特別館長日記

宮柊二記念館
亡き父のありし昔の聲のごと魚野川鳴るその音恋ひし 柊二
中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ 柊二
新潟県魚沼市にある宮柊二記念館に行ってきました。
快晴に恵まれ、越後駒ヶ岳、中ノ岳、八海山の越後三山が幾筋も雪を残した姿で空高くそびえ、魚野川が青く澄んで滔々と流れていました。
堀之内インターチェンジで下りて10分ほど行くと、魚沼市の堀之内庁舎、公民館、体育館と並んで、木と白壁で造られた宮柊二記念館がありました。
5月30日から始まった「柊二の歌一首」展は、歌誌『コスモス』のアンケートで高得票を得た短歌を中心に、軸や色紙などの資料がゆったりと展示されていました。
柊二と文明は、それぞれ歌誌『コスモス』、『アララギ』の中心として、長年にわたり短歌界を牽引し、いくつかの共通点をもっています。
柊二は堀之内町、文明は群馬町、それぞれ魚沼、高崎という都市の周辺地域で生まれ育ちました。
旧制中学校を卒業すると故郷を離れ、人生のほとんどを東京で暮らし、柊二は魚野川に、文明は榛名山に、望郷の思いを託しました。
柊二は北原白秋、文明は伊藤左千夫、先輩歌人に親しく師事し研鑽を積みました。
戦時中には、中国に渡り、戦争の現実を見て、柊二は『山西省』、文明は『韮菁集(かいせいしゅう)』という歌集を遺しました。
柊二の率直に表現された情感豊かな短歌と、文明の写実的で深みのある短歌という違いはありますが、ともに近現代を代表する歌人です。
宮柊二記念館は、少ない職員にもかかわらず、全国短歌大会を開催し、今年で27回を迎えています。第二芸術論をはじめとする戦後の混乱から短歌を守った土屋文明のかけがえのない功績を考えれば、当館もその名を冠した全国短歌大会を開催すべきだと、私は考えています。
今回の訪問では、下村正人館長様をはじめ、職員の皆様にたいへんお世話になりました。今後も交流させていただければありがたいと考えています。
旧跡も歌枕も意に介さず
慈覚大師御開扉過ぎし壬生寺に灰冷えびえと大火鉢二つ
輪王寺まゐり道の円仁産湯の井今日は三毳の盥窪は見ず
糸遊に結びつくべき煙なし風流風雅なし雑木の芽立ち
(『続々青南集』下野国壬生より)
宇都宮の近くに壬生という町があります。
平安時代の高僧、慈覚大師円仁由来の壬生寺にある文明先生の歌碑を見てきました。
円仁は、794年に生まれ、幼いときから仏典を学び、比叡山に登り最澄の弟子となりました。その後、留学僧として唐に渡り、10年間を五台山や長安などで過ごし、仏教を深く学びました。帰国後は、日本各地を行脚し、仏教を広めるとともに、地方文化の興隆や社会事業にも尽力し、第三世天台座主となり、864年入寂後、「慈覚大師」の称号を贈られました。
壬生は、円仁生誕の地と言われているにもかかわらず、その旧跡が荒廃しているのを嘆いた日光山輪王寺の門跡天真親王が1686年に大師堂を建立しました。やがて、大正時代に大師生誕1050年を記念して、輪王寺門跡彦坂大僧正の指導のもと、東京上野の寛永寺天台宗学問所を本堂として移建し、「壬生寺」となりました。
円仁生誕の地と言われている旧跡は、壬生町と同じ下都賀郡の岩舟町にもあり、三毳山の麓の手洗窪に小さな社があります。
文明先生がテル子夫人を伴って壬生寺を訪れたのは、昭和46年4月17日、81歳の時です。近くにある、「奥の細道」ゆかりの「室の八島」や道鏡ゆかりの「下野国薬師寺跡」も訪れました。
「慈覚大師…」の歌を刻んだ歌碑は、「慈覚大師生誕産湯の井戸」の側に建てられていました。壬生寺は、「節分のお宝まき」のときなどはたいそう賑わうそうですが、ひっそりとしていました。「灰冷えびえと大火鉢二つ」もそのような様子を詠まれたのではないかと思います。
現在ある「慈覚大師生誕産湯の井戸」は、大正時代に創られたもののようで、円仁生誕の地を強く実感することはできませんでした。「輪王寺…」の歌は、そのような感じを詠まれたのではないかと思います。
お寺の由来や歌碑については、ご住職ご夫妻からもいろいろなお話をお伺いすることができ、資料もたくさんいただきました。私からは、「文明先生の数少ない歌碑の一つなので大切にしていただければありがたい」と申し上げました。
「糸遊に…」の歌は、「室の八島」(現栃木県栃木市)で詠まれた歌です。「室の八島」は、一夜の契りで懐妊しニニギノミコトから不義を疑われた「木の花さくや姫」が産室にこもり火をつけると三神が生まれたという言い伝えに由来する歌枕で古来多くの歌人が訪れています。芭蕉も「奥の細道」の旅で訪れ、「糸遊に結つきたる煙哉」という句を遺しています。池の中に小さな島が8つあり、社がありましたが、文明先生の詠まれたとおり、「木の花さくや姫」由来の「煙」を感じ取ることはできませんでした。
現地に行ってみて、旧跡も歌枕も意に介さず、実景を率直に詠んだところがまさに「アララギの総帥」の面目躍如と思いました。