群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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特別館長日記

12月8日

2021年12月08日

 12月8日といえば、「太平洋戦争開戦の日」ですが、最近の私にとっては、「文明先生の命日」という思いがずっと強くなっています。
文学館の庭には、先生が愛した橙の木がたくさんの黄色い実を付けています。先生が眠る慈光寺の木々も冬支度を整えたことと思います。

 

 百年はめでたしめでたし我にありては生きて汚き百年なりき 文明

 土屋文明は、1890(明治23)年9月18日に生まれ、1990(平成2)年12月8日に亡くなるまで、明治、大正、昭和、平成の4つの時代を生きました。
 30代のまだ若い頃、短歌をやめ教育者として生きていこうとしたにもかかわらず、自分の信念が受け入れられないと、長野県当局の転任命令を拒否して校長職を辞任しました。
 40代から50代前半の日中戦争から太平洋戦争の頃、当時の国民としては普通のことでしたが、戦後の価値観とは相容れない歌も詠みました。
 陸軍省の嘱託として中国各地を旅したこともありました。旅の中で詠んだ歌は『韮菁集かいせいしゅう』として発表されました。戦いの勝利を願ったり、祝ったりする歌も詠んでいますが、戦いにたおれていく兵の悲劇、中国の文化への尊敬の念や人々への親愛の情を込めた歌もたくさん詠んでいます。

 文明は、1930(昭和5)年から1952(昭和27)年までの22年間、歌壇の中心であった『アララギ』の編集発行人として短歌界を牽引しました。
 特に、日本で最も長い伝統をもつ短歌(和歌)という文学を、太平洋戦争後の「第二芸術論」に代表されるような混乱から守った功績は、明治維新の「混乱」から守った正岡子規のそれに匹敵すると思います。

「現在の短歌には、日本民族の伝統というものがよほどの分量ではいっている」
「簡単に現在のような商業主義文化受用方式がいつも優先するものだとは考えられない」
「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌といふものは…いかなる社会機構の中でも存在しつづける」

 こうした文明の言葉は、今も色褪せることがありません。

 100年の人生にはいろいろなことがありました。文明先生は良いことも悪いこともすべて含めて「生きて汚き百年なりき」と詠んでいるような気がします。

故郷を離れて

2021年11月22日

新型コロナウイルス感染症の流行も収まっているので、11月18日、学芸係の職員と東京に出かけ、

青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ 文明

の歌を時に思い浮かべながら、土屋文明ゆかりの地を訪ねてきました。

四つ目通りに地図ひろげ茅場町さがしたりき四月の十日五十年前 文明

 明治42(1909)年、旧制高崎中学校を卒業した文明は、文学の道を志し、牛舎を営みながら短歌を作り小説を書いていた伊藤左千夫のもとに上京しました。左千夫は、学費の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校へ進学させ、文学者として大成する道を開いてくれました。
 左千夫の屋敷は、本所区茅場町(現在の錦糸町駅南口構内)にありました。その場所には、「よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも 左千夫」という歌碑が建てられています。歌碑の裏側には「文明抄」と刻まれていました。ビルに囲まれた風景から当時を偲ぶことはできませんでしたが、文明が選んだ歌碑の歌から、子煩悩な左千夫のそば近く仕える文明の姿が思い浮かびました。

乏しき職を得てこの町に住みたりきあはれ世にふる今日かへりみる 文明

 東京帝国大学哲学科を卒業したが定職のなかった文明は、大正6(1917)年7月から、日本体育会(現在の日本体育大学)付属の荏原中学校の英語講師として勤務し、学校近くの下荏原郡大井町(現在の品川区大井)で暮らしました。文明が借りた下宿、一軒家があったと思われる地は旧東海道沿いの下町的な雰囲気の町でした。海抜2.7メートルの標識が特に印象に残りました。

田端の木立よろしとこの夕べ近きふくろふを子等と聞き居り 文明

 松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)校長から木曽中学校長への予告なしの転任を拒否して東京に戻った文明が法政大学に職を得て一時離ればなれだった妻子とともに過ごしたのが田端でした。当時田端にはたくさんの文人が暮らしていました。文明が暮らした家は大学の同窓生であった芥川龍之介が紹介してくれたものでした。今でも、東京にしては、樹木が豊富で閑静な雰囲気に、ようやく穏やかに暮らすことができるようになった文明の心境を偲ぶことができました。

うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮しを始む 文明
幾つありしかぐの実か何時の間に一つとなりしかぐの一つ 文明

 昭和3年から赤坂区青山南町(現在の港区南青山)で暮らしていた文明でしたが、太平洋戦争の戦局が切迫すると、群馬県吾妻郡原町川戸(現在の群馬県吾妻郡東吾妻町川戸)に疎開し、終戦後もしばらくそこで過ごしました。
 昭和26(1951)年11月24日、ようやく新居が出来て南青山に帰って来ることができ、平成2(1990)年に亡くなるまで、百年の生涯の半分以上をそこで過ごしました。文明は、花や木を大切に育て、多くの人に先立たれてゆく悲しさを癒やしていましたが、現在はマンションになっていました。賑やかな通りから奥に入った閑静な雰囲気だけが、文明を偲ぶよすがでした。

宮柊二記念館

2021年06月14日

 亡き父のありし昔の聲のごと魚野川鳴るその音恋ひし    柊二
 中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ   柊二

 新潟県魚沼市にある宮柊二記念館に行ってきました。
快晴に恵まれ、越後駒ヶ岳、中ノ岳、八海山の越後三山が幾筋も雪を残した姿で空高くそびえ、魚野川が青く澄んで滔々と流れていました。
 堀之内インターチェンジで下りて10分ほど行くと、魚沼市の堀之内庁舎、公民館、体育館と並んで、木と白壁で造られた宮柊二記念館がありました。

 5月30日から始まった「柊二の歌一首」展は、歌誌『コスモス』のアンケートで高得票を得た短歌を中心に、軸や色紙などの資料がゆったりと展示されていました。
 柊二と文明は、それぞれ歌誌『コスモス』、『アララギ』の中心として、長年にわたり短歌界を牽引し、いくつかの共通点をもっています。
 柊二は堀之内町、文明は群馬町、それぞれ魚沼、高崎という都市の周辺地域で生まれ育ちました。
 旧制中学校を卒業すると故郷を離れ、人生のほとんどを東京で暮らし、柊二は魚野川に、文明は榛名山に、望郷の思いを託しました。
 柊二は北原白秋、文明は伊藤左千夫、先輩歌人に親しく師事し研鑽を積みました。
 戦時中には、中国に渡り、戦争の現実を見て、柊二は『山西省』、文明は『韮菁集(かいせいしゅう)』という歌集を遺しました。
 柊二の率直に表現された情感豊かな短歌と、文明の写実的で深みのある短歌という違いはありますが、ともに近現代を代表する歌人です。

 宮柊二記念館は、少ない職員にもかかわらず、全国短歌大会を開催し、今年で27回を迎えています。第二芸術論をはじめとする戦後の混乱から短歌を守った土屋文明のかけがえのない功績を考えれば、当館もその名を冠した全国短歌大会を開催すべきだと、私は考えています。
 今回の訪問では、下村正人館長様をはじめ、職員の皆様にたいへんお世話になりました。今後も交流させていただければありがたいと考えています。

   

旧跡も歌枕も意に介さず

2021年06月02日

慈覚大師御開扉過ぎし壬生寺に灰冷えびえと大火鉢二つ
輪王寺まゐり道の円仁産湯の井今日は三毳みかも盥窪たらいくぼは見ず
糸遊に結びつくべき煙なし風流風雅なし雑木の芽立ち
(『続々青南集』下野国壬生より)

 宇都宮の近くに壬生みぶという町があります。
 平安時代の高僧、慈覚大師円仁由来の壬生寺にある文明先生の歌碑を見てきました。
 円仁は、794年に生まれ、幼いときから仏典を学び、比叡山に登り最澄の弟子となりました。その後、留学僧として唐に渡り、10年間を五台山や長安などで過ごし、仏教を深く学びました。帰国後は、日本各地を行脚し、仏教を広めるとともに、地方文化の興隆や社会事業にも尽力し、第三世天台座主となり、864年入寂後、「慈覚大師」の称号を贈られました。
 壬生は、円仁生誕の地と言われているにもかかわらず、その旧跡が荒廃しているのを嘆いた日光山輪王寺の門跡天真親王が1686年に大師堂を建立しました。やがて、大正時代に大師生誕1050年を記念して、輪王寺門跡彦坂大僧正の指導のもと、東京上野の寛永寺天台宗学問所を本堂として移建し、「壬生寺」となりました。
 円仁生誕の地と言われている旧跡は、壬生町と同じ下都賀郡の岩舟町にもあり、三毳山みかもやまの麓の手洗窪たらいくぼに小さな社があります。

 文明先生がテル子夫人を伴って壬生寺を訪れたのは、昭和46年4月17日、81歳の時です。近くにある、「奥の細道」ゆかりの「室の八島」や道鏡ゆかりの「下野国薬師寺跡」も訪れました。
 「慈覚大師…」の歌を刻んだ歌碑は、「慈覚大師生誕産湯の井戸」の側に建てられていました。壬生寺は、「節分のお宝まき」のときなどはたいそう賑わうそうですが、ひっそりとしていました。「灰冷えびえと大火鉢二つ」もそのような様子を詠まれたのではないかと思います。
 現在ある「慈覚大師生誕産湯の井戸」は、大正時代に創られたもののようで、円仁生誕の地を強く実感することはできませんでした。「輪王寺…」の歌は、そのような感じを詠まれたのではないかと思います。
 お寺の由来や歌碑については、ご住職ご夫妻からもいろいろなお話をお伺いすることができ、資料もたくさんいただきました。私からは、「文明先生の数少ない歌碑の一つなので大切にしていただければありがたい」と申し上げました。

 「糸遊に…」の歌は、「室の八島」(現栃木県栃木市)で詠まれた歌です。「室の八島」は、一夜の契りで懐妊しニニギノミコトから不義を疑われた「木の花さくや姫」が産室にこもり火をつけると三神が生まれたという言い伝えに由来する歌枕で古来多くの歌人が訪れています。芭蕉も「奥の細道」の旅で訪れ、「糸遊に結つきたる煙哉」という句を遺しています。池の中に小さな島が8つあり、社がありましたが、文明先生の詠まれたとおり、「木の花さくや姫」由来の「煙」を感じ取ることはできませんでした。
 現地に行ってみて、旧跡も歌枕も意に介さず、実景を率直に詠んだところがまさに「アララギの総帥」の面目躍如と思いました。

深谷にも文明の歌碑

2021年05月26日

荒川のあふれなかるゝ道を来て静かに秋づく擁月荘にすわる 文明 (大圓寺の歌碑より)

 過日、埼玉県深谷市へ行ってきました。
 深谷市は今、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一の故郷として注目されています。
 渋沢栄一記念館、その生地「中の家」は、混雑しているわけではありませんが、平日にもかかわらず、それなりの見学者がいました。

 大圓寺という小さなお寺は、家並みが続く深谷町にひっそりとありました。大圓寺には文明先生の歌碑があります。
 昭和22年9月17日、山口平八の学塾「擁月荘」を訪れたときの歌です。
 山口平八は、地元の青年たちに、政治・経済・芸術などを幅広く教授し、「擁月荘」は多くの著名人を輩出しました。
 文明先生は、2日前の15日に関東を襲った「キャサリン台風」であふれた荒川の水がまだ引いていない中、擁月荘を訪れました。
 高等女学校教育や大学教育に携わり、文学者としても現実を直視していた文明と山口平八は、おそらく、戦後の日本がどうあるべきか、などについて語り合ったのだろうと思います。
 二人が過ごした貴重な時間の記念である、この歌碑は、昭和40年6月25日、山口平八が66歳の誕生日に自宅の庭に建てたものです。後に、山口平八夫妻に対する謝恩の気持ちを込めて近隣の人々が建てた「擁月荘景慕の碑」とともに、山口家の菩提寺「大圓寺」に移されました。

 生前、文明先生は、歌碑建立の依頼があると、「あんなものは、犬のしょんべんじょになるだけさ」とほとんどお断りになったそうです。犬の小便はどうかわかりませんが、大圓寺の歌碑には鳥の糞がたくさん付いていました。
 「ほら見たことか」と微笑む文明先生のお顔が浮かびました。

 

 

 

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