特別館長日記

人生の転機に訪れた那須
土屋文明は、100年の生涯において日本各地を旅していますが、大正13年、昭和5年、8年、27年(短歌発表は28年)、32年の少なくとも5回、栃木県の那須を訪れ、多数の短歌を詠んでいます。
大正13年は、文明にとって人生の大きな転機でした。
文明は、大正5年に東京帝国大学を卒業し、大正7年に島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校教頭の職に就きます。大正9年には校長に昇任し、同校での実績が評価されて、大正11年には松本高等女学校校長に転任します。短歌ができなくなるくらい、情熱を傾けて女子教育に取り組んでいましたが、松本の有力者の反感を買い、県が木曽中学校長への転任を発令すると、拒否して長野県教員を退職しました。東京へ戻った文明は、知人の世話で法政大学予科の専任講師に就き、生活の糧を得ることができました。しばらく離れていたアララギにも復帰し、翌年2月には第一歌集『ふゆくさ』を刊行します。以後の文明は大学に勤めながら短歌に専心する人生を送ります。
妻や友人と訪れて昔を懐かしんだ昭和32年の旅は別として、那須を訪れた昭和5年も、8年も、27年も文明にとっては人生の転機でした。
・昭和5年5月斎藤茂吉から「アララギ」の編集発行人を引き継ぐ。
・昭和8年1月「アララギ」25周年祝賀会を開催し、記念号を編集発行する。4月明治大学専門部文芸科講師となる。
・昭和27年1月「アララギ」編集発行人を辞退する。4月明治大学文学部教授となる。
4月22日、殺生石、雲巌寺、那須国造碑の順で那須を訪ねました。いずれも、雄大な自然や悠久の歴史のなかで、自分の人生について落ち着いて考えることができる雰囲気で、文明が何度も訪れた理由が分かるような気がしました。殺生石の近くには1300年前に鹿が発見したという「鹿の湯」があり、文明も入ったに違いないと思いながら私も旅の疲れを癒しました。
那須雲岩寺(『ふゆくさ』大正13年)
しだれ桜老木しきりに落葉せり雨ばれあとの青苔の上に
うすくらき金堂のうち音のして仏具繕ふ人居たりけり
しめりもちて冷き堂の気にこもり漆の香しるくきこゆる
青苔の庭の日ざしに赤棟蛇いでて舌はく昼すぎにけり
仏国禅師の墓をめぐりて幾基かの石塔並べり
毳の如くみ墓を包む苔の中にふもとすみれは葉のみなりけり
この寺を守りて幾代を更へにけむ聖等の墓傾けるあり
人の世のここに寂しさを住み果てし墓は小さく苔しげりたり
草の根に昨日の雨のしたたりて墓を囲める岩寒げなり
名月の日に逢ひて露久保といふ字もをかし鰻坂を越え暮れて庵野に至り宿る
ならぶ山みな萱原の穂にいでて条立つ風になびき光れり
女生徒はおのおの尾花を折りもちて露久保村にかへりゆくなり
幼児は尾花もちゆく母のあとに萱の甘茎かみつつ従ふ
家いつぱい吊しならべし葉煙草の青くさき家に入りて道きく
夕近き庭の乾草かをり立ち煙草延すをんな言葉すくなし
八溝山は天の草山いただきに近く迫りて著きみちすぢ
谷かげに黒む茂りのところどころ白く淋しき桵の花みゆ
夕しづむ那須国原をかこむ山煙ほのかなるは那須岳ならむ
電燈なきうす暗き室に尾花立て柿栗も供ふ家ごとにして
枠に立てし尾花をかこみうからどち椀を仰ぎて物食ふ児もあり
近くきこゆ水車の音に外の月の清けきを思ひ遂に眠れり
那須殺生石(『山谷集』昭和5年)
吹く風は尾の上の草に渡れども谷あつくして毒気うごけり
殺生石は草木たえたる石はらに秋ひる過ぎの陽炎は立つ
香に立ちて青草山へ吹き越ゆる石の毒気をしばらく耐ふ
谷風はときどき涼しく吹き来り青山のいろすでに秋づく
殺生石に涼しき風は吹き居りて虫の死骸の多くはあらず
こともなく散りぼふ虫は死にてあり甲虫をいくつか拾ふ
殺生石の石はら中に水湧けり清々として青しその苔
朝日影山にてりつつ谷ふかき殺生石に露ながれ居る
石の上に涼しき露は凝りながら吹く朝風の毒気鋭し
那須(『山谷集』昭和8年)
さむき風桜の花に吹きつけて朝炎は立てり那須野に
芽ぶきたつ春の山べに雷なりて降りたる雹は白くたまりぬ
春草に掬ふばかりにたまりたる雹の消えゆく束の間を見つ
山の上の雪にかがやく春の日よ汗ながしゆく殺生石の谷を
雪のある谷のなだりをおろしくる風は殺生石の硫気を吹けり
殺生石の石原に陽炎のもゆるとき布子をしきてしばし休みぬ
湯の花をとる焼石の原なかに清水ながれ虎杖の萌えいでにけり
手に持てるりんだうの花かたくりの花殺生石に投げ捨ててゆく
那須雑詠(『山谷集』昭和8年)
とどろきて雷すぎにける夜のそらに鳴きゆく鳥を雁かとぞ思ふ
しら雲は月のひかりにうごき居り南月山に黒谷山に
月のひかり雲をてらせる山べより黒々として谷の下れる
さやかなる月はひろらに照らせれど八溝あたりはすでにかそけし
この宵のとみの涼しさななかまどの黄になりし実を房ながら挿しぬ
葱を負ひ山をのぼりてゆく人あり焼山谷に汗をながして
那須雲岩寺(『山谷集』昭和8年)
われかつて飲みにし道の泉には子供の寄りて今日も飲み居る
病む父の薬をもてる少年と語りつつこえき十年まへに
今日の日に再びこゆる那須野の道十年といふはあはれなりけり
この前は草鞋をはきてこの谷をなほ奥ふかくのぼり行きにき
山門の前にさやけき瀬の音のわが記憶よりいたく清けし
岩かげに水わき流れ墓ありて苔のむしろはかはることなし
みんみん蝉あまた鋭く響ければあはれ衰へてつくつくほふし啼く
悼平福百穂画伯(『山谷集』昭和8年)より(参考)
那須野より久慈の川上とめゆきて君に白河にあひしをぞ思ふ
朝ぎりは煙の如くたなびきて山川の温泉に君と浴みにき
すこやかに君は浴みて山川の湍の中に足を浸しき
山の上の月をあはれみ時経ぬに君をはふりの宵のさやけさ
従ひて入りにし山のいまだ暑く夜半の月夜に談りたまひき
帰りますむなしき君を迎へては皆人われもこゑあらめやも
み葬のはてにし夜の風吹きてあはれ幾日の心ゆるまむ
那須雲岩寺(『青南集』昭和28年)
一夜して紅葉散らふ前に来つ時雨の中に宿りせりけり
草ひとつ苔の中より拾ひ取る更に来ざらむ谷かげの寺
思ひたわみこの谷深く歩み入りきいかなる刺戟にもすがらむとしき
その夜の宿もなくなりぬうべな宜な三十年は長かりしかな
命なれば三度こえ行く谷の道今日は朝より腰いたくして
那須国造碑(『青南集』昭和28年)
枯草に冬日しづまる道ひろく幾年こひし笠石の前
扉ひらく時まちて登るふる墳に露はしたたるいばらの実より
首巻の毛糸たらせる氏子のかげ恰も今日の祭にぞあふ
近々と我をみちびき石に触らす水戸光圀のごとき翁なり
紛なき永昌の文字ありの儘に歴史のつながり知らむ日は何時
那須の国(『青南集』昭和32年)
友十人我と我が妻をみちびきて夕かげとなる殺生石の谷
交りて二十年或は四十年我と二日あそぶ忙しき君等
実となりしふりそで柳の一枝も根つかば長き思出とせむ
わが好み君等に強ひて那須の国の若葉の中を昨日も今日も
畔の上に茅花を拾ふ童一人幼きわが姿妻にもいはず
三十年に四度来りてこの寺の藤のさかりに会へる今日かも
生ける世のさびしくならば此所に来よ谷にたなびく藤浪の花











『磔茂左衛門』の作者―藤森成吉
5月5日の上毛新聞「上毛かるたを歩く」は、「天下の義人茂左衛門」についてでしたが、藤森成吉について次のように触れていました。
戯曲『磔茂左衛門』(藤森成吉・26年)を読むと、ストーリー展開の要はやはり将軍直訴。…藤森はプロレタリア作家、…茂左衛門は時代の要請を受けて権力と対峙する義民の役割を演じてきたともいえる。



藤森成吉は、土屋文明の友人です。文明は、長野県の高等女学校に教頭、校長として勤めた大正7年から13年までの6年間を回想した自伝『信濃の六年』の中で、次のように述べています。
期限つきの家から、第二の借家に移ったのは、奇遇といえば、奇遇であった。それは大阪屋という薬屋の別荘として建てたのであるが、更に新しい別荘が出来たので、借家としたという。広くはないが、自家用の温泉と浴室がある。家内が借用を頼みに出向いたところ、主人が、成吉の友人だそうですから前よりも家賃を引いて置きますということであった。藤森成吉君は、一高の寄宿舎で隣室であり、諏訪出身であるというので、私も諏訪に友人があるということから、いくらか話しあったこともあったのである。藤森君は帰省の際わざわざ訪問され、家のことで不自由があったら遠慮なくとまで言ってくれた。
藤森家から借りた温泉付きの家での安定した生活は、一高・帝大時代、そして卒業後の2年間、経済的に苦労してきた文明が、先輩歌人島木赤彦の尽力で諏訪高等女学校教頭の職につき、赴任前に長年交際していた同郷の女性と結婚して手に入れたものでした。
第一歌集『ふゆくさ』に、その家での生活や文明の心情を伺うことのできる短歌が23首収録されています。
湯ある家
湯ある家求めうつれり湯室ばたの楓まがりて衰へはやし
湯室漏れまきめぐる湯気に立ちそへる楓葉は朽ち散りそめにけり
山国の秋早みかも此の朝け立つ湯煙のあたたかにみゆ
煙たつ湯をまぜながら言ふ妻の声はこもらふ深き湯室に
掘り下げし湯室に居れば前の川を下る船あり石にふれつつ
雨の夜は物音もなし庭さきに二つともれるシグナル赤し
地盤よわき二階家に住みゆれ通る汽車にもなれてねむる夜かも
寒き国に移りて秋の早ければ温泉の幸をたのむ妻かも
田宿の家
国とほくここに来りて妻とわれ住む家求む川にのぞみて
温泉わけば借りてわが住む家の前をのろく流れて行く衣渡川
煙ぬりの板の木戸朽ちややかしぎ直ちに向ふ前の流に
収穫すみて隣の人がつなぐ船阿伽は溜りて岸につきたり
朝な朝なつなげる船に米洗ふ向うの人等いまだ馴れずも
湯の口に近く植ゑたる菁莪の葉の朝の凍りに寒さを計る
旅にして家借り住まふ小和田村隣もうとく冬にいりけり
夜おそく湯槽を払ふ放ち湯の落ちゆくかもよ地下に音して
降りし雪凍てて凝れば空きらひ低くくもりて寒き日つづく
寒き国の町の習はし夕はやく大戸下ろして静まりにけり
並ぶ町家大戸おろせば上諏訪のゆふべの道は凍りて寒し
土湯を汲む人等さむざむ並び居て高く立ちのぼる温泉のけむり
土湯そばの船処あまねく湯気は立ち田宿の家にわがかへるなり
わが家の湯尻は川に湯気立てて寒く流れてゐたりけるかも
かきあつめ楓がもとにつめる雪ややとくるらし湯の地温みに
(注)歌集『ふゆくさ』の短歌には、漢字すべてにルビが振られています。
藤森成吉は、昭和3年に行われた普通選挙制による初めての選挙に、労働農民党から立候補しました。そのとき、文明の校長時代に諏訪高等女学校を総代で卒業した伊藤千代子が選挙運動を支援しました。千代子はまもなく治安維持法違反で検挙され、転向を強要されて昭和4年に病死します。
昭和10年に文明が東京女子大学(千代子の母校)で講演したときに、伊藤千代子のことを思い出して詠んだ短歌6首が歌集『六月風』に収録されています。
某日某学園にて
語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
清き世をこひねがひつつひたすらなる処女等の中に今日はもの言ふ
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきておもはむ
高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき

土屋文明について、日本文学報国会に参加したり、陸軍省嘱託として中国を視察していることを捉え、戦時体制に協力したのに反省が足らないと指摘されたこともありますが、中国視察の短歌を収録した『韮菁集』を含め、文明がこの時期に詠んだ短歌を総合的に判断すれば、そのような指摘が誤りであることは明らかだと思います。
小さいころに覚え親しんだ上毛かるた。上毛新聞の特集でそれぞれの札について、知識が広がっていくのを楽しんでいます。
自己を犠牲にして民衆を救おうとした茂左衛門、社会運動に信念をもって取り組んだ藤森成吉、伊藤千代子、現実を短歌に表現することにすべてをかけた土屋文明がつながっていきました。