特別館長日記

漱石山房・小石川後楽園を訪ねて
4月3日は小雨日和でしたが、東京はちょうど桜が満開だったので、漱石山房記念館、小石川後楽園を訪ねました。




漱石山房記念館は、漱石の自宅のあった早稲田南町にあります。同じ町内には、正岡子規門下の俳人で政治活動をしていた赤木格堂の経営する青年日本社兼自宅もありました。大正2年頃、学費に苦労していた土屋文明は、恩師伊藤左千夫の紹介で雑誌「青年日本」の編集手伝いとして格堂のもとに寄食していました。
赤木先生包み下されし幾ばくか手を触れざりき貧は貧 『続々青南集』
漱石山房記念館の展示室では、漱石と関係のあった文学者等が写真とともにたくさん紹介されていました。その中に、芥川龍之介や久米正雄など文明の一高時代の同級生もいましたが、文明の名はありませんでした。文明が夏目漱石に接した記録自体もありません。
同級生たちが会費を出し合って第三次「新思潮」を刊行した時も、文明は会費を出すことができず、仮の会員として参加したと伝えられていますが、文明に経済的な余裕があれば、漱石に会う機会もあり、その人生も変わっていたかもしれません。
「小石川後楽園」14首は、「短歌研究」の昭和13年9月号に発表され、歌集『少安集』に収録されました。
笹うゑし廬山の形小さくしてこむらの下に黄にしづまりぬ
狭き水に西湖の塘かたどりぬ石塘直に草はあれたり
みつがしは実の穂になりて衰へつつ水蓮もはびこる程にはならず
見ぬ国をここに小さくつくりいで峰を並べて山あはれなり
幾度か火に焼けし園に残りつつあくまで茂るしだれ桜は
いりゆきて夏の落葉のしげきかな音たえし谷の一所あり
移り去りし工廠のあとなほ広く草のしげりのほしいままに見ゆ
菖蒲田となりて残れり大名の米をたふとび作りたる田は
紅はうすき光の中ににほひ夕べの蓮くづほれむとす
くれなゐの蓮の花のふくだみてしどろになりつ清きかがやき
白き花くれなゐの花池を分ちい照りかがよふ曇り日の下
松原の中の静かさ眠らむに吾はおどろく何のやさしきこゑ
相よばふ水の上の鳥頭あかくいまだ柔毛のひなのしたがふ
かづきする親鳥の息ながきしばしゆき廻るものこゑををさめつ










小石川後楽園は、水戸徳川家が建設した広大な「回遊式築山泉庭園」で、日本と中国の有名な景観がたくさん再現されています。歩いてみると、文明の短歌はここで詠んだのではないかという情景に出会うことができます。しかし、昭和11年の二・二六事件、昭和12年の盧溝橋事件、昭和13年の国家総動員法と、日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた時代に詠まれただけに、全体的には、暗さや寂しさが感じられます。
現在、庭園はしっかり整備保存され、樹々の向こうに高層ビルがいくつも見え、文明が詠んだ頃とは大きく異なっています。それがかえって戦後80年の平和を象徴しているように感じました。
上信道工事中


3月25日、東吾妻町川戸の大川家旧宅を訪ねました。すぐ前を通る上信道の工事が現在進行中で、文明が戦中戦後疎開し、その後も当時の様相がほぼ残されてきた川戸もまもなく大きく変わってしまいそうです。
昭和20年5月25日、アメリカ軍のB29による無差別空襲で、東京南青山の文明宅も全焼しました。文明は、長女の草子が吾妻高等女学校に勤めていたこともあり、群馬県吾妻郡原町の旧家である大川正宅の部屋を借りて暮らしました。



この時、文明は55歳、敗戦後の食糧難の時代に、山の土地を借りて開墾し、自ら畑を耕して暮らす生活はさぞかし苦労が多かったと思います。川戸での疎開生活は、昭和26年11月までの長期にわたりますが、歌集『山下水』『自流泉』に収められた短歌を読むと、年を経るに従い、生活状況が改善していったことが分ります。
疎開中も、文明は、短歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)の立場にありました。
太平洋戦争が終わるといち早く、20年11月には、会員との連絡が困難で、物資も不足する状況にもかかわらず、長い間休刊していた『アララギ』を、昭和二十年九月号(出詠者8名16ページ)として復刊しました。

また、昭和21年から22年にかけて叫ばれた、短歌の文学的価値を軽視する「第二芸術論」には、自らの歌づくり、全国をまわっての講演、歌人への激励等で対抗し、短歌の伝統を守り、発展させました。文明の指導で、『アララギ』の地方誌が全国各地にでき、群馬県には、齋藤喜博の尽力で『ケノクニ』ができました。
一高時代の友人の紹介で、山口大学に赴任する話もありましたが、実現せず、東京へ戻った翌年27年に明治大学の教授に就任しています。
川戸疎開から南青山復帰まで、文明の様子がわかる短歌を掲載しました。なお、「垣山に」の短歌は奈良県で詠まれたものです。
朝よひに真清水に採み山に採み養ふ命は来む時のため(『山下水』20年)
朝々に霜にうたるる水芥子となりの兎と土屋とが食ふ(〃20年)
山の上に吾に十坪の新墾あり蕪まきて食はむ饑ゑ死ぬる前に(〃20年)
にんじんは明日蒔けばよし歸らむよ東一華の花も閉ざしぬ(〃21年)
ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し(〃21年)
友二人われをおくりて夕川を田辺わたればわが川戸村(〃21年)
歌作るを生意志なきことと吾も思ふ論じ高ぶる阿房どもの前に(〃21年)
垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ(21年)
南瓜二つくさりて春となりたるもゆたかなりける今年の冬ぞ(『自流泉』22年)
疎開人かへりつくしし春にして泉の芹を我独占す(〃23年)
大阪に丁稚たるべく定められし其の日の如く淋しき今日かな(〃24年)
この山の薯を盗まねば饑うるかと恐れしと時も過ぎて遥かなり(〃25年)
戦ひて敗れて餓ゑて苦しみて凌ぎて待ちし日と言はむかも(〃26年)
うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮しを始む(『青南集』26年)
文明が暮らした大川家は、町長も務める旧家にふさわしく、今見てもたいへんな豪邸です。南側の庭も広く、錦鯉が泳ぐ大きな池を配し、たくさんの樹々が植えられていました。
文明が暮らした部屋は、屋敷の西側にあり、それなりの広さがありましたが、家族で暮らすには手狭だったと思います。部屋の正面には、「友二人」の短歌の色紙が飾られていました。
「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌というものはほろびないばかりではない、いかなる社会機構の中でも存在しつづける」という名古屋での講演も、この部屋で考えたのではないかと思うと、感慨深いものがありました。
上信道の工事が行われているのは、大川家の南側で、工事現場の近くには、清水が湧く場所があり、筧で豊富な水が大川家の庭に引かれています。向こうに見える山林の中には、文明が飢えをしのぐために開墾した「十坪の新墾」もありました。世の移り変わりは常とはいえ、文明ゆかりの地が大きく変わってしまうことに寂しさを感じました。
鶴見臨港鉄道
鶴見臨港鉄道は、大正末期から昭和初期にかけて、埋立地に造られる工場群への輸送機関として、浅野や安田などの民間企業によって開発されました。現在はJRの鶴見線になっています。周辺の京浜工業地帯は日本近代化の象徴です。










土屋文明は、昭和8年にここを取材し、近代社会における産業と人間の様相を直視して「鶴見臨港鉄道」という題で、21首の短歌を詠んで雑誌『短歌研究』に発表し、『山谷集』に収録しています。
鶴見臨港鉄道
枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす
船体の振動見えて汽笛鳴らす貨物船は枯葦の原中にして
たくましき大葉ぎしぎし萌えそろふ葦原に石炭殻の道を作れり
二三尺葦原中に枯れ立てる犬蓼の幹にふる春の雨
大連船籍の船名みれば撫順炭積みて来りし事もしるしも
石炭を仕別くる装置の長きベルト雨しげくして滴り流る
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
蕗の薹踏まれし石炭殻の路のへに蕗の葉若々しく萌えいでにけり
稀に見る人は親しき雨具して起重機の上に出でて来れる
貨物船入り来る運河のさきになほ電車の走る埋立地見ゆ
解体船の現場を示す枯原の道は工場にただに入り行く
雨の中に解体船の船橋の捨てあるは運河の対岸ならむ
よし切か雲雀かこゑのひびけるは工場地帯の休憩時に
おのづから運河をのこす埋立に三井埠頭は設けられたり
本所深川あたり工場地区の汚さは大資本大企業に見るべくもなし
幾隻か埠頭に寄れる石炭船荷役にはただ機械とどろけり
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ
群りて蓼の芽紅く萌えいづる空地はすでに限られてあり
吾一人ありて歩める運河の岸青き潮干はしばしだに見む
文明は、昭和5年から昭和27年まで歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)を務め、正岡子規と並んで、近代短歌の発展に偉大な功績を残しました。
最大の功績は、太平洋戦争敗戦による伝統文化軽視の気運のなかで展開された短歌軽視の主張(一般に 「第二芸術論」と言われる)に対抗し、短歌の伝統を守り、発展させたことです。
形式が限定された短歌では、複雑になっていく現代社会を的確に表現することはできないし、人々に強く訴えることはできないという主張に対し、文明は、名古屋での講演等で反論し、自らの作品で実証しました。
しかし、「鶴見臨港鉄道」の短歌を読むと、「第二芸術論」の論争を待つまでもなく、文明がすでに昭和初期に近代社会を直視した短歌を詠んでいたことが分ります。
特に、『山谷集』には、ほかにも近代社会をテーマにした短歌が収録されています。
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす(「城東区」)
土深く砂利を求めて掘る見れば乏しき国に民や育てる(「多摩川」)
軍艦は出でたるあとの軍港に春の潮みちくらげ多く浮く(「横須賀」)
セメントを荷役の船の白きほこり倉庫を越えて町の方に吹く(「芝浦埠頭」)
石積みて白土に砕く工場は麦青き畑に立ちしばかりなり(「武蔵小川町」)
さらに遡れば、斎藤茂吉が大正14年に「『ふゆくさ』小評」で、「土屋君は、高等学校に入ってからも、大学にゐた頃も、時折、短歌は所詮小芸術に過ぎない。短歌では到底近代人の心を盛ることは出来ん、などと唱へて、当時にあつては何も彼も短歌で片付けてしまはうとしてゐる僕などを驚かしたのであつた。」と述べています。文明は戦後の「第二芸術論」論争のはるか前に、すでにそのような考え方を乗り越えていたのだと思います。
今回、鶴見線に乗ったのは昼近い時間だったので、乗客はまばらで、「ローカル線」に近い雰囲気でした。周辺の工場は、新旧それぞれでしたが、全体的には静かな感じでした。海芝浦への路線は、文明が「鶴見臨港鉄道」を詠んだ頃にはまだ開通していませんでしたが、京浜運河の向こうに工場群が広がる光景は雄大で、文明が健在ならばどのように詠んだのだろうと思いながら、電車折り返しまでの時間を過ごしました。
子規庵を訪ねて






台東区根岸にある子規庵を訪ねました。
道順はあらかじめ調べましたが、山手線の鶯谷駅を降りたら、どちらへ進めばいいか分からなくなってしまいました。交番があったので尋ねると、分かりやすい案内図をくれました。案内に従って10分程度歩くと、大通りから脇道に入った静かな街並みの中に、ブロック塀に囲まれた子規庵がありました。
従来の庵は、昭和20年4月戦災で焼失しましたが、昭和25年子規の弟子である寒川鼠骨の尽力により再現されたそうです。現在の庵も、すでに80年が経過しているので、年を経た重みがあり、子規の暮らしに思いを馳せることができました。
特に、子規が結核の病に苦しみながら執筆を行った「病床六尺の間」に入ると、子規がここで詠んだいくつかの短歌が浮かびました。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
庭には、糸瓜や鶏頭など、病床の子規を慰め、俳句や短歌の素材となった草木がたくさん植えられていました。
絶筆三句の碑もあり、哀れさを誘いました。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水もとらざりき
文明は、朝日新聞に掲載した「折り折りの人(7)久米正雄」で、「そのころ根岸の子規旧居では九月十九日を中心にして子規忌の俳句会が開かれ、短歌会の方の忌会はそのあと開かれるらしかった。私は短歌会に出て、俳句会の方の出席者名簿に久米三汀のあるのを見て、やっぱり来ているなと思った記憶がある」と書いています。ですから、子規庵を訪れているし、おそらく子規の母や妹にも会っているに違いないと思いますが、残念ながら生前の子規には会っていないようです。
正岡子規は、特に俳句や短歌の分野で、近代化にかけがえのない大きな功績を残した文学者です。子規の活躍がなければ、日本の文学は現在と全く違ったものになっていたと思います。
土屋文明は、伊藤左千夫に師事し、『アララギ』の歌人としての道を進みますが、左千夫は子規に師事し、左千夫も文明も、子規が「歌よみに与ふる書」などで唱えた「写生」や「万葉集尊重」の考え方に従って文学活動を行いました。
文明は、昭和26年に子規の故郷松山で開催された「子規五十年祭」に参加し、短歌を詠んでいます。(歌集『自流泉』に収録)
子規五十年祭
五十年すぎにし君の故国に親しくもあるかな青き蜜柑の
伊予の温泉の夜は静まりいさ庭のゆづきの丘にふくろふの鳴く
湯の岡に終夜なる水の音子規五十年祭のあと興奮す
木むらには朝の露のしとどにてねむの実ねむの葉すがれむとする
正岡の升さんあり子規あり就中我が命竹の里人
文明の子規への尊崇の念は厚く、全歌集『竹乃里歌』から短歌等を厳選した『子規歌集』(岩波文庫)の編者にもなっています。
文明記念文学館に勤める者としてはもっと早く訪ねるべきでしたが、今回訪ねることができて、子規や文明への思いを強くすることができたような気がします。
帰りがてら、子規ゆかりの豆腐の「笹乃雪」の句碑をながめ、「羽二重団子」でおいしい団子とお茶をいただきました。
かたい友情







山本有三記念館を訪ねました。
三鷹駅から玉川上水沿いの道を歩きました。上水の流れはゆるやかでしたが、途中には太宰治の文学碑がありました。15分ほどで家並みが途切れ、「三鷹市山本有三記念館」という控えめの看板と、企画展「山本有三没後50年 濁流 雑談 近衛文麿 ―燃ゆる創作への想い―」の標示を見つけました。道からかなり入ったところにあり、門も建物も洋風で、山本が国語の口語化を強く主張したことを思い出しました。
1階は、子どもを大切にした山本にふさわしく「おはなし会」がちょうど開催されていたので、見ることができませんでしたが、2階では、標示されていた企画展が開催中で、ボランティアの方に丁寧に解説していただきながら観覧することができました。建物のすばらしさとともに、近衛文麿と山本有三とのかたい友情に感動しました。近衛は、昭和19年7月、東条英機内閣打倒のため首相暗殺も辞さないことを山本に告げ、その声明文の執筆を依頼しました。戦後しばらくして、山本は、近衛の真相を知ってもらうために「雑談」を発表しました。



荻外荘には、山本有三記念館に来る前に寄ってきました。
荻外荘は、総理大臣を三度務めた政治家近衛文麿の旧宅ですが、約10年にわたる復原整備工事が終了し、昨年12月から一般公開されています。荻窪駅から住宅が並ぶ中をだいぶ歩いて、途中で尋ねたりしてようやく着きました。木々に囲まれた壮大な日本邸宅の美しさに藤原氏の伝統を受け継ぐ近衛家を実感しました。昭和15年7月、第2次近衛内閣の閣僚予定者である近衛文麿(総理)、東条英機(陸相)、吉田善吾(海相)、松岡洋右(外相)が会談し、ドイツ・イタリアと同盟を結び、東南アジアへ南進する政策方針が決められ、太平洋戦争への道を歩むことになった客間。敗戦後の昭和20年12月、戦犯としてGHQへの出頭を求められた近衛が自決した書斎。日本史の舞台となった部屋を目の前にして厳粛な気持ちになりました。
山本有三と土屋文明は、明治42年旧制第一高等学校に入学して出会いました。ともに、ドイツ語の単位を落として留年しましたが、錚々たる仲間のなかで、二人だけが文化勲章を受章しています。二人は、久米正雄、菊池寛、芥川龍之介などとともに第三次『新思潮』のメンバーです。国語の口語化を主張する山本と万葉集を尊重する文明と、考え方はそれぞれでしたが、かたい友情に結ばれていました。そのことは、山本の死を悼んで詠んだ文明の短歌にもよく表れています。近衛文麿も旧制一高の同級生です。
山本有三君を悲しむ(『青南後集』昭和49年)
ありし日の如く清らに言葉なき終の姿にあふもかなしも
談らひし伊勢の旅ゆきもはたさぬに君は早くも終り給ふか
古く長く交はることを心にし我がため多くはかりくれにき
少き交はりに共に老に入りなほ長き日をたのみしものを
伊豆の海の光も岸の冬の日も君を別れて見るべきものか
三鷹にて山本有三を思ふ(『青南後集』昭和52年)
君が住みし七処の五処知りたれど思は深しかの牟礼の家
君がもとのあたりいづらと見やるとも変化ははげし新興市街
建物の間にわづかに旧上水水は行くのか行かぬのか見ず
三十年過ぎて変るといふならずすでに新しき異国あり
君が庭の水鳥の来る池の落葉昨日のごとく我は思ふに
なごやかにゆたかに湯河原はありたれどみ山なす静けさに三鷹の家
上水に沿ふも静かに人稀に行きつつ我をばはげましくれき
世におくれ職をはなるるしばしばにて君が言葉は力なりけり
生ける世に最も長き交はりと君をぞ思ふ駅の迷路に