群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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特別館長日記

人生の転機に訪れた那須

2025年05月23日

 土屋文明は、100年の生涯において日本各地を旅していますが、大正13年、昭和5年、8年、27年(短歌発表は28年)、32年の少なくとも5回、栃木県の那須を訪れ、多数の短歌を詠んでいます。

 大正13年は、文明にとって人生の大きな転機でした。
 文明は、大正5年に東京帝国大学を卒業し、大正7年に島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校教頭の職に就きます。大正9年には校長に昇任し、同校での実績が評価されて、大正11年には松本高等女学校校長に転任します。短歌ができなくなるくらい、情熱を傾けて女子教育に取り組んでいましたが、松本の有力者の反感を買い、県が木曽中学校長への転任を発令すると、拒否して長野県教員を退職しました。東京へ戻った文明は、知人の世話で法政大学予科の専任講師に就き、生活の糧を得ることができました。しばらく離れていたアララギにも復帰し、翌年2月には第一歌集『ふゆくさ』を刊行します。以後の文明は大学に勤めながら短歌に専心する人生を送ります。

 妻や友人と訪れて昔を懐かしんだ昭和32年の旅は別として、那須を訪れた昭和5年も、8年も、27年も文明にとっては人生の転機でした。

 ・昭和5年5月斎藤茂吉から「アララギ」の編集発行人を引き継ぐ。
 ・昭和8年1月「アララギ」25周年祝賀会を開催し、記念号を編集発行する。4月明治大学専門部文芸科講師となる。
 ・昭和27年1月「アララギ」編集発行人を辞退する。4月明治大学文学部教授となる。

  4月22日、殺生石、雲巌寺、那須国造碑の順で那須を訪ねました。いずれも、雄大な自然や悠久の歴史のなかで、自分の人生について落ち着いて考えることができる雰囲気で、文明が何度も訪れた理由が分かるような気がしました。殺生石の近くには1300年前に鹿が発見したという「鹿の湯」があり、文明も入ったに違いないと思いながら私も旅の疲れを癒しました。

   那須雲岩寺(『ふゆくさ』大正13年)

しだれ(ざくら)老木(おいき)しきりに落葉(おちば)せり(あま)ばれあとの(あを)(ごけ)(うへ)

うすくらき金堂(こんだう)のうち(おと)のして仏具(ぶつぐ)(つくろ)(ひと)()たりけり

しめりもちて(つめた)(だう)()にこもり(うるし)(にほひ)しるくきこゆる

(あを)(ごけ)(には)()ざしに赤棟(やまかが)()いでて(した)はく(ひる)すぎにけり

   仏国禅師の墓をめぐりて幾基かの石塔並べり

(かも)(ごと)くみ(はか)(つつ)(こけ)(なか)にふもとすみれは()のみなりけり

この(てら)()りて幾代(いくよ)()へにけむ(ひじり)()(はか)(かたむ)けるあり

(ひと)()のここに(さび)しさを()()てし(はか)(ちひ)さく(こけ)しげりたり

(くさ)()昨日(きのふ)(あめ)のしたたりて(はか)(かこ)める(いは)(さむ)げなり

   名月の日に逢ひて露久保といふ字もをかし鰻坂を越え暮れて庵野に至り宿る

ならぶ(やま)みな萱原(かやはら)()にいでて(すぢ)()(かぜ)になびき(ひか)れり

(ぢょ)生徒(せいと)はおのおの尾花(をばな)()りもちて(つゆ)久保(くぼ)(むら)にかへりゆくなり

(をさな)()尾花(をばな)もちゆく(はは)のあとに(かや)(あま)(くき)かみつつ(したが)

(いへ)いつぱい(つる)しならべし葉煙草(はたばこ)(あを)くさき(いへ)()りて(みち)きく

(ゆふ)(ちか)(には)乾草(ほしぐさ)かをり()煙草(たばこ)()すをんな言葉(ことば)すくなし

()(みぞ)(やま)(あめ)草山(くさやま)いただきに(ちか)(せま)りて(しる)きみちすぢ

(たに)かげに(くろ)(しげ)りのところどころ(しろ)(さび)しき(たら)(はな)みゆ

(ゆふ)しづむ那須(なす)国原(くにはら)をかこむ(やま)(けむり)ほのかなるは那須(なす)(だけ)ならむ

(でん)(とう)なきうす(くら)(へや)尾花(をばな)()(かき)(くり)(そな)(いへ)ごとにして

(わく)()てし尾花(をばな)をかこみうからどち(わん)(あふ)ぎて(もの)()()もあり

(ちか)くきこゆ水車(みゐしや)(をと)(と)(つき)(さや)けきを(おも)(つひ)(ねむ)れり

   那須殺生石(『山谷集』昭和5年)

吹く風は尾の上の草に渡れども谷あつくして毒気うごけり

殺生石は草木たえたる石はらに秋ひる過ぎの陽炎は立つ

香に立ちて青草山へ吹き越ゆる石の毒気をしばらく(こら)

谷風はときどき涼しく吹き来り青山のいろすでに秋づく

殺生石に涼しき風は吹き居りて虫の死骸(しがい)の多くはあらず

こともなく散りぼふ虫は死にてあり甲虫をいくつか拾ふ

殺生石の石はら中に水湧けり清々(すがすが)として青しその苔

朝日影山にてりつつ谷ふかき殺生石に露ながれ居る

石の上に涼しき露は凝りながら吹く朝風の毒気鋭し

   那須(『山谷集』昭和8年)

さむき風桜の花に吹きつけて(あさ)(かぎろひ)は立てり那須野に

芽ぶきたつ春の山べに雷なりて降りたる雹は白くたまりぬ

春草に掬ふばかりにたまりたる雹の消えゆく束の間を見つ

山の上の雪にかがやく春の日よ汗ながしゆく殺生石の谷を

雪のある谷のなだりをおろしくる風は殺生石の硫気を吹けり

殺生石の石原に陽炎のもゆるとき布子をしきてしばし休みぬ

湯の花をとる焼石の原なかに清水ながれ虎杖の萌えいでにけり

手に持てるりんだうの花かたくりの花殺生石に投げ捨ててゆく

   那須雑詠(『山谷集』昭和8年)

とどろきて雷すぎにける夜のそらに鳴きゆく鳥を雁かとぞ思ふ

しら雲は月のひかりにうごき居り(なん)月山(げつざん)黒谷山(くろだにやま)

月のひかり雲をてらせる山べより黒々として谷の下れる

さやかなる月はひろらに照らせれど()(みぞ)あたりはすでにかそけし

この宵のとみの涼しさななかまどの黄になりし実を房ながら挿しぬ

葱を負ひ山をのぼりてゆく人あり焼山谷に汗をながして

   那須雲岩寺(『山谷集』昭和8年)

われかつて飲みにし道の泉には子供の寄りて今日も飲み居る

病む父の薬をもてる少年と語りつつこえき十年(じふねん)まへに

今日の日に再びこゆる那須野の道十年(ととせ)といふはあはれなりけり

この前は草鞋をはきてこの谷をなほ奥ふかくのぼり行きにき

山門の前にさやけき瀬の音のわが記憶よりいたく清けし

岩かげに水わき流れ墓ありて苔のむしろはかはることなし

みんみん蝉あまた鋭く響ければあはれ衰へてつくつくほふし啼く

   悼平福百穂画伯(『山谷集』昭和8年)より(参考)

那須野より久慈の川上とめゆきて君に白河にあひしをぞ思ふ

朝ぎりは煙の如くたなびきて山川の温泉に君と浴みにき

すこやかに君は浴みて山川の(たぎち)の中に足を浸しき

山の上の月をあはれみ時経ぬに君をはふりの宵のさやけさ

従ひて入りにし山のいまだ暑く夜半の月夜に談りたまひき

帰りますむなしき君を迎へては皆人われもこゑあらめやも

(はふり)のはてにし夜の風吹きてあはれ幾日の心ゆるまむ

   那須雲岩寺(『青南集』昭和28年)

一夜して紅葉(もみぢば)散らふ前に来つ時雨の中に宿りせりけり

草ひとつ苔の中より拾ひ取る更に来ざらむ谷かげの寺

思ひたわみこの谷深く歩み入りきいかなる刺戟にもすがらむとしき

その夜の宿もなくなりぬうべな宜な三十年は長かりしかな

命なれば三度こえ行く谷の道今日は朝より腰いたくして

   那須国造碑(『青南集』昭和28年)

枯草に冬日しづまる道ひろく幾年こひし笠石の前

扉ひらく時まちて登るふる墳に露はしたたるいばらの実より

首巻の毛糸たらせる氏子のかげ恰も今日の祭にぞあふ

近々と我をみちびき石に触らす水戸光圀のごとき翁なり

紛なき永昌の文字ありの儘に歴史のつながり知らむ日は何時

   那須の国(『青南集』昭和32年)

友十人我と我が妻をみちびきて夕かげとなる殺生石の谷

交りて二十年或は四十年我と二日あそぶ忙しき君等

実となりしふりそで柳の一枝も根つかば長き思出とせむ

わが好み君等に強ひて那須の国の若葉の中を昨日も今日も

畔の上に()(ばな)を拾ふ童一人幼きわが姿妻にもいはず

三十年に四度来りてこの寺の藤のさかりに会へる今日かも

生ける世のさびしくならば此所に来よ谷にたなびく藤浪の花

『磔茂左衛門』の作者―藤森成吉

2025年05月08日

 5月5日の上毛新聞「上毛かるたを歩く」は、「天下の義人茂左衛門」についてでしたが、藤森成吉について次のように触れていました。

 戯曲『磔茂左衛門』(藤森成吉・26年)を読むと、ストーリー展開の要はやはり将軍直訴。…藤森はプロレタリア作家、…茂左衛門は時代の要請を受けて権力と対峙する義民の役割を演じてきたともいえる。 

 藤森成吉は、土屋文明の友人です。文明は、長野県の高等女学校に教頭、校長として勤めた大正7年から13年までの6年間を回想した自伝『信濃の六年』の中で、次のように述べています。

 期限つきの家から、第二の借家に移ったのは、奇遇といえば、奇遇であった。それは大阪屋という薬屋の別荘として建てたのであるが、更に新しい別荘が出来たので、借家としたという。広くはないが、自家用の温泉と浴室がある。家内が借用を頼みに出向いたところ、主人が、成吉の友人だそうですから前よりも家賃を引いて置きますということであった。藤森成吉君は、一高の寄宿舎で隣室であり、諏訪出身であるというので、私も諏訪に友人があるということから、いくらか話しあったこともあったのである。藤森君は帰省の際わざわざ訪問され、家のことで不自由があったら遠慮なくとまで言ってくれた。

 藤森家から借りた温泉付きの家での安定した生活は、一高・帝大時代、そして卒業後の2年間、経済的に苦労してきた文明が、先輩歌人島木赤彦の尽力で諏訪高等女学校教頭の職につき、赴任前に長年交際していた同郷の女性と結婚して手に入れたものでした。

 第一歌集『ふゆくさ』に、その家での生活や文明の心情を伺うことのできる短歌が23首収録されています。

   湯ある家

湯ある家求めうつれり湯室(ゆむろ)ばたの楓まがりて衰へはやし

湯室漏れまきめぐる湯気に立ちそへる楓葉は朽ち散りそめにけり

山国の秋早みかも此の朝け立つ湯煙のあたたかにみゆ

煙たつ湯をまぜながら言ふ妻の声はこもらふ深き湯室に

掘り下げし湯室に居れば前の川を下る船あり石にふれつつ

雨の夜は物音もなし庭さきに二つともれるシグナル赤し

地盤よわき二階家に住みゆれ通る汽車にもなれてねむる夜かも

寒き国に移りて秋の早ければ温泉(いでゆ)の幸をたのむ妻かも


   田宿の家

国とほくここに来りて妻とわれ住む家求む川にのぞみて

温泉わけば借りてわが住む家の前をのろく流れて行く(えの)()(がは)

(えん)ぬりの板の木戸朽ちややかしぎ直ちに向ふ前の流に

収穫(あき)すみて隣の人がつなぐ船阿伽(あか)は溜りて岸につきたり

朝な朝なつなげる船に米洗ふ向うの人等いまだ馴れずも

湯の口に近く植ゑたる菁莪(しやが)の葉の朝の凍りに寒さを計る

旅にして家借り住まふ小和田村隣もうとく冬にいりけり

夜おそく湯槽を払ふ放ち湯の落ちゆくかもよ地下に音して

降りし雪凍てて(こご)れば空きらひ低くくもりて寒き日つづく

寒き国の町の習はし夕はやく大戸下ろして静まりにけり

並ぶ町家大戸おろせば上諏訪のゆふべの道は凍りて寒し

()()を汲む人等さむざむ並び居て高く立ちのぼる温泉のけむり

土湯そばの船処(ふなと)あまねく湯気は立ち田宿の家にわがかへるなり

わが家の湯尻は川に湯気立てて寒く流れてゐたりけるかも

かきあつめ楓がもとにつめる雪ややとくるらし湯の地(ぬく)みに

(注)歌集『ふゆくさ』の短歌には、漢字すべてにルビが振られています。


 藤森成吉は、昭和3年に行われた普通選挙制による初めての選挙に、労働農民党から立候補しました。そのとき、文明の校長時代に諏訪高等女学校を総代で卒業した伊藤千代子が選挙運動を支援しました。千代子はまもなく治安維持法違反で検挙され、転向を強要されて昭和4年に病死します。

 昭和10年に文明が東京女子大学(千代子の母校)で講演したときに、伊藤千代子のことを思い出して詠んだ短歌6首が歌集『六月風』に収録されています。

   某日某学園にて

語らへば眼かがやく処女(をとめ)()に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと

清き世をこひねがひつつひたすらなる処女等の中に今日はもの言ふ

芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(をとめ)あれこそ

まをとめのただ素直(すなほ)にて行きにしを(とら)へられ(ごく)に死にき五年(いつとせ)がほどに

こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきておもはむ

高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき

 土屋文明について、日本文学報国会に参加したり、陸軍省嘱託として中国を視察していることを捉え、戦時体制に協力したのに反省が足らないと指摘されたこともありますが、中国視察の短歌を収録した『韮菁集』を含め、文明がこの時期に詠んだ短歌を総合的に判断すれば、そのような指摘が誤りであることは明らかだと思います。

 小さいころに覚え親しんだ上毛かるた。上毛新聞の特集でそれぞれの札について、知識が広がっていくのを楽しんでいます。

 自己を犠牲にして民衆を救おうとした茂左衛門、社会運動に信念をもって取り組んだ藤森成吉、伊藤千代子、現実を短歌に表現することにすべてをかけた土屋文明がつながっていきました。

漱石山房・小石川後楽園を訪ねて

2025年04月09日

 4月3日は小雨日和でしたが、東京はちょうど桜が満開だったので、漱石山房記念館、小石川後楽園を訪ねました。

 漱石山房記念館は、漱石の自宅のあった早稲田南町にあります。同じ町内には、正岡子規門下の俳人で政治活動をしていた赤木格堂の経営する青年日本社兼自宅もありました。大正2年頃、学費に苦労していた土屋文明は、恩師伊藤左千夫の紹介で雑誌「青年日本」の編集手伝いとして格堂のもとに寄食していました。

 赤木先生包み下されし幾ばくか手を触れざりき貧は貧 『続々青南集』

 漱石山房記念館の展示室では、漱石と関係のあった文学者等が写真とともにたくさん紹介されていました。その中に、芥川龍之介や久米正雄など文明の一高時代の同級生もいましたが、文明の名はありませんでした。文明が夏目漱石に接した記録自体もありません。

 同級生たちが会費を出し合って第三次「新思潮」を刊行した時も、文明は会費を出すことができず、仮の会員として参加したと伝えられていますが、文明に経済的な余裕があれば、漱石に会う機会もあり、その人生も変わっていたかもしれません。

「小石川後楽園」14首は、「短歌研究」の昭和13年9月号に発表され、歌集『少安集』に収録されました。

笹うゑし廬山ろざんの形小さくしてこむらの下に黄にしづまりぬ

狭き水に西湖せいこつつみかたどりぬ石塘いしづつみすぐに草はあれたり

みつがしは実の穂になりて衰へつつすゐれんもはびこる程にはならず

見ぬ国をここに小さくつくりいでみねを並べて山あはれなり

幾度いくたびか火に焼けし園に残りつつあくまで茂るしだれ桜は

いりゆきて夏の落葉おちばのしげきかな音たえし谷の一所ひとところあり

移り去りし工廠こうしやうのあとなほ広く草のしげりのほしいままに見ゆ

菖蒲しやうぶとなりて残れり大名だいみやうの米をたふとび作りたる田は

くれなゐはうすき光の中ににほひ夕べのはちすくづほれむとす

くれなゐの蓮の花のふくだみてしどろになりつ清きかがやき

白き花くれなゐの花池をわかちい照りかがよふ曇り日の下

松原の中の静かさ眠らむに吾はおどろく何のやさしきこゑ

相よばふ水の上の鳥かしらあかくいまだにこのひなのしたがふ

かづきする親鳥のいきながきしばしゆきめぐるものこゑををさめつ

 小石川後楽園は、水戸徳川家が建設した広大な「回遊式築山泉庭園」で、日本と中国の有名な景観がたくさん再現されています。歩いてみると、文明の短歌はここで詠んだのではないかという情景に出会うことができます。しかし、昭和11年の二・二六事件、昭和12年の盧溝橋事件、昭和13年の国家総動員法と、日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた時代に詠まれただけに、全体的には、暗さや寂しさが感じられます。
  現在、庭園はしっかり整備保存され、樹々の向こうに高層ビルがいくつも見え、文明が詠んだ頃とは大きく異なっています。それがかえって戦後80年の平和を象徴しているように感じました。

上信道工事中

2025年03月30日

 

 3月25日、東吾妻町川戸の大川家旧宅を訪ねました。すぐ前を通る上信道の工事が現在進行中で、文明が戦中戦後疎開し、その後も当時の様相がほぼ残されてきた川戸もまもなく大きく変わってしまいそうです。

 昭和20年5月25日、アメリカ軍のB29による無差別空襲で、東京南青山の文明宅も全焼しました。文明は、長女の草子かやこが吾妻高等女学校に勤めていたこともあり、群馬県吾妻郡原町の旧家である大川正宅の部屋を借りて暮らしました。

 この時、文明は55歳、敗戦後の食糧難の時代に、山の土地を借りて開墾し、自ら畑を耕して暮らす生活はさぞかし苦労が多かったと思います。川戸での疎開生活は、昭和26年11月までの長期にわたりますが、歌集『山下水』『自流泉』に収められた短歌を読むと、年を経るに従い、生活状況が改善していったことが分ります。

 疎開中も、文明は、短歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)の立場にありました。
 太平洋戦争が終わるといち早く、20年11月には、会員との連絡が困難で、物資も不足する状況にもかかわらず、長い間休刊していた『アララギ』を、昭和二十年九月号(出詠者8名16ページ)として復刊しました。

 また、昭和21年から22年にかけて叫ばれた、短歌の文学的価値を軽視する「第二芸術論」には、自らの歌づくり、全国をまわっての講演、歌人への激励等で対抗し、短歌の伝統を守り、発展させました。文明の指導で、『アララギ』の地方誌が全国各地にでき、群馬県には、齋藤喜博の尽力で『ケノクニ』ができました。

 一高時代の友人の紹介で、山口大学に赴任する話もありましたが、実現せず、東京へ戻った翌年27年に明治大学の教授に就任しています。

 

川戸疎開から南青山復帰まで、文明の様子がわかる短歌を掲載しました。なお、「垣山に」の短歌は奈良県で詠まれたものです。

朝よひに(ま)清水(しみづ)(つ)み山に採み養ふ命は来む時のため(『山下水』20年)

朝々に霜にうたるる(みづ)芥子(がらし)となりの兎と土屋とが食ふ(〃20年)

山の上に吾に十坪の新墾(あらき)あり(かぶ)まきて食はむ饑ゑ死ぬる前に(〃20年)

にんじんは明日蒔けばよし歸らむよ東一(あづまいち)(げ)の花も(と)ざしぬ(〃21年)

ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し(〃21年)

友二人われをおくりて(ゆふ)(かは)田辺(たんべ)わたればわが川戸(かはど)(むら)(〃21年)

歌作るを生意志なきことと吾も思ふ論じ高ぶる阿房どもの前に(〃21年)

垣山(かきやま)にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ(21年)

南瓜(かぼちゃ)二つくさりて春となりたるもゆたかなりける今年の冬ぞ(『自流泉』22年)

疎開人かへりつくしし春にして泉の芹を我独占す(〃23年)

大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな(〃24年)

この山の(いも)を盗まねば(う)うるかと恐れしと時も過ぎて(はる)かなり(〃25年)

戦ひて敗れて餓ゑて苦しみて凌ぎて待ちし日と言はむかも(〃26年)

うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮しを始む(『青南集』26年)

 文明が暮らした大川家は、町長も務める旧家にふさわしく、今見てもたいへんな豪邸です。南側の庭も広く、錦鯉が泳ぐ大きな池を配し、たくさんの樹々が植えられていました。

 文明が暮らした部屋は、屋敷の西側にあり、それなりの広さがありましたが、家族で暮らすには手狭だったと思います。部屋の正面には、「友二人」の短歌の色紙が飾られていました。

 「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌というものはほろびないばかりではない、いかなる社会機構の中でも存在しつづける」という名古屋での講演も、この部屋で考えたのではないかと思うと、感慨深いものがありました。

 上信道の工事が行われているのは、大川家の南側で、工事現場の近くには、清水が湧く場所があり、筧で豊富な水が大川家の庭に引かれています。向こうに見える山林の中には、文明が飢えをしのぐために開墾した「十坪の新墾」もありました。世の移り変わりは常とはいえ、文明ゆかりの地が大きく変わってしまうことに寂しさを感じました。

鶴見臨港鉄道

2025年02月17日

 鶴見臨港鉄道は、大正末期から昭和初期にかけて、埋立地に造られる工場群への輸送機関として、浅野や安田などの民間企業によって開発されました。現在はJRの鶴見線になっています。周辺の京浜工業地帯は日本近代化の象徴です。

  

 土屋文明は、昭和8年にここを取材し、近代社会における産業と人間の様相を直視して「鶴見臨港鉄道」という題で、21首の短歌を詠んで雑誌『短歌研究』に発表し、『山谷集』に収録しています。

 鶴見臨港鉄道
枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす
船体の振動見えて汽笛鳴らす貨物船は枯葦の原中にして
たくましき大葉ぎしぎし萌えそろふ葦原に石炭殻の道を作れり
二三尺葦原中に枯れ立てる犬蓼のからにふる春の雨
大連船籍の船名みれば撫順炭積みて来りし事もしるしも
石炭を仕別くる装置の長きベルト雨しげくして滴り流る
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
蕗の薹踏まれし石炭殻の路のへに蕗の葉若々しく萌えいでにけり
稀に見る人は親しき雨具して起重機の上に出でて来れる
貨物船入り来る運河のさきになほ電車の走る埋立地見ゆ
解体船の現場を示す枯原の道は工場にただに入り行く
雨の中に解体船の船橋の捨てあるは運河の対岸ならむ
よし切か雲雀かこゑのひびけるは工場地帯の休憩時に
おのづから運河をのこす埋立に三井埠頭は設けられたり
本所深川あたり工場地区の汚さは大資本大企業に見るべくもなし
幾隻か埠頭に寄れる石炭船荷役にはただ機械とどろけり
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ
群りて蓼の芽紅く萌えいづる空地はすでに限られてあり
吾一人ありて歩める運河の岸青き潮干はしばしだに見む

 文明は、昭和5年から昭和27年まで歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)を務め、正岡子規と並んで、近代短歌の発展に偉大な功績を残しました。
 最大の功績は、太平洋戦争敗戦による伝統文化軽視の気運のなかで展開された短歌軽視の主張(一般に 「第二芸術論」と言われる)に対抗し、短歌の伝統を守り、発展させたことです。
 形式が限定された短歌では、複雑になっていく現代社会を的確に表現することはできないし、人々に強く訴えることはできないという主張に対し、文明は、名古屋での講演等で反論し、自らの作品で実証しました。

 しかし、「鶴見臨港鉄道」の短歌を読むと、「第二芸術論」の論争を待つまでもなく、文明がすでに昭和初期に近代社会を直視した短歌を詠んでいたことが分ります。

 特に、『山谷集』には、ほかにも近代社会をテーマにした短歌が収録されています。
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町しじつちやう夜ならむとす(「城東区」)
土深く砂利を求めて掘る見れば乏しき国に民や育てる(「多摩川」)
軍艦は出でたるあとの軍港に春の潮みちくらげ多く浮く(「横須賀」)
セメントを荷役の船の白きほこり倉庫を越えて町の方に吹く(「芝浦埠頭」)
石積みて白土はくどに砕く工場は麦青き畑に立ちしばかりなり(「武蔵小川町」)

 さらに遡れば、斎藤茂吉が大正14年に「『ふゆくさ』小評」で、「土屋君は、高等学校に入ってからも、大学にゐた頃も、時折、短歌は所詮小芸術に過ぎない。短歌では到底近代人の心を盛ることは出来ん、などと唱へて、当時にあつては何も彼も短歌で片付けてしまはうとしてゐる僕などを驚かしたのであつた。」と述べています。文明は戦後の「第二芸術論」論争のはるか前に、すでにそのような考え方を乗り越えていたのだと思います。

 今回、鶴見線に乗ったのは昼近い時間だったので、乗客はまばらで、「ローカル線」に近い雰囲気でした。周辺の工場は、新旧それぞれでしたが、全体的には静かな感じでした。海芝浦への路線は、文明が「鶴見臨港鉄道」を詠んだ頃にはまだ開通していませんでしたが、京浜運河の向こうに工場群が広がる光景は雄大で、文明が健在ならばどのように詠んだのだろうと思いながら、電車折り返しまでの時間を過ごしました。

子規庵を訪ねて

2025年02月07日

 台東区根岸にある子規庵を訪ねました。
 道順はあらかじめ調べましたが、山手線の鶯谷駅を降りたら、どちらへ進めばいいか分からなくなってしまいました。交番があったので尋ねると、分かりやすい案内図をくれました。案内に従って10分程度歩くと、大通りから脇道に入った静かな街並みの中に、ブロック塀に囲まれた子規庵がありました。
 従来の庵は、昭和20年4月戦災で焼失しましたが、昭和25年子規の弟子である寒川鼠骨の尽力により再現されたそうです。現在の庵も、すでに80年が経過しているので、年を経た重みがあり、子規の暮らしに思いを馳せることができました。
 特に、子規が結核の病に苦しみながら執筆を行った「病床六尺の間」に入ると、子規がここで詠んだいくつかの短歌が浮かびました。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 庭には、糸瓜や鶏頭など、病床の子規を慰め、俳句や短歌の素材となった草木がたくさん植えられていました。
 絶筆三句の碑もあり、哀れさを誘いました。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をととひのへちまの水もとらざりき


 文明は、朝日新聞に掲載した「折り折りの人(7)久米正雄」で、「そのころ根岸の子規旧居では九月十九日を中心にして子規忌の俳句会が開かれ、短歌会の方の忌会はそのあと開かれるらしかった。私は短歌会に出て、俳句会の方の出席者名簿に久米三汀のあるのを見て、やっぱり来ているなと思った記憶がある」と書いています。ですから、子規庵を訪れているし、おそらく子規の母や妹にも会っているに違いないと思いますが、残念ながら生前の子規には会っていないようです。
 正岡子規は、特に俳句や短歌の分野で、近代化にかけがえのない大きな功績を残した文学者です。子規の活躍がなければ、日本の文学は現在と全く違ったものになっていたと思います。
 土屋文明は、伊藤左千夫に師事し、『アララギ』の歌人としての道を進みますが、左千夫は子規に師事し、左千夫も文明も、子規が「歌よみに与ふる書」などで唱えた「写生」や「万葉集尊重」の考え方に従って文学活動を行いました。
 文明は、昭和26年に子規の故郷松山で開催された「子規五十年祭」に参加し、短歌を詠んでいます。(歌集『自流泉』に収録)
 子規五十年祭
五十年ごじふねんすぎにし君の故国ふるくにに親しくもあるかな青き蜜柑の
伊予いよ温泉よるは静まりいさにはのゆづきのをかにふくろふの鳴く
湯の岡に終夜よもすがらなる水の音子規五十年祭のあと興奮こうふん
むらにはあしたの露のしとどにてねむの実ねむの葉すがれむとする
正岡ののぼるさんあり子規あり就中我が命たけ里人さとびと

 文明の子規への尊崇の念は厚く、全歌集『竹乃里歌』から短歌等を厳選した『子規歌集』(岩波文庫)の編者にもなっています。
 文明記念文学館に勤める者としてはもっと早く訪ねるべきでしたが、今回訪ねることができて、子規や文明への思いを強くすることができたような気がします。
 帰りがてら、子規ゆかりの豆腐の「笹乃雪」の句碑をながめ、「羽二重団子」でおいしい団子とお茶をいただきました。

かたい友情

2025年01月24日

 山本有三記念館を訪ねました。
 三鷹駅から玉川上水沿いの道を歩きました。上水の流れはゆるやかでしたが、途中には太宰治の文学碑がありました。15分ほどで家並みが途切れ、「三鷹市山本有三記念館」という控えめの看板と、企画展「山本有三没後50年 濁流 雑談 近衛文麿 ―燃ゆる創作への想い―」の標示を見つけました。道からかなり入ったところにあり、門も建物も洋風で、山本が国語の口語化を強く主張したことを思い出しました。

 1階は、子どもを大切にした山本にふさわしく「おはなし会」がちょうど開催されていたので、見ることができませんでしたが、2階では、標示されていた企画展が開催中で、ボランティアの方に丁寧に解説していただきながら観覧することができました。建物のすばらしさとともに、近衛文麿と山本有三とのかたい友情に感動しました。近衛は、昭和19年7月、東条英機内閣打倒のため首相暗殺も辞さないことを山本に告げ、その声明文の執筆を依頼しました。戦後しばらくして、山本は、近衛の真相を知ってもらうために「雑談」を発表しました。

 荻外荘には、山本有三記念館に来る前に寄ってきました。
 荻外荘は、総理大臣を三度務めた政治家近衛文麿の旧宅ですが、約10年にわたる復原整備工事が終了し、昨年12月から一般公開されています。荻窪駅から住宅が並ぶ中をだいぶ歩いて、途中で尋ねたりしてようやく着きました。木々に囲まれた壮大な日本邸宅の美しさに藤原氏の伝統を受け継ぐ近衛家を実感しました。昭和15年7月、第2次近衛内閣の閣僚予定者である近衛文麿(総理)、東条英機(陸相)、吉田善吾(海相)、松岡洋右(外相)が会談し、ドイツ・イタリアと同盟を結び、東南アジアへ南進する政策方針が決められ、太平洋戦争への道を歩むことになった客間。敗戦後の昭和20年12月、戦犯としてGHQへの出頭を求められた近衛が自決した書斎。日本史の舞台となった部屋を目の前にして厳粛な気持ちになりました。

 山本有三と土屋文明は、明治42年旧制第一高等学校に入学して出会いました。ともに、ドイツ語の単位を落として留年しましたが、錚々たる仲間のなかで、二人だけが文化勲章を受章しています。二人は、久米正雄、菊池寛、芥川龍之介などとともに第三次『新思潮』のメンバーです。国語の口語化を主張する山本と万葉集を尊重する文明と、考え方はそれぞれでしたが、かたい友情に結ばれていました。そのことは、山本の死を悼んで詠んだ文明の短歌にもよく表れています。近衛文麿も旧制一高の同級生です。

  山本有三君を悲しむ(『青南後集』昭和49年)
 ありし日の如く清らに言葉なき終の姿にあふもかなしも
 談らひし伊勢の旅ゆきもはたさぬに君は早くも終り給ふか
 古く長く交はることを心にし我がため多くはかりくれにき
 少き交はりに共に老に入りなほ長き日をたのみしものを
 伊豆の海の光も岸の冬の日も君を別れて見るべきものか

  三鷹にて山本有三を思ふ(『青南後集』昭和52年)
 君が住みし七処の五処知りたれど思は深しかの牟礼の家
 君がもとのあたりいづらと見やるとも変化ははげし新興市街
 建物の間にわづかに旧上水水は行くのか行かぬのか見ず
 三十年過ぎて変るといふならずすでに新しき異国あり
 君が庭の水鳥の来る池の落葉昨日のごとく我は思ふに
 なごやかにゆたかに湯河原はありたれどみ山なす静けさに三鷹の家
 上水に沿ふも静かに人稀に行きつつ我をばはげましくれき
 世におくれ職をはなるるしばしばにて君が言葉は力なりけり
 生ける世に最も長き交はりと君をぞ思ふ駅の迷路に

槻の丘(墓参り)

2024年12月18日

 12月8日は文明先生の命日です。今年は、当日が日曜日で、恒例の暮鳥文明まつりが文学館で開催されたので、13日、職員4名で、埼玉県比企郡ときがわ町にある文明のお墓と菩提寺である慈光寺にお参りしました。

 文明のお墓は、慈光寺に向かう山道の途中、けやきなどの樹々に囲まれたこぢんまりした墓地にあります。私がお参りしたのは、3年ぶりくらいですが、樹々が大きくなり、墓が増えていることに時の流れを感じました。

 墓地はよく管理され、落ち葉がわずかに散っているくらいで、たいへん整然としていました。土屋家のお墓には花が進ぜられており、まだそれほど日が経っていないように見えました。私たちも花をお供えし、お線香を上げて手を合わせました。

 墓地の傍らの歌碑は、紅葉を背に、以前と変わらずひっそりと建っていました。

 亡き後を言ふにあらねど比企のこほりつきの丘には待つ者が有る(『青南後集以後』)

 この歌碑を見ると、長男や妻に先立たれた文明のさびしさをいつも思い出します。

 文明は、昭和49年に長男の夏実氏が亡くなった後、子がいたにもかかわらず、長野県教員を辞めた、50年前のことを悔いて詠んでいます。

 ほしいままに職を捨て幼きを養はず悔いて言ふとも五十年前

 昭和57年に最愛の妻であるテル子さんが亡くなった時に詠んだ絶唱もあります。

 さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝を柩に

 終わりなき時に入らむに束の間の後前あとさきありや有りてかなしむ

 いずれも『青南後集』に収められています。

 お墓にお参りした後、紅葉の山道をさらに上って慈光寺を参拝し、ご住職にご挨拶申し上げ、土屋家の位牌にも手を合わせました。

 慈光寺は673年創建のたいへん由緒のあるお寺で、宝物館には国宝「慈光寺経」なども蔵し、境内には「はがき」という言葉のもととなった「多羅葉樹」の木もあります。

 久しぶりに比企を訪れて、文明先生が永眠するにふさわしい山とつくづく思いました。

ああ久米正雄

2024年12月02日

 11月14日に福島県郡山市にある「こおりやま文学の森資料館」を訪ねました。広い敷地の中、紅葉した木々に囲まれ、郡山市文学資料館と郡山市久米正雄記念館の2つの施設がありました。

 久米正雄(俳号三汀)は明治43年に旧制第一高等学校に入学し、前年に入学したもののドイツ語の単位を落として留年した土屋文明と同級になり、二人の付き合いが始まりました。特に、大正7年に文明が長野県諏訪高等女学校教頭として赴任するまで、文学活動をともにしながら親しくしていました。

 資料館には、大正7年に文明が久米に送った封書とはがきの2つの資料が展示されていました。

 封書は、1月4日付で、夏目漱石の娘筆子との縁談が破談となり、失意のうちに郡山に帰省した久米に、「君が立つ時から田舎に於ける生活の単調に君が堪へられるかどうか心配して居たそれで今朝の君のたよりを受けて矢張君には東京以外の地の適しないことを知った」と書き、帰京を促しています。文明の言葉のとおり久米はこの手紙が郡山に着く前にすでに帰京していたそうです。後に久米はこの失恋を題材として小説「破船」を発表しています。

 はがきは、日付がはっきりしませんが、久米が文明に依頼していた『帝国文学』の小説原稿の執筆が遅れていることを詫び、まもなく長野県へ行かざるをえないことを告げるものです。結局は、5月1日発行『帝国文学』24巻5号に、「弟を死なす」という文明の小説が発表されます。

 昭和41年に朝日新聞に連載した「折り折りの人」の第7回で、文明は久米との思い出を詳しく書いています。

「久米は碧梧桐の『日本及日本人』の新傾向作者として知られていたから、その一高入学は、私の耳にも久米を見ないうちからはいっていた。」

「三年の時であったろう。久米は少し身体をこわしたというので逗子に転地したことがある。一度泊りがけで遊びに来ないかというたよりをもらったので出かけた。…駅近くの菓子店でバラ売りのキャラメルを五十銭か八十銭買って持った。」

「『新思潮』を出すと時に、私を仲間に入れたのは、たぶん久米が主として考えたのであろう。」

「中条百合子に恋文を渡したのに、なかなか返事が来ない、どうしようなどと訴えたりしたこともある。」(中条(宮本)百合子の祖父と久米正雄の母方の祖父はともに安積開拓に尽力した。)

「東京を引きあげ郡山の母の家に帰るということになり、山本有三君と死んだ中島精一、それに私で銀座の肉屋で別宴をやり、上野駅まで送った。すると、四、五日たったかたたないのに中島が来て、久米は帰っているぜというのだ。」

「私が長野県の学校へ赴任する夜、久米と山本君が天神下で送別の宴をしてくれて、飯田橋駅まで送ってくれた。」

「信州に六年も居って、文学とは遠ざかってしまったから、帰京後も久米と再び親しくする機会はなかった。」

「戦時中文学報国会のことで二年間、いくらかの接触の機会があった。…この満州失言が取り上げられた時、久米がまず羽織を脱ぎすてて、いきおいこんで反論に立ちあがったのは、往年の久米そのままで、今となっては生き残っている私の楽しい思い出である。」

 昭和27年3月1日の久米の逝去を受けて、その悲しみを「ああ久米正雄」という題で詠んだ短歌6首が、文明の歌集『青南集』に載っています。

  ああ久米正雄

 中条百合子まだ処女子をとめご葡萄茶えびちや着て道にあひ赤くなりし久米正雄ああ

 赤門前今成りし道のすぐなればなべては清く幼なかりにき

 恋知らぬ処女子ゆゑに恋ひわづらひ魴鮄はうぼうの骨焼きてこもりしを

 いくつかは吾より若い筈なのに君なきかああこころ遂げきや

 送られて飯田町たちし三月より文学に君にうとくなりしかな

 猪苗代ゐなはしろ寒月かんげつの波に感じたる若き三汀を吾は思ふなり

 この時、文明は62歳。ともに過ごした若い頃をなつかしく思い出しながら、久米の逝去を悼んでいます。

横須賀を訪ねて

2024年11月14日

 JR横須賀駅の外に出ると、海沿いにヴェルニー公園がありました。

 ヴェルニーは、横須賀造船所の基礎を築いたフランス人技師で、造船所の建設を提案した江戸幕府勘定奉行小栗上野介とともに、公園内に銅像があります。公園からは、米軍や自衛隊の基地が見え、いろいろな艦船が停泊していました。右手には造船所のドックが並び、建造中あるいは修理中の艦船が見られ、槌音も聞こえてきました。


 公園やその周辺は、観光客で賑わい、軍港めぐりの船にはたくさんの人が乗っていました。幼児や犬をつれて散歩している人やベンチに腰掛け海をながめる人もたくさん見かけました。
 やや離れたところにある三笠公園でも、国内外のたくさんの観光客が、日露戦争の旗艦三笠を見学していました。
 どこも、秋晴れのせいもあって、明るく平和な雰囲気でした。

 土屋文明は、「横須賀」18首を『アララギ』昭和8年3月に発表し、『山谷集』に収録しています。
 
 横須賀
軍艦は出でたるあとの軍港に春の潮みちくらげ多く浮く
静かなる春のうしほにボートこぎて声はこだますドックの方に
幾隻か灰色の入渠船の後にて赭き建造船にとどろく音あり
子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず
午ちかく逸見へみの波止場に集り来るランチの汽笛すでに勇まし
三笠艦見つつし思ふ力つくし戦ふはただに功利のためのみならじ
国を守りの戦ながらひたすらに生命いのちいきほふはそれのみによし
敵またよく戦ひし跡はしるく残るいくの命ただに戦ひけむ
此所に戦死の人のあと見れば生き死の吾が観念の変るかと思ふ
ただに生死のことのみならず戦争をたたへし思想に思ひ及ぶかも
ふり仰ぐ四十サンチのい砲門の斉射のさまを君説きて聞かす
初弾命中に国の存亡はかかるといふその時の砲術長を思ひ涙ながるる
よそほへる軍艦見れば戦争の勝負は決してありとも思はる
戦をここに決すべき工廠を妻子をつれてしばし見物す
列をなし航空母艦を見てあるく小学生等もいたくおとなし
春の日の夕日になりし工廠の戦艦のマストなほ酸素燃ゆ
春の日のかぎれる中にひらめきて鉄截る酸素の焔きびしき
わが前の若き士官の友のうへに海行くいのち吾は思はむ

 これらの短歌を読んだ時、私は強い衝撃を受けました。
 昭和8年2月、国際連盟は、総会を開催し、満州事変、満州国建国等に関するリットン調査団の報告を受けて日本に対する撤退勧告案を可決しました。これに対し、日本は翌3月、勧告を拒否し、国際連盟を脱退しました。文明が「横須賀」18首を詠んだのは、まさに日本が太平洋戦争敗戦に向かっていく歴史の転換点でした。
 文明は、豊富な教養を有する知識人でしたし、社会状況から率直に詠むことは控えていましたが、当時の政府や軍隊に対して批判的な視点も有していました。
 しかし、文明が詠んでいるのは、あくまでも日露戦争で独立自衛のために戦った戦艦三笠や、造船で活気づく軍港の様子などです。個々の人間が歴史の実相を見抜くことがいかにむずしいか、ひょっとしたら、現在もそのような歴史の転換点にあって、自分たちが気づいていないだけなのかもしれません。
 横須賀を訪れて、そのような思いを再度新たにしました。

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