群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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特別館長日記

大石田の文明(芭蕉と茂吉の足跡をたずねて)

2024年10月17日

 文明は、昭和23年8月に大石田を訪れ、そのときに詠んだ短歌が歌集『自流泉』に「大石田にて」という題で掲載されています。

 大石田にて
秋海棠しうかいだうの茂りもよるは静まりて打ちたる水ぞ光れる
ここに伝へて古き五月雨さみだれ一巻ひとまきを遠来し吾ははらばひてみる
声出して板垣君がよむ巻物まきものただたふとみてわれは見てゆく
水の音すがすがとしてはねあがる鯉の池には月のさし来る
橋ながく涼しき川の風ふけばうづくまるも一人ひとり二人ふたりにあらず
うづまきてあがる水に月てれり下関しやあくわんわたし思ひ出づべく
川ひろく月は岸まで照りたれば今宵こよいほたるつなぎがたしも
君すみし三年みとせ思ほゆ聴禽ちやうきん書屋しょをく障子しやうじひらきてみゆるたたみも
この茂る馬酔木あしびさながらうづむる雪をさまざまに人は話すも
朝のいち終りの時にほしきもの長夕顔ながゆふがほもしまはれてゆく
もがみ川吾等のらむとあしの沙踏みくづし君がみちびく
底ごもる水の音に少しおそれつつ吾等最上もがみ中淀なかよどにあり
舟の上に向ひあひたる結城氏のひたひあせは日にてらされつ
さんだはらしきていこひの君が森も舟より見ればたちまちにすぐ
石をする舟底ふなぞこのひびきかんじつつ一つ早瀬はやせいきのみてこゆ
見下みおろして川ゆたかなる山の上の寺にひめしやがの時はすぎたり
川上かはかみより川下かはしもより友等あつまりて吾にくれたるあめだまひとつかみ
人参にんじんあけの実による妻と吾老のしるしと誰か見るらむ
汽車にのる友数人すうにんは最上川渡りて芦の中ゆくがみゆ
大川おほかはにおちてあつまる支流しりうみゆ其の水の鮎も吾は食ひたり
尾花沢をばなざは小学校のわづか見ゆいづくのたうげ人は越えにし
ゆたかなる枝豆えだまめ引きて人の居りそれをもしばし立ちて見むとす
みち暑く足をさし来る靴のくぎ友は石拾ひまげてくれたり
夕かげる聴禽書屋見下して今宵の鮎をいま食はむとす
庭へだてかげれる聴禽書屋ありすでに障子をめて静まる

 大石田は、かつて最上川の水運でたいへん栄えた船泊の町でした。松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で訪れ、高野一栄亭で3泊し、同行の曾良、一栄、地元の俳人高桑川水と四吟歌仙を巻きました。その記録が芭蕉の真蹟(直筆)で残され、俗に『最上川歌仙』と呼ばれています。芭蕉の発句は、「五月雨を集めて涼し最上川」。高野一栄亭跡の標示と歌仙碑が最上川の堤防脇にあります。

高野一栄亭跡

芭蕉歌仙碑

 また、大石田は、斎藤茂吉が昭和20年4月に故郷金瓶に疎開した後、昭和21年2月から昭和22年11月まで移り住み、歌集『白き山』に収められた短歌を詠んだ町でもあります。
最上川の上空にしてのこれるは未だうつくしき虹の断片
(茂吉が好んで散策した虹ヶ丘公園に歌碑があります。)
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
(茂吉の分骨墓地のある乗舩時に歌碑があります。)
 茂吉は、地元の素封家二藤部家の離れを借り、「聴禽書屋」と名付けて、一人で暮らしました。食事の世話は二藤部夫人と同家の使用人、諸々の雑事の世話は短歌の門人板垣家子夫がしてくれました。
 聴禽書屋の前庭には、移住直後に大病を患い、その病がようやく癒えようとする頃に詠まれた短歌の碑が建てられています。
蛍火を一つ見いでて目守まもりしがいざ帰りなむ老の臥處ふしど

木々の間に見える聴禽書屋

 文明は、昭和23年10月7日付けの手紙で、茂吉に大石田を訪ねたことを報告しています。
「大石田ではいろいろよいところを見せて貰ひました。全く御蔭によるもので、それにつけても御滞在中参上出来なかったのは残念でした。橋のところから船で黒瀧山まで下りました。五月雨の歌仙も見せて貰ひ感激しました。九月の時報告に上るつもりのところひどい暑さで参いてしまひ失礼しました。」(句読点は筆者補充)

 この手紙を参考にしながら、文明の短歌を読むと、さまざまな心情がみごとに表現されていることが分かります。
 茂吉が自ら名付け2年を過ごした「聴禽書屋」や、最上川をはじめ茂吉が短歌に詠んだ大石田を見ることができた喜び。芭蕉直筆の『最上川歌仙』の巻物を見せてもらった感激。自然豊かで落ち着いた雰囲気の大石田の町の心地よさ。滞在のお世話をしてくれた茂吉の門人である板垣家子夫や結城哀草果への感謝。最上川を下る船旅の楽しさ。多くの知人友人に会い楽しく過ごせた喜び…などが詠まれています。

 10月3日、山形新幹線を利用して大石田に行ってきました。大石田は、駅前から見わたすと、町自体は大きいのですが、高い建物はあまりありません。古い家が多く、静かな雰囲気でした。
 まず、聴禽書屋を保存している大石田町立歴史民俗資料館を目指しました。道は下り坂でしたが、予想以上に距離があり、疲れたと思い始めたころにようやく着きました。

大石田町立歴史民俗資料館

 資料館の案内版に従い、庭にまわって、聴禽書屋を外から眺めました。古い建物ですが、よく手が入り、きれいに残されていました。「蛍火を」の短歌の碑もありました。その後、学芸員の大谷俊継さんの案内で聴禽書屋の屋内を見せていただきました。屋内はたいへんきれいで、外から見たときよりも広く感じました。座敷からは縁側越にさきほどの歌碑が見えました。床の間には茂吉の軸が下げられ、川岸に坐って最上川を眺める茂吉の代表的な写真や、大石田での生活を支えた門人板垣家子夫、結城哀草果と一緒の写真などが飾られていました。大谷さんからは、乗舩寺に茂吉の墓が建てられたいきさつなども教えていただきました。

聴禽書屋全景

聴禽書屋(座敷)

蛍火をの歌碑


 資料館から5分くらい歩くと、茂吉の墓のある乗舩寺に着きました。舟運が盛んだった頃の大石田は富み栄え、乗舩寺にはそのころ造られた大きな釈迦涅槃像もあるそうですが、現在はたいへんひっそりとしていました。しかし、茂吉の墓だけはきれいな花が供えられ、整然としていました。

乗船寺山門

斎藤茂吉の墓(乗船寺)

 寺を後にし、北上川に懸かる大橋のたもとへ行きました。北上川は、河川敷の幅はそれほど広くありませんが、水量は豊富でした。堤防を東に行き、川船方役所跡を見た後、引き返して西に行き、芭蕉ゆかりの高野一栄亭跡、歌仙碑を見ました。その周囲は必ずしも整備されていませんでしたが、350年ほど前、あの芭蕉が3日も滞在し、「五月雨を」の発句を詠んだことを思うと感慨深いものがありました。

大橋の懸かる最上川


 2時近くになり、見物にも疲れたので、大石田そば街道の蕎麦と、文明の短歌にもある鮎を食べようと探したのですが、曜日のせいか、時刻のせいか、空いている蕎麦屋が見つかりませんでした。それでも、お客がたくさんいるだんご屋で、抹茶だんごとみたらしだんごを食べることができました。
 駅にもどると、帰りの新幹線までまだ時間があったので、町が見渡せるようになっている駅の屋上から大石田の町をしばらくながめながら、芭蕉のこと、茂吉のこと、文明のことを考えていると、あっという間に、出発の時間になりました。

大石田の町(駅屋上から)

浅虫温泉(海に沈んだ歌人を想う)

2024年10月05日

 文明の歌集『続青南集』に「津軽浅虫」の題で21首の短歌が載っています。そのうち以下の9首は、文明が昭和39年に浅虫温泉を訪れ、すでに故人であった桜田角郎(明治38年~昭和29年)という人物を思い出して詠んだ短歌のようです。


 港の灯と思ふあたりを見てねき明時の汽笛ゆるやかに聞ゆ
 送りたる根室の鮭は我に到り君は颱風に船に沈みき
 米持たぬ我等迎ふと海渡り来りて米を求めあるきし
 温泉の町に君が探しし米を食ひ塩はゆき温泉に共に宿りき
 在りし日も亡きあともかなしき物語君がうへに聞く心にしみて
 君得意にて朝鮮神社にみちびきき間もなく国の破るるにあふ
 国の破るる待たずにありし君の不幸君が言はねば我知らざりき
 君が納屋にひそかにかみし馬鈴薯の濁り酒も思へば悲しき一つ
 朝の海くもりて静かなる前の島に向ふあひだも亡き君思ほゆ


 これらの短歌が桜田について詠んだものらしいということは、関西アララギ会員による文明短歌研究で知りました。その後、旧制函館中学校、函館中部高等学校の同窓会である「白楊ヶ丘同窓会」の東京支部の会報「東京白楊だより」の第18号(平成7年7月20日発行)に、昭和13年卒業の同窓生井上勲氏が「昭和万葉集と桜田先生」と題して投稿されているのを発見しました。
 それによると、桜田は、神宮皇学館を卒業後、旧制函館中学校などで国語を教えましたが、昭和17年には朝鮮に渡り国策で造られた光州神社の主典(宮司)となりました。昭和20年に召集され、終戦を迎えましたが、宮司であったことから戦後は公職追放となり、大変苦労しました。そして、昭和29年9月26日、桜田は運悪く颱風で沈没した洞爺丸に乗り合わせ、この世を去りました。
 『アララギ』の昭和9年5月号には、「函館大火」の題で、同年3月21日に被災した体験をもとに、
 重傷いたで 負える妻を引き連れ念じ来し砂山もすでに の海となりぬ
 目の前に災となりし人いくたり見つつ術なく吾等逃げ行く

など、桜田が詠んだ短歌5首が載っていることも記されていました。

 井上氏の投稿を参考にして、文明の短歌を読むと、桜田が文明を師として慕い、厚くもてなしていたことがわかります。光州神社の主典在任中には、朝鮮を訪れた文明の案内をしたり、太平洋戦争後は、食料不足のなか浅虫温泉を訪れた文明一行のために、北海道からわざわざ海を渡ってやって来て、米を調達したりしてくれたようです。海難事故で亡くなる直前には根室産の鮭を送ってくれたようです。
 事故から10年後に桜田との思い出の地である浅虫温泉を訪れ、海を眺め、遠くに青函連絡船の港である青森港を望みながら、自分に尽くしてくれた桜田のことを回想して詠んだのがこれらの短歌です。

 このようなことが分かってくると、どうしても浅虫温泉へ行ってみたくなりました。当日は、上越新幹線、東北新幹線で新青森に着き、弘前に寄り道したのち、青森駅から青い森鉄道に乗り、20分くらいで浅虫温泉駅に着きました。駅を出ると、穏やかな海が、岸近くに大きな湯の島を配し、湾状に広がっています。陸続きの左奥には、青森の市街が小さく見え、その背後には岩木山が望めます。見晴らしのよいホテルに一泊しましたが、温泉は塩はゆく、海は昼、晩、朝と、さまざまに変化し、美しさの尽きることがありませんでした。それだけに、人生のはかなさを思い、感傷的になりました。そして、苦労が尽きず、最後は海難事故でこの世を去った桜田角郎のことを思わずにいられなかった文明に思いを馳せることになりました。

青い森鉄道

浅虫温泉駅

浅虫温泉旅館街

海の向こうに青森市街と岩木山を望む

青が鮮やかな浅虫の海

夕日の沈む浅虫の海

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