特別館長日記

令和3年2月28日(日)
十一月二十日児夏実を伴ひ両崖山に登る をさな児がもぐ山すげの実は小く落葉の下にまろび落つるよ(『ふゆくさ』)
足利法楽寺山 児と坐りネーブル蜜柑を食ひ居ればいで遊ぶ人われのみにあらず(『往還集』)
21日に発生した足利市の山林火災はまだ続いています。
現在(28日)、火の勢いは弱まり、「鎮圧までいま一歩」ということなので、一刻も早い鎮火を願っています。
足利は土屋文明と縁の深い土地です。
文明の妻テル子は、「大正2年7月から大正7年3月まで」と「大正13年4月から大正14年10月まで」の2度足利で暮らしました。
テル子は、文明と同じく群馬郡上郊村保渡田出身で、明治45年3月に津田梅子の女子英学塾を卒業し、私立東京女子商業学校に一時勤務した後、大正2年7月から大正7年3月まで、足利高等女学校の英語教員として勤務しました。
おそらくテル子が女子英学塾、文明が旧制第一高等学校在学中から、二人は付き合い始めていたようで、テル子の足利赴任で離ればなれになった文明が足利のテル子を慕って詠んだと思われる短歌が『ふゆくさ』に掲載されています。
大正7年3月、文明とテル子は結婚し、文明の赴任地諏訪で新婚生活を送ります。
大正13年4月、文明は、木曽中学校への突然の転任発令を拒否して長野県の教職を退職しました。そのとき、ちょうど足利高等女学校に英語教員の空きがあって、テル子は再び勤務しました。夏実と草子、二人の子がいたので、子育てのお手伝いを雇っての勤務でした。文明もまもなく法政大学講師の職に就くことができましたが、当分の間離ればなれの生活となりました。
子煩悩の文明は、休日に足利を訪れ、息子と両崖山に登ったり、近くの法楽寺に遊んだりしました。そのときの短歌が『ふゆくさ』や『往還集』に掲載されています。
このとき、テル子と子どもたちが暮らした本城は、今回の山林火災の避難対象区域になっています。 足利は、歌人文明を慕う者にとって聖地の一つです。被害が最小限であることを祈っています。


令和3年2月14日(日)
青々とゆたかなる上毛(かみつけ)をめぐる山遠くかすめり雪残る山も(『続青南集』昭和39年)
いろいろなことがあってしばらく日記を休んでしまいました。
その間に春の訪れが実感できるようになりました。八幡塚古墳の頂上からながめると、文学館の向こうに見える榛名山は霞がかかり、穏やかな春らしい色をしています。
年により咲く木咲かぬ木遅早の梅は歌ふと植ゑしにはあらず(『続々青南集』昭和44年)
文学館の南の「方竹の庭」(東京南青山の土屋家旧宅から移植した庭)は、最近植木屋さんに手入れをしてもらったので、かなりすっきりしました。
梅の木が何本か植えられていますが、いずれも遅咲きらしく、まだほとんど花をつけていません。それでもよく見ると一輪咲いていました。
年々に衰へしるき方竹のやや持ち直す去年より今年(『青南後集』昭和50年)
文明先生が愛した、茎が四角いシホウチクは、若緑の葉をたくさんつけて元気な姿を見せています。
まだ決して予断は許されませんが、新型コロナウイルスの状況も明るい兆しが若干見えているような気がします。憂いなく春を楽しめるようになることを心より願っています。