特別館長日記

鶴見臨港鉄道
鶴見臨港鉄道は、大正末期から昭和初期にかけて、埋立地に造られる工場群への輸送機関として、浅野や安田などの民間企業によって開発されました。現在はJRの鶴見線になっています。周辺の京浜工業地帯は日本近代化の象徴です。










土屋文明は、昭和8年にここを取材し、近代社会における産業と人間の様相を直視して「鶴見臨港鉄道」という題で、21首の短歌を詠んで雑誌『短歌研究』に発表し、『山谷集』に収録しています。
鶴見臨港鉄道
枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす
船体の振動見えて汽笛鳴らす貨物船は枯葦の原中にして
たくましき大葉ぎしぎし萌えそろふ葦原に石炭殻の道を作れり
二三尺葦原中に枯れ立てる犬蓼の幹にふる春の雨
大連船籍の船名みれば撫順炭積みて来りし事もしるしも
石炭を仕別くる装置の長きベルト雨しげくして滴り流る
嵐の如く機械うなれる工場地帯入り来て人間の影だにも見ず
蕗の薹踏まれし石炭殻の路のへに蕗の葉若々しく萌えいでにけり
稀に見る人は親しき雨具して起重機の上に出でて来れる
貨物船入り来る運河のさきになほ電車の走る埋立地見ゆ
解体船の現場を示す枯原の道は工場にただに入り行く
雨の中に解体船の船橋の捨てあるは運河の対岸ならむ
よし切か雲雀かこゑのひびけるは工場地帯の休憩時に
おのづから運河をのこす埋立に三井埠頭は設けられたり
本所深川あたり工場地区の汚さは大資本大企業に見るべくもなし
幾隻か埠頭に寄れる石炭船荷役にはただ機械とどろけり
吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は
横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ
無産派の理論より感情表白より現前の機械力専制は恐怖せしむ
群りて蓼の芽紅く萌えいづる空地はすでに限られてあり
吾一人ありて歩める運河の岸青き潮干はしばしだに見む
文明は、昭和5年から昭和27年まで歌誌『アララギ』の編集発行人(代表)を務め、正岡子規と並んで、近代短歌の発展に偉大な功績を残しました。
最大の功績は、太平洋戦争敗戦による伝統文化軽視の気運のなかで展開された短歌軽視の主張(一般に 「第二芸術論」と言われる)に対抗し、短歌の伝統を守り、発展させたことです。
形式が限定された短歌では、複雑になっていく現代社会を的確に表現することはできないし、人々に強く訴えることはできないという主張に対し、文明は、名古屋での講演等で反論し、自らの作品で実証しました。
しかし、「鶴見臨港鉄道」の短歌を読むと、「第二芸術論」の論争を待つまでもなく、文明がすでに昭和初期に近代社会を直視した短歌を詠んでいたことが分ります。
特に、『山谷集』には、ほかにも近代社会をテーマにした短歌が収録されています。
小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす(「城東区」)
土深く砂利を求めて掘る見れば乏しき国に民や育てる(「多摩川」)
軍艦は出でたるあとの軍港に春の潮みちくらげ多く浮く(「横須賀」)
セメントを荷役の船の白きほこり倉庫を越えて町の方に吹く(「芝浦埠頭」)
石積みて白土に砕く工場は麦青き畑に立ちしばかりなり(「武蔵小川町」)
さらに遡れば、斎藤茂吉が大正14年に「『ふゆくさ』小評」で、「土屋君は、高等学校に入ってからも、大学にゐた頃も、時折、短歌は所詮小芸術に過ぎない。短歌では到底近代人の心を盛ることは出来ん、などと唱へて、当時にあつては何も彼も短歌で片付けてしまはうとしてゐる僕などを驚かしたのであつた。」と述べています。文明は戦後の「第二芸術論」論争のはるか前に、すでにそのような考え方を乗り越えていたのだと思います。
今回、鶴見線に乗ったのは昼近い時間だったので、乗客はまばらで、「ローカル線」に近い雰囲気でした。周辺の工場は、新旧それぞれでしたが、全体的には静かな感じでした。海芝浦への路線は、文明が「鶴見臨港鉄道」を詠んだ頃にはまだ開通していませんでしたが、京浜運河の向こうに工場群が広がる光景は雄大で、文明が健在ならばどのように詠んだのだろうと思いながら、電車折り返しまでの時間を過ごしました。
子規庵を訪ねて






台東区根岸にある子規庵を訪ねました。
道順はあらかじめ調べましたが、山手線の鶯谷駅を降りたら、どちらへ進めばいいか分からなくなってしまいました。交番があったので尋ねると、分かりやすい案内図をくれました。案内に従って10分程度歩くと、大通りから脇道に入った静かな街並みの中に、ブロック塀に囲まれた子規庵がありました。
従来の庵は、昭和20年4月戦災で焼失しましたが、昭和25年子規の弟子である寒川鼠骨の尽力により再現されたそうです。現在の庵も、すでに80年が経過しているので、年を経た重みがあり、子規の暮らしに思いを馳せることができました。
特に、子規が結核の病に苦しみながら執筆を行った「病床六尺の間」に入ると、子規がここで詠んだいくつかの短歌が浮かびました。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
庭には、糸瓜や鶏頭など、病床の子規を慰め、俳句や短歌の素材となった草木がたくさん植えられていました。
絶筆三句の碑もあり、哀れさを誘いました。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水もとらざりき
文明は、朝日新聞に掲載した「折り折りの人(7)久米正雄」で、「そのころ根岸の子規旧居では九月十九日を中心にして子規忌の俳句会が開かれ、短歌会の方の忌会はそのあと開かれるらしかった。私は短歌会に出て、俳句会の方の出席者名簿に久米三汀のあるのを見て、やっぱり来ているなと思った記憶がある」と書いています。ですから、子規庵を訪れているし、おそらく子規の母や妹にも会っているに違いないと思いますが、残念ながら生前の子規には会っていないようです。
正岡子規は、特に俳句や短歌の分野で、近代化にかけがえのない大きな功績を残した文学者です。子規の活躍がなければ、日本の文学は現在と全く違ったものになっていたと思います。
土屋文明は、伊藤左千夫に師事し、『アララギ』の歌人としての道を進みますが、左千夫は子規に師事し、左千夫も文明も、子規が「歌よみに与ふる書」などで唱えた「写生」や「万葉集尊重」の考え方に従って文学活動を行いました。
文明は、昭和26年に子規の故郷松山で開催された「子規五十年祭」に参加し、短歌を詠んでいます。(歌集『自流泉』に収録)
子規五十年祭
五十年すぎにし君の故国に親しくもあるかな青き蜜柑の
伊予の温泉の夜は静まりいさ庭のゆづきの丘にふくろふの鳴く
湯の岡に終夜なる水の音子規五十年祭のあと興奮す
木むらには朝の露のしとどにてねむの実ねむの葉すがれむとする
正岡の升さんあり子規あり就中我が命竹の里人
文明の子規への尊崇の念は厚く、全歌集『竹乃里歌』から短歌等を厳選した『子規歌集』(岩波文庫)の編者にもなっています。
文明記念文学館に勤める者としてはもっと早く訪ねるべきでしたが、今回訪ねることができて、子規や文明への思いを強くすることができたような気がします。
帰りがてら、子規ゆかりの豆腐の「笹乃雪」の句碑をながめ、「羽二重団子」でおいしい団子とお茶をいただきました。