特別館長日記

暮鳥ゆかりの大洗
寒い日が続いていますが、12月21日は比較的暖かかったので、山村暮鳥ゆかりの大洗をたずねました。
山村暮鳥は、群馬県西群馬郡棟高村(現高崎市)の農民の子に生まれ、キリスト教の伝道師として関東・東北の各地を転々としながら、詩作を続けました。地元で教員をしていたこともあり、地域の人々から敬愛されています。
土屋文明記念文学館前の公園には、「いちめんのなのはな」の反復で、その情景を的確に表現した「風景 純銀もざいく」という詩の碑があります。
命日が土屋文明と同じ12月8日なので、高崎市内の子どもたちから詩・短歌を募集して優秀作品を表彰する「暮鳥・文明まつり」が毎年12月に行われています。今年も先日第31回が行われました。
大洗は、大正13年に40歳で亡くなった暮鳥が晩年の5年間を過ごした土地なので、今年は訪ねてみたいと思っていました。
まず、「大洗町幕末と明治の博物館」に立ち寄りました。詩碑の場所等、暮鳥に関することを教えてもらうのが目的でしたが、折角なので、常設展、企画展を見せてもらいました。天皇陛下の愛用品や幕末・明治に活躍した偉人の品々など、時間がいくらあっても足らない貴重な資料ばかりでしたが、幕末、水戸の精神的支柱であった藤田東湖の力のこもった憂国の書が特に印象に残りました。
大洗磯前神社を中心に散策するのが便利という助言をいただき、車を境内の駐車場に移してゆかりの地をまわりました。
暮鳥の鬼坊裏別荘の跡地は、漁港近く、民家に囲まれ、海よりも少し高い場所にありました。平成19年に暮鳥会の有志によって建立された「老漁夫の詩」の詩碑が立っていました。故郷を離れ、海の光や音や風を慰めとして晩年を過ごした暮鳥を偲ぶことができました。
暮鳥の生前にはまだ建てられていなかった岩礁に立つ鳥居の向こうに、雄大な太平洋を眺めながら高台に登ると、萩原朔太郎撰の「ある時」の詩碑が説明の掲示板とともに松林の中にありました。暮鳥の没後間もない昭和2年に建てられ、昭和28年に場所を移され、現在に至っているそうです。碑は文字が刻まれていることが分かるだけでしたが、暮鳥、朔太郎を偲ぶには十分でした。
2つの碑をまわった後、境内からしばし海をながめ、神社に参拝して帰路につきました。太陽のまぶしさが気になりましたが、まもなく日が沈み、しばらくは夕焼けが見られました。やがて空は闇に包まれました。
12月8日
12月8日といえば、「太平洋戦争開戦の日」ですが、最近の私にとっては、「文明先生の命日」という思いがずっと強くなっています。
文学館の庭には、先生が愛した橙の木がたくさんの黄色い実を付けています。先生が眠る慈光寺の木々も冬支度を整えたことと思います。
百年はめでたしめでたし我にありては生きて汚き百年なりき 文明
土屋文明は、1890(明治23)年9月18日に生まれ、1990(平成2)年12月8日に亡くなるまで、明治、大正、昭和、平成の4つの時代を生きました。
30代のまだ若い頃、短歌をやめ教育者として生きていこうとしたにもかかわらず、自分の信念が受け入れられないと、長野県当局の転任命令を拒否して校長職を辞任しました。
40代から50代前半の日中戦争から太平洋戦争の頃、当時の国民としては普通のことでしたが、戦後の価値観とは相容れない歌も詠みました。
陸軍省の嘱託として中国各地を旅したこともありました。旅の中で詠んだ歌は『韮菁集』として発表されました。戦いの勝利を願ったり、祝ったりする歌も詠んでいますが、戦いに斃れていく兵の悲劇、中国の文化への尊敬の念や人々への親愛の情を込めた歌もたくさん詠んでいます。
文明は、1930(昭和5)年から1952(昭和27)年までの22年間、歌壇の中心であった『アララギ』の編集発行人として短歌界を牽引しました。
特に、日本で最も長い伝統をもつ短歌(和歌)という文学を、太平洋戦争後の「第二芸術論」に代表されるような混乱から守った功績は、明治維新の「混乱」から守った正岡子規のそれに匹敵すると思います。
「現在の短歌には、日本民族の伝統というものがよほどの分量ではいっている」
「簡単に現在のような商業主義文化受用方式がいつも優先するものだとは考えられない」
「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌といふものは…いかなる社会機構の中でも存在しつづける」
こうした文明の言葉は、今も色褪せることがありません。
100年の人生にはいろいろなことがありました。文明先生は良いことも悪いこともすべて含めて「生きて汚き百年なりき」と詠んでいるような気がします。