむとす
くれなゐの蓮の花のふくだみてしどろになりつ清きかがやき
白き花くれなゐの花池を分ちい照りかがよふ曇り日の下
松原の中の静かさ眠らむに吾はおどろく何のやさしきこゑ
相よばふ水の上の鳥頭あかくいまだ柔毛のひなのしたがふ
かづきする親鳥の息ながきしばしゆき廻るものこゑををさめつ










小石川後楽園は、水戸徳川家が建設した広大な「回遊式築山泉庭園」で、日本と中国の有名な景観がたくさん再現されています。歩いてみると、文明の短歌はここで詠んだのではないかという情景に出会うことができます。しかし、昭和11年の二・二六事件、昭和12年の盧溝橋事件、昭和13年の国家総動員法と、日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた時代に詠まれただけに、全体的には、暗さや寂しさが感じられます。
現在、庭園はしっかり整備保存され、樹々の向こうに高層ビルがいくつも見え、文明が詠んだ頃とは大きく異なっています。それがかえって戦後80年の平和を象徴しているように感じました。
上信道工事中


3月25日、東吾妻町川戸の大川家旧宅を訪ねました。すぐ前を通る上信道の工事が現在進行中で、文明が戦中戦後疎開し、その後も当時の様相がほぼ残されてきた川戸もまもなく大きく変わってしまいそうです。
昭和20年5月25日、アメリカ軍のB29による無差別空襲で、東京南青山の文明宅も全焼しました。文明は、長女の草子が吾妻高等女学校に勤めていたこともあり、群馬県吾妻郡原町の旧家である大川正宅の部屋を借りて暮らしました。



この時、文明は55歳、敗戦後の食糧難の時代に、山の土地を借りて開墾し、自ら畑を耕して暮らす生活はさぞかし苦労が多かったと思います。川戸での疎開生活は、昭和26年11月までの長期にわたりますが、歌集『山下水』『自流泉』に収められた短歌を読むと、年を経るに従い、生活状況が改善していったことが分ります。
疎開中も、文明は、短歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)の立場にありました。
太平洋戦争が終わるといち早く、20年11月には、会員との連絡が困難で、物資も不足する状況にもかかわらず、長い間休刊していた『アララギ』を、昭和二十年九月号(出詠者8名16ページ)として復刊しました。

また、昭和21年から22年にかけて叫ばれた、短歌の文学的価値を軽視する「第二芸術論」には、自らの歌づくり、全国をまわっての講演、歌人への激励等で対抗し、短歌の伝統を守り、発展させました。文明の指導で、『アララギ』の地方誌が全国各地にでき、群馬県には、齋藤喜博の尽力で『ケノクニ』ができました。
一高時代の友人の紹介で、山口大学に赴任する話もありましたが、実現せず、東京へ戻った翌年27年に明治大学の教授に就任しています。
川戸疎開から南青山復帰まで、文明の様子がわかる短歌を掲載しました。なお、「垣山に」の短歌は奈良県で詠まれたものです。
朝よひに真清水に採み山に採み養ふ命は来む時のため(『山下水』20年)
朝々に霜にうたるる水芥子となりの兎と土屋とが食ふ(〃20年)
山の上に吾に十坪の新墾あり蕪まきて食はむ饑ゑ死ぬる前に(〃20年)
にんじんは明日蒔けばよし歸らむよ東一華の花も閉ざしぬ(〃21年)
ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し(〃21年)
友二人われをおくりて夕川を田辺わたればわが川戸村(〃21年)
歌作るを生意志なきことと吾も思ふ論じ高ぶる阿房どもの前に(〃21年)
垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ(21年)
南瓜二つくさりて春となりたるもゆたかなりける今年の冬ぞ(『自流泉』22年)
疎開人かへりつくしし春にして泉の芹を我独占す(〃23年)
大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな(〃24年)
この山の薯を盗まねば饑うるかと恐れしと時も過ぎて遥かなり(〃25年)
戦ひて敗れて餓ゑて苦しみて凌ぎて待ちし日と言はむかも(〃26年)
うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮しを始む(『青南集』26年)
文明が暮らした大川家は、町長も務める旧家にふさわしく、今見てもたいへんな豪邸です。南側の庭も広く、錦鯉が泳ぐ大きな池を配し、たくさんの樹々が植えられていました。
文明が暮らした部屋は、屋敷の西側にあり、それなりの広さがありましたが、家族で暮らすには手狭だったと思います。部屋の正面には、「友二人」の短歌の色紙が飾られていました。
「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌というものはほろびないばかりではない、いかなる社会機構の中でも存在しつづける」という名古屋での講演も、この部屋で考えたのではないかと思うと、感慨深いものがありました。
上信道の工事が行われているのは、大川家の南側で、工事現場の近くには、清水が湧く場所があり、筧で豊富な水が大川家の庭に引かれています。向こうに見える山林の中には、文明が飢えをしのぐために開墾した「十坪の新墾」もありました。世の移り変わりは常とはいえ、文明ゆかりの地が大きく変わってしまうことに寂しさを感じました。
鶴見臨港鉄道
鶴見臨港鉄道は、大正末期から昭和初期にかけて、埋立地に造られる工場群への輸送機関として、浅野や安田などの民間企業によって開発されました。現在はJRの鶴見線になっています。周辺の京浜工業地帯は日本近代化の象徴です。










土屋文明は、昭和8年にここを取材し、近代社会における産業と人間の様相を直視して「鶴見臨港鉄道」という題で、21首の短歌を詠んで雑誌『短歌研究』に発表し、『山谷集』に収録しています。
鶴見臨港鉄道
枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす
船体の振動見えて汽笛鳴らす貨物船は枯葦の原中にして
たくましき大葉ぎしぎし萌えそろふ葦原に石炭殻の道を作れり
二三尺葦原中に枯れ立てる犬蓼の幹にふる春の雨
大連船籍の船名みれば撫順炭積みて来りし事もしるしも
石炭を仕別くる装置の長きベルト雨しげくして滴り流る
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
蕗の薹踏まれし石炭殻の路のへに蕗の葉若々しく萌えいでにけり
稀に見る人は親しき雨具して起重機の上に出でて来れる
貨物船入り来る運河のさきになほ電車の走る埋立地見ゆ
解体船の現場を示す枯原の道は工場にただに入り行く
雨の中に解体船の船橋の捨てあるは運河の対岸ならむ
よし切か雲雀かこゑのひびけるは工場地帯の休憩時に
おのづから運河をのこす埋立に三井埠頭は設けられたり
本所深川あたり工場地区の汚さは大資本大企業に見るべくもなし
幾隻か埠頭に寄れる石炭船荷役にはただ機械とどろけり
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ
群りて蓼の芽紅く萌えいづる空地はすでに限られてあり
吾一人ありて歩める運河の岸青き潮干はしばしだに見む
文明は、昭和5年から昭和27年まで歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)を務め、正岡子規と並んで、近代短歌の発展に偉大な功績を残しました。
最大の功績は、太平洋戦争敗戦による伝統文化軽視の気運のなかで展開された短歌軽視の主張(一般に 「第二芸術論」と言われる)に対抗し、短歌の伝統を守り、発展させたことです。
形式が限定された短歌では、複雑になっていく現代社会を的確に表現することはできないし、人々に強く訴えることはできないという主張に対し、文明は、名古屋での講演等で反論し、自らの作品で実証しました。
しかし、「鶴見臨港鉄道」の短歌を読むと、「第二芸術論」の論争を待つまでもなく、文明がすでに昭和初期に近代社会を直視した短歌を詠んでいたことが分ります。
特に、『山谷集』には、ほかにも近代社会をテーマにした短歌が収録されています。
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす(「城東区」)
土深く砂利を求めて掘る見れば乏しき国に民や育てる(「多摩川」)
軍艦は出でたるあとの軍港に春の潮みちくらげ多く浮く(「横須賀」)
セメントを荷役の船の白きほこり倉庫を越えて町の方に吹く(「芝浦埠頭」)
石積みて白土に砕く工場は麦青き畑に立ちしばかりなり(「武蔵小川町」)
さらに遡れば、斎藤茂吉が大正14年に「『ふゆくさ』小評」で、「土屋君は、高等学校に入ってからも、大学にゐた頃も、時折、短歌は所詮小芸術に過ぎない。短歌では到底近代人の心を盛ることは出来ん、などと唱へて、当時にあつては何も彼も短歌で片付けてしまはうとしてゐる僕などを驚かしたのであつた。」と述べています。文明は戦後の「第二芸術論」論争のはるか前に、すでにそのような考え方を乗り越えていたのだと思います。
今回、鶴見線に乗ったのは昼近い時間だったので、乗客はまばらで、「ローカル線」に近い雰囲気でした。周辺の工場は、新旧それぞれでしたが、全体的には静かな感じでした。海芝浦への路線は、文明が「鶴見臨港鉄道」を詠んだ頃にはまだ開通していませんでしたが、京浜運河の向こうに工場群が広がる光景は雄大で、文明が健在ならばどのように詠んだのだろうと思いながら、電車折り返しまでの時間を過ごしました。
子規庵を訪ねて






台東区根岸にある子規庵を訪ねました。
道順はあらかじめ調べましたが、山手線の鶯谷駅を降りたら、どちらへ進めばいいか分からなくなってしまいました。交番があったので尋ねると、分かりやすい案内図をくれました。案内に従って10分程度歩くと、大通りから脇道に入った静かな街並みの中に、ブロック塀に囲まれた子規庵がありました。
従来の庵は、昭和20年4月戦災で焼失しましたが、昭和25年子規の弟子である寒川鼠骨の尽力により再現されたそうです。現在の庵も、すでに80年が経過しているので、年を経た重みがあり、子規の暮らしに思いを馳せることができました。
特に、子規が結核の病に苦しみながら執筆を行った「病床六尺の間」に入ると、子規がここで詠んだいくつかの短歌が浮かびました。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
庭には、糸瓜や鶏頭など、病床の子規を慰め、俳句や短歌の素材となった草木がたくさん植えられていました。
絶筆三句の碑もあり、哀れさを誘いました。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水もとらざりき
文明は、朝日新聞に掲載した「折り折りの人(7)久米正雄」で、「そのころ根岸の子規旧居では九月十九日を中心にして子規忌の俳句会が開かれ、短歌会の方の忌会はそのあと開かれるらしかった。私は短歌会に出て、俳句会の方の出席者名簿に久米三汀のあるのを見て、やっぱり来ているなと思った記憶がある」と書いています。ですから、子規庵を訪れているし、おそらく子規の母や妹にも会っているに違いないと思いますが、残念ながら生前の子規には会っていないようです。
正岡子規は、特に俳句や短歌の分野で、近代化にかけがえのない大きな功績を残した文学者です。子規の活躍がなければ、日本の文学は現在と全く違ったものになっていたと思います。
土屋文明は、伊藤左千夫に師事し、『アララギ』の歌人としての道を進みますが、左千夫は子規に師事し、左千夫も文明も、子規が「歌よみに与ふる書」などで唱えた「写生」や「万葉集尊重」の考え方に従って文学活動を行いました。
文明は、昭和26年に子規の故郷松山で開催された「子規五十年祭」に参加し、短歌を詠んでいます。(歌集『自流泉』に収録)
子規五十年祭
五十年すぎにし君の故国に親しくもあるかな青き蜜柑の
伊予の温泉の夜は静まりいさ庭のゆづきの丘にふくろふの鳴く
湯の岡に終夜なる水の音子規五十年祭のあと興奮す
木むらには朝の露のしとどにてねむの実ねむの葉すがれむとする
正岡の升さんあり子規あり就中我が命竹の里人
文明の子規への尊崇の念は厚く、全歌集『竹乃里歌』から短歌等を厳選した『子規歌集』(岩波文庫)の編者にもなっています。
文明記念文学館に勤める者としてはもっと早く訪ねるべきでしたが、今回訪ねることができて、子規や文明への思いを強くすることができたような気がします。
帰りがてら、子規ゆかりの豆腐の「笹乃雪」の句碑をながめ、「羽二重団子」でおいしい団子とお茶をいただきました。
かたい友情







山本有三記念館を訪ねました。
三鷹駅から玉川上水沿いの道を歩きました。上水の流れはゆるやかでしたが、途中には太宰治の文学碑がありました。15分ほどで家並みが途切れ、「三鷹市山本有三記念館」という控えめの看板と、企画展「山本有三没後50年 濁流 雑談 近衛文麿 ―燃ゆる創作への想い―」の標示を見つけました。道からかなり入ったところにあり、門も建物も洋風で、山本が国語の口語化を強く主張したことを思い出しました。
1階は、子どもを大切にした山本にふさわしく「おはなし会」がちょうど開催されていたので、見ることができませんでしたが、2階では、標示されていた企画展が開催中で、ボランティアの方に丁寧に解説していただきながら観覧することができました。建物のすばらしさとともに、近衛文麿と山本有三とのかたい友情に感動しました。近衛は、昭和19年7月、東条英機内閣打倒のため首相暗殺も辞さないことを山本に告げ、その声明文の執筆を依頼しました。戦後しばらくして、山本は、近衛の真相を知ってもらうために「雑談」を発表しました。



荻外荘には、山本有三記念館に来る前に寄ってきました。
荻外荘は、総理大臣を三度務めた政治家近衛文麿の旧宅ですが、約10年にわたる復原整備工事が終了し、昨年12月から一般公開されています。荻窪駅から住宅が並ぶ中をだいぶ歩いて、途中で尋ねたりしてようやく着きました。木々に囲まれた壮大な日本邸宅の美しさに藤原氏の伝統を受け継ぐ近衛家を実感しました。昭和15年7月、第2次近衛内閣の閣僚予定者である近衛文麿(総理)、東条英機(陸相)、吉田善吾(海相)、松岡洋右(外相)が会談し、ドイツ・イタリアと同盟を結び、東南アジアへ南進する政策方針が決められ、太平洋戦争への道を歩むことになった客間。敗戦後の昭和20年12月、戦犯としてGHQへの出頭を求められた近衛が自決した書斎。日本史の舞台となった部屋を目の前にして厳粛な気持ちになりました。
山本有三と土屋文明は、明治42年旧制第一高等学校に入学して出会いました。ともに、ドイツ語の単位を落として留年しましたが、錚々たる仲間のなかで、二人だけが文化勲章を受章しています。二人は、久米正雄、菊池寛、芥川龍之介などとともに第三次『新思潮』のメンバーです。国語の口語化を主張する山本と万葉集を尊重する文明と、考え方はそれぞれでしたが、かたい友情に結ばれていました。そのことは、山本の死を悼んで詠んだ文明の短歌にもよく表れています。近衛文麿も旧制一高の同級生です。
山本有三君を悲しむ(『青南後集』昭和49年)
ありし日の如く清らに言葉なき終の姿にあふもかなしも
談らひし伊勢の旅ゆきもはたさぬに君は早くも終り給ふか
古く長く交はることを心にし我がため多くはかりくれにき
少き交はりに共に老に入りなほ長き日をたのみしものを
伊豆の海の光も岸の冬の日も君を別れて見るべきものか
三鷹にて山本有三を思ふ(『青南後集』昭和52年)
君が住みし七処の五処知りたれど思は深しかの牟礼の家
君がもとのあたりいづらと見やるとも変化ははげし新興市街
建物の間にわづかに旧上水水は行くのか行かぬのか見ず
三十年過ぎて変るといふならずすでに新しき異国あり
君が庭の水鳥の来る池の落葉昨日のごとく我は思ふに
なごやかにゆたかに湯河原はありたれどみ山なす静けさに三鷹の家
上水に沿ふも静かに人稀に行きつつ我をばはげましくれき
世におくれ職をはなるるしばしばにて君が言葉は力なりけり
生ける世に最も長き交はりと君をぞ思ふ駅の迷路に
槻の丘(墓参り)
12月8日は文明先生の命日です。今年は、当日が日曜日で、恒例の暮鳥文明まつりが文学館で開催されたので、13日、職員4名で、埼玉県比企郡ときがわ町にある文明のお墓と菩提寺である慈光寺にお参りしました。







文明のお墓は、慈光寺に向かう山道の途中、けやきなどの樹々に囲まれたこぢんまりした墓地にあります。私がお参りしたのは、3年ぶりくらいですが、樹々が大きくなり、墓が増えていることに時の流れを感じました。
墓地はよく管理され、落ち葉がわずかに散っているくらいで、たいへん整然としていました。土屋家のお墓には花が進ぜられており、まだそれほど日が経っていないように見えました。私たちも花をお供えし、お線香を上げて手を合わせました。
墓地の傍らの歌碑は、紅葉を背に、以前と変わらずひっそりと建っていました。
亡き後を言ふにあらねど比企の郡槻の丘には待つ者が有る(『青南後集以後』)
この歌碑を見ると、長男や妻に先立たれた文明のさびしさをいつも思い出します。
文明は、昭和49年に長男の夏実氏が亡くなった後、子がいたにもかかわらず、長野県教員を辞めた、50年前のことを悔いて詠んでいます。
ほしいままに職を捨て幼きを養はず悔いて言ふとも五十年前
昭和57年に最愛の妻であるテル子さんが亡くなった時に詠んだ絶唱もあります。
さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝を柩に
終わりなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ
いずれも『青南後集』に収められています。
お墓にお参りした後、紅葉の山道をさらに上って慈光寺を参拝し、ご住職にご挨拶申し上げ、土屋家の位牌にも手を合わせました。
慈光寺は673年創建のたいへん由緒のあるお寺で、宝物館には国宝「慈光寺経」なども蔵し、境内には「はがき」という言葉のもととなった「多羅葉樹」の木もあります。
久しぶりに比企を訪れて、文明先生が永眠するにふさわしい山とつくづく思いました。
ああ久米正雄
11月14日に福島県郡山市にある「こおりやま文学の森資料館」を訪ねました。広い敷地の中、紅葉した木々に囲まれ、郡山市文学資料館と郡山市久米正雄記念館の2つの施設がありました。

(正面入り口)







久米正雄(俳号三汀)は明治43年に旧制第一高等学校に入学し、前年に入学したもののドイツ語の単位を落として留年した土屋文明と同級になり、二人の付き合いが始まりました。特に、大正7年に文明が長野県諏訪高等女学校教頭として赴任するまで、文学活動をともにしながら親しくしていました。
資料館には、大正7年に文明が久米に送った封書とはがきの2つの資料が展示されていました。
封書は、1月4日付で、夏目漱石の娘筆子との縁談が破談となり、失意のうちに郡山に帰省した久米に、「君が立つ時から田舎に於ける生活の単調に君が堪へられるかどうか心配して居たそれで今朝の君のたよりを受けて矢張君には東京以外の地の適しないことを知った」と書き、帰京を促しています。文明の言葉のとおり久米はこの手紙が郡山に着く前にすでに帰京していたそうです。後に久米はこの失恋を題材として小説「破船」を発表しています。
はがきは、日付がはっきりしませんが、久米が文明に依頼していた『帝国文学』の小説原稿の執筆が遅れていることを詫び、まもなく長野県へ行かざるをえないことを告げるものです。結局は、5月1日発行『帝国文学』24巻5号に、「弟を死なす」という文明の小説が発表されます。
昭和41年に朝日新聞に連載した「折り折りの人」の第7回で、文明は久米との思い出を詳しく書いています。
「久米は碧梧桐の『日本及日本人』の新傾向作者として知られていたから、その一高入学は、私の耳にも久米を見ないうちからはいっていた。」
「三年の時であったろう。久米は少し身体をこわしたというので逗子に転地したことがある。一度泊りがけで遊びに来ないかというたよりをもらったので出かけた。…駅近くの菓子店でバラ売りのキャラメルを五十銭か八十銭買って持った。」
「『新思潮』を出すと時に、私を仲間に入れたのは、たぶん久米が主として考えたのであろう。」
「中条百合子に恋文を渡したのに、なかなか返事が来ない、どうしようなどと訴えたりしたこともある。」(中条(宮本)百合子の祖父と久米正雄の母方の祖父はともに安積開拓に尽力した。)
「東京を引きあげ郡山の母の家に帰るということになり、山本有三君と死んだ中島精一、それに私で銀座の肉屋で別宴をやり、上野駅まで送った。すると、四、五日たったかたたないのに中島が来て、久米は帰っているぜというのだ。」
「私が長野県の学校へ赴任する夜、久米と山本君が天神下で送別の宴をしてくれて、飯田橋駅まで送ってくれた。」
「信州に六年も居って、文学とは遠ざかってしまったから、帰京後も久米と再び親しくする機会はなかった。」
「戦時中文学報国会のことで二年間、いくらかの接触の機会があった。…この満州失言が取り上げられた時、久米がまず羽織を脱ぎすてて、いきおいこんで反論に立ちあがったのは、往年の久米そのままで、今となっては生き残っている私の楽しい思い出である。」
昭和27年3月1日の久米の逝去を受けて、その悲しみを「ああ久米正雄」という題で詠んだ短歌6首が、文明の歌集『青南集』に載っています。
ああ久米正雄
中条百合子まだ処女子の葡萄茶着て道にあひ赤くなりし久米正雄ああ
赤門前今成りし道のすぐなればなべては清く幼なかりにき
恋知らぬ処女子ゆゑに恋ひわづらひ魴鮄の骨焼きて籠りしを
いくつかは吾より若い筈なのに君なきかああこころ遂げきや
送られて飯田町たちし三月より文学に君に疎くなりしかな
猪苗代寒月の波に感じたる若き三汀を吾は思ふなり
この時、文明は62歳。ともに過ごした若い頃をなつかしく思い出しながら、久米の逝去を悼んでいます。
横須賀を訪ねて
JR横須賀駅の外に出ると、海沿いにヴェルニー公園がありました。

ヴェルニーは、横須賀造船所の基礎を築いたフランス人技師で、造船所の建設を提案した江戸幕府勘定奉行小栗上野介とともに、公園内に銅像があります。公園からは、米軍や自衛隊の基地が見え、いろいろな艦船が停泊していました。右手には造船所のドックが並び、建造中あるいは修理中の艦船が見られ、槌音も聞こえてきました。


公園やその周辺は、観光客で賑わい、軍港めぐりの船にはたくさんの人が乗っていました。幼児や犬をつれて散歩している人やベンチに腰掛け海をながめる人もたくさん見かけました。
やや離れたところにある三笠公園でも、国内外のたくさんの観光客が、日露戦争の旗艦三笠を見学していました。
どこも、秋晴れのせいもあって、明るく平和な雰囲気でした。

土屋文明は、「横須賀」18首を『アララギ』昭和8年3月に発表し、『山谷集』に収録しています。
横須賀
軍艦は出でたるあとの軍港に春の潮みちくらげ多く浮く
静かなる春の潮にボートこぎて声はこだますドックの方に
幾隻か灰色の入渠船の後にて赭き建造船にとどろく音あり
子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず
午ちかく逸見の波止場に集り来るランチの汽笛すでに勇まし
三笠艦見つつし思ふ力つくし戦ふはただに功利のためのみならじ
国を守りの戦ながらひたすらに生命いきほふはそれのみによし
敵またよく戦ひし跡はしるく残る幾千の命ただに戦ひけむ
此所に戦死の人のあと見れば生き死の吾が観念の変るかと思ふ
ただに生死のことのみならず戦争をたたへし思想に思ひ及ぶかも
ふり仰ぐ四十サンチのい砲門の斉射のさまを君説きて聞かす
初弾命中に国の存亡はかかるといふその時の砲術長を思ひ涙ながるる
艤へる軍艦見れば戦争の勝負は決してありとも思はる
戦をここに決すべき工廠を妻子をつれてしばし見物す
列をなし航空母艦を見てあるく小学生等もいたくおとなし
春の日の夕日になりし工廠の戦艦のマストなほ酸素燃ゆ
春の日のかぎれる中にひらめきて鉄截る酸素の焔きびしき
わが前の若き士官の友のうへに海行く生吾は思はむ
これらの短歌を読んだ時、私は強い衝撃を受けました。
昭和8年2月、国際連盟は、総会を開催し、満州事変、満州国建国等に関するリットン調査団の報告を受けて日本に対する撤退勧告案を可決しました。これに対し、日本は翌3月、勧告を拒否し、国際連盟を脱退しました。文明が「横須賀」18首を詠んだのは、まさに日本が太平洋戦争敗戦に向かっていく歴史の転換点でした。
文明は、豊富な教養を有する知識人でしたし、社会状況から率直に詠むことは控えていましたが、当時の政府や軍隊に対して批判的な視点も有していました。
しかし、文明が詠んでいるのは、あくまでも日露戦争で独立自衛のために戦った戦艦三笠や、造船で活気づく軍港の様子などです。個々の人間が歴史の実相を見抜くことがいかにむずしいか、ひょっとしたら、現在もそのような歴史の転換点にあって、自分たちが気づいていないだけなのかもしれません。
横須賀を訪れて、そのような思いを再度新たにしました。

大石田の文明(芭蕉と茂吉の足跡をたずねて)
文明は、昭和23年8月に大石田を訪れ、そのときに詠んだ短歌が歌集『自流泉』に「大石田にて」という題で掲載されています。
大石田にて
秋海棠の茂りも夜は静まりて打ちたる水ぞ光れる
ここに伝へて古き五月雨の一巻を遠来し吾ははらばひてみる
声出して板垣君がよむ巻物ただ尊みてわれは見てゆく
水の音すがすがとしてはねあがる鯉の池には月のさし来る
橋ながく涼しき川の風ふけばうづくまるも一人二人にあらず
うづまきて盛り上る水に月てれり下関の渡思ひ出づべく
川ひろく月は岸まで照りたれば今宵蛍も認ぎがたしも
君すみし三年思ほゆ聴禽書屋障子ひらきてみゆるたたみも
この茂る馬酔木さながら降り埋むる雪をさまざまに人は話すも
朝の市終りの時にほしきもの長夕顔もしまはれてゆく
もがみ川吾等のらむと芦の間の沙踏みくづし君がみちびく
底ごもる水の音に少しおそれつつ吾等最上の中淀にあり
舟の上に向ひあひたる結城氏の額の汗は日にてらされつ
さん俵しきていこひの君が森も舟より見ればたちまちにすぐ
石をする舟底のひびき感じつつ一つ早瀬を息のみてこゆ
見下して川ゆたかなる山の上の寺にひめしやがの時はすぎたり
川上より川下より友等あつまりて吾にくれたるあめ玉一つかみ
人参の朱の実による妻と吾老のしるしと誰か見るらむ
汽車にのる友数人は最上川渡りて芦の中ゆくがみゆ
大川におちてあつまる支流みゆ其の水の鮎も吾は食ひたり
尾花沢小学校のわづか見ゆいづくの峠人は越えにし
ゆたかなる枝豆引きて人の居りそれをもしばし立ちて見むとす
道暑く足をさし来る靴の釘友は石拾ひまげてくれたり
夕かげる聴禽書屋見下して今宵の鮎を今食はむとす
庭へだてかげれる聴禽書屋ありすでに障子を閉めて静まる
大石田は、かつて最上川の水運でたいへん栄えた船泊の町でした。松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で訪れ、高野一栄亭で3泊し、同行の曾良、一栄、地元の俳人高桑川水と四吟歌仙を巻きました。その記録が芭蕉の真蹟(直筆)で残され、俗に『最上川歌仙』と呼ばれています。芭蕉の発句は、「五月雨を集めて涼し最上川」。高野一栄亭跡の標示と歌仙碑が最上川の堤防脇にあります。

高野一栄亭跡

芭蕉歌仙碑
また、大石田は、斎藤茂吉が昭和20年4月に故郷金瓶に疎開した後、昭和21年2月から昭和22年11月まで移り住み、歌集『白き山』に収められた短歌を詠んだ町でもあります。
最上川の上空にしてのこれるは未だうつくしき虹の断片
(茂吉が好んで散策した虹ヶ丘公園に歌碑があります。)
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
(茂吉の分骨墓地のある乗舩時に歌碑があります。)
茂吉は、地元の素封家二藤部家の離れを借り、「聴禽書屋」と名付けて、一人で暮らしました。食事の世話は二藤部夫人と同家の使用人、諸々の雑事の世話は短歌の門人板垣家子夫がしてくれました。
聴禽書屋の前庭には、移住直後に大病を患い、その病がようやく癒えようとする頃に詠まれた短歌の碑が建てられています。
蛍火を一つ見いでて目守りしがいざ帰りなむ老の臥處に

木々の間に見える聴禽書屋
文明は、昭和23年10月7日付けの手紙で、茂吉に大石田を訪ねたことを報告しています。
「大石田ではいろいろよいところを見せて貰ひました。全く御蔭によるもので、それにつけても御滞在中参上出来なかったのは残念でした。橋のところから船で黒瀧山まで下りました。五月雨の歌仙も見せて貰ひ感激しました。九月の時報告に上るつもりのところひどい暑さで参いてしまひ失礼しました。」(句読点は筆者補充)
この手紙を参考にしながら、文明の短歌を読むと、さまざまな心情がみごとに表現されていることが分かります。
茂吉が自ら名付け2年を過ごした「聴禽書屋」や、最上川をはじめ茂吉が短歌に詠んだ大石田を見ることができた喜び。芭蕉直筆の『最上川歌仙』の巻物を見せてもらった感激。自然豊かで落ち着いた雰囲気の大石田の町の心地よさ。滞在のお世話をしてくれた茂吉の門人である板垣家子夫や結城哀草果への感謝。最上川を下る船旅の楽しさ。多くの知人友人に会い楽しく過ごせた喜び…などが詠まれています。
10月3日、山形新幹線を利用して大石田に行ってきました。大石田は、駅前から見わたすと、町自体は大きいのですが、高い建物はあまりありません。古い家が多く、静かな雰囲気でした。
まず、聴禽書屋を保存している大石田町立歴史民俗資料館を目指しました。道は下り坂でしたが、予想以上に距離があり、疲れたと思い始めたころにようやく着きました。

大石田町立歴史民俗資料館
資料館の案内版に従い、庭にまわって、聴禽書屋を外から眺めました。古い建物ですが、よく手が入り、きれいに残されていました。「蛍火を」の短歌の碑もありました。その後、学芸員の大谷俊継さんの案内で聴禽書屋の屋内を見せていただきました。屋内はたいへんきれいで、外から見たときよりも広く感じました。座敷からは縁側越にさきほどの歌碑が見えました。床の間には茂吉の軸が下げられ、川岸に坐って最上川を眺める茂吉の代表的な写真や、大石田での生活を支えた門人板垣家子夫、結城哀草果と一緒の写真などが飾られていました。大谷さんからは、乗舩寺に茂吉の墓が建てられたいきさつなども教えていただきました。

聴禽書屋全景

聴禽書屋(座敷)

蛍火をの歌碑
資料館から5分くらい歩くと、茂吉の墓のある乗舩寺に着きました。舟運が盛んだった頃の大石田は富み栄え、乗舩寺にはそのころ造られた大きな釈迦涅槃像もあるそうですが、現在はたいへんひっそりとしていました。しかし、茂吉の墓だけはきれいな花が供えられ、整然としていました。

乗船寺山門

斎藤茂吉の墓(乗船寺)
寺を後にし、北上川に懸かる大橋のたもとへ行きました。北上川は、河川敷の幅はそれほど広くありませんが、水量は豊富でした。堤防を東に行き、川船方役所跡を見た後、引き返して西に行き、芭蕉ゆかりの高野一栄亭跡、歌仙碑を見ました。その周囲は必ずしも整備されていませんでしたが、350年ほど前、あの芭蕉が3日も滞在し、「五月雨を」の発句を詠んだことを思うと感慨深いものがありました。

大橋の懸かる最上川
2時近くになり、見物にも疲れたので、大石田そば街道の蕎麦と、文明の短歌にもある鮎を食べようと探したのですが、曜日のせいか、時刻のせいか、空いている蕎麦屋が見つかりませんでした。それでも、お客がたくさんいるだんご屋で、抹茶だんごとみたらしだんごを食べることができました。
駅にもどると、帰りの新幹線までまだ時間があったので、町が見渡せるようになっている駅の屋上から大石田の町をしばらくながめながら、芭蕉のこと、茂吉のこと、文明のことを考えていると、あっという間に、出発の時間になりました。

大石田の町(駅屋上から)
浅虫温泉(海に沈んだ歌人を想う)
文明の歌集『続青南集』に「津軽浅虫」の題で21首の短歌が載っています。そのうち以下の9首は、文明が昭和39年に浅虫温泉を訪れ、すでに故人であった桜田角郎(明治38年~昭和29年)という人物を思い出して詠んだ短歌のようです。
港の灯と思ふあたりを見て寝ねき明時の汽笛ゆるやかに聞ゆ
送りたる根室の鮭は我に到り君は颱風に船に沈みき
米持たぬ我等迎ふと海渡り来りて米を求めあるきし
温泉の町に君が探しし米を食ひ塩はゆき温泉に共に宿りき
在りし日も亡きあともかなしき物語君がうへに聞く心にしみて
君得意にて朝鮮神社にみちびきき間もなく国の破るるにあふ
国の破るる待たずにありし君の不幸君が言はねば我知らざりき
君が納屋にひそかにかみし馬鈴薯の濁り酒も思へば悲しき一つ
朝の海くもりて静かなる前の島に向ふあひだも亡き君思ほゆ
これらの短歌が桜田について詠んだものらしいということは、関西アララギ会員による文明短歌研究で知りました。その後、旧制函館中学校、函館中部高等学校の同窓会である「白楊ヶ丘同窓会」の東京支部の会報「東京白楊だより」の第18号(平成7年7月20日発行)に、昭和13年卒業の同窓生井上勲氏が「昭和万葉集と桜田先生」と題して投稿されているのを発見しました。
それによると、桜田は、神宮皇学館を卒業後、旧制函館中学校などで国語を教えましたが、昭和17年には朝鮮に渡り国策で造られた光州神社の主典(宮司)となりました。昭和20年に召集され、終戦を迎えましたが、宮司であったことから戦後は公職追放となり、大変苦労しました。そして、昭和29年9月26日、桜田は運悪く颱風で沈没した洞爺丸に乗り合わせ、この世を去りました。
『アララギ』の昭和9年5月号には、「函館大火」の題で、同年3月21日に被災した体験をもとに、
重傷 負える妻を引き連れ念じ来し砂山もすでに災 の海となりぬ
目の前に災となりし人いくたり見つつ術なく吾等逃げ行く
など、桜田が詠んだ短歌5首が載っていることも記されていました。
井上氏の投稿を参考にして、文明の短歌を読むと、桜田が文明を師として慕い、厚くもてなしていたことがわかります。光州神社の主典在任中には、朝鮮を訪れた文明の案内をしたり、太平洋戦争後は、食料不足のなか浅虫温泉を訪れた文明一行のために、北海道からわざわざ海を渡ってやって来て、米を調達したりしてくれたようです。海難事故で亡くなる直前には根室産の鮭を送ってくれたようです。
事故から10年後に桜田との思い出の地である浅虫温泉を訪れ、海を眺め、遠くに青函連絡船の港である青森港を望みながら、自分に尽くしてくれた桜田のことを回想して詠んだのがこれらの短歌です。
このようなことが分かってくると、どうしても浅虫温泉へ行ってみたくなりました。当日は、上越新幹線、東北新幹線で新青森に着き、弘前に寄り道したのち、青森駅から青い森鉄道に乗り、20分くらいで浅虫温泉駅に着きました。駅を出ると、穏やかな海が、岸近くに大きな湯の島を配し、湾状に広がっています。陸続きの左奥には、青森の市街が小さく見え、その背後には岩木山が望めます。見晴らしのよいホテルに一泊しましたが、温泉は塩はゆく、海は昼、晩、朝と、さまざまに変化し、美しさの尽きることがありませんでした。それだけに、人生のはかなさを思い、感傷的になりました。そして、苦労が尽きず、最後は海難事故でこの世を去った桜田角郎のことを思わずにいられなかった文明に思いを馳せることになりました。

青い森鉄道

浅虫温泉駅

浅虫温泉旅館街

海の向こうに青森市街と岩木山を望む

青が鮮やかな浅虫の海

夕日の沈む浅虫の海