特別館長日記
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上州水沢寺
榛名山系の水沢山の東麓に、水沢寺があります。天台宗の寺院で、山号は五徳山、本尊は十一面千手観音、坂東十六番札所になっています。寺伝によれば、高句麗僧の恵灌が推古天皇の時代に開基したと伝えられています。
前橋と伊香保温泉を結ぶ県道15号は、水沢寺の近くに来ると、両側に水沢うどんの店が並んでいます。その突き当りに寺に上る石段があり、少し登ると仁王門があります。しかし、もっと高い場所に寺の広い駐車場があり、そこからも境内に入れるので、石段を登る人は少なく、私も仁王門をくぐったことはありません。
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水沢うどん店街
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山門石段
現在の本堂(観音堂)は天明7(1787)年の再建で、その側に六角二重塔が建てられています。
六角二重塔は、二階部分に大日如来が安置され、一階部分は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界を守る六体の地蔵が安置され、手で押して回転させて祈願するようにできています。
境内に樹齢約700年に達するといわれる杉の大木もあります。周辺には桜の木もたくさん植えられています。
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本堂と六角堂
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手水
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古代杉
土屋文明の歌集『少安集』には、「上州水沢寺」と題して以下の15首が掲載されています。
午後三時山のかげりの早くして檜原の道はこほりけるかも
土ほこり立てて下れるバスの後檜原の道のしづまる一時
国原のなかばまで陰の及ぶ見え山中の道夕ぐれにけり
氷しろき沢の日かげに道めぐり子供等はころぶ一人また一人
冬山に薪をきりて積む見れば昔の時のかへるごとしも
立ちかはり水沢部落栄ゆるは見るにこころよし古おもひて
新しき宿屋たちたり風呂をたく煙はなびく一村の上に
杉の下に寺あることの変らねば落ちたる水のとはに清しも
わが母と吾と来し日をかへりみるに四十五年になりやしぬらむ
現にし今のぼる石段の有様も細きことは多くわすれぬ
ここにして船尾の滝の白木綿の落ちざるまでに山はかれたり
子供等と六角堂の六地蔵肩あて並めてめぐらしあそぶ
二組の異人の夫婦いで来り地蔵をまはす吾等を真似て
紅の水木の枝を折りあそび夕べの道に子等と吾と居り
赤城嶺にのこる紫の夕映にいましめ合ひて氷の上をゆく
このときのことを、文明の長女である小市草子がその著書『かぐのひとつみ-父文明のこと』のなかで書いています。少し長くなりますが、短歌が詠まれた状況、文明の人柄や暮らしがよく分かるので引用させていただきます。
昭和十三年の正月休みに私たち兄妹四人をつれた一泊旅行も、父が目論んだものだった。あの時はまず上郊村に行き、父の伯母のぶを井出に尋ねた。父を幼時育ててくれた私たちの井出のおばあちゃんは、当時一人暮しをしていたが、親子の訪問に驚き喜び、早速青菜のたっぷり入った雑煮を囲炉裏にかけた鉄鍋で煮てくれた。餅は焼かないでそのまま鍋に入れて煮たのが珍しくおいしかったのが、木の大きなお玉杓子と共に忘れられないものだ。体がほかほかとあたたまった。そこから水沢寺に寄った頃はもう日がかげり始めていた。年内に降った雪が残って凍っていた。親子五人で六地蔵を廻して興じたり、水木の枝を掛け合わせて勝負をきめて遊んだりした。そんな時父はとても楽しそうで一所懸命だった。そうこうしているうちに日が暮れ、伊香保温泉に泊まったのだが、翌日の榛名湖畔は雪がもっと深かった。私たち兄妹四人が一列になって歩く後から、父が声をかけながら要心深くついてきた。湖畔で熱い甘酒をふきふき飲んだ。榛名富士が影をおとしている湖水に向かって休んでいた父の横顔が思い出される。
水沢寺は、高崎からは車で1時間くらいで行けるので、私も今までに何度も訪れていますが、今回は、文明の短歌にちなむ写真をスマホで撮りながらゆっくり歩いてみました。短歌が詠まれた時からは86年が経過していますが、当時をしのぶ情景はたくさん残っているように感じました。ただし、クマが怖いので船尾の滝までは行けませんでした。
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船尾の滝入口
千枚田の田植え
5月12日の新聞で、11日、石川県輪島市にある白米千枚田で田植えが始まったという記事を読みました。棚田全体の1割程度とのことですが、1月1日の能登半島地震で大きな被害を受けたにもかかわらず、農業復興への営みが始まったことをたいへんうれしく思うとともに、関係者の皆様のご苦労とご努力に心より敬意を表します。
すでに一度日記に書きましたが、白米千枚田には、昨年3月に土屋文明の短歌
一椀にも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも
の歌碑が建てられました。10月には、輪島市役所への挨拶を兼ねて歌碑を視察に行ってきたばかりなので、地震の発生と甚大な被害には大きな衝撃を受けました。言葉にするほど簡単なことではありませんが、能登の人々の昔からの粘り強さが発揮され、復興が進むことを願うしかありません。
土屋文明は、万葉集調査などのために、越中守を務めた大伴家持の足跡を追い、何度も能登を訪れています。
そして、自身も半農半商の小さな家の子として苦労を強いられてきたことから、文明は、白米千枚田の棚田を見て、厳しい自然と対峙しながら懸命に暮らしてきた能登の人々に強く心を動かされました。この文明の真意が能登の人々に伝わり、歌碑が建てられたのだと思います。
文明が生きていれば、今回の地震の発生に大きな衝撃を受けて、亡くられた方々を悼む短歌や被害を受けた方々を見舞う短歌をたくさん詠んだはずです。そして、この度、田植えが行われたことについても、その感動を後世に伝える短歌を詠んだにちがいありません。
しかし、残念ながらかなわないことなので、文明が能登を訪れて詠んだ短歌を少し抜き出してみました。
今朝の雨やみて賑ふ朝市は遠来し吾を迎ふとにあらし
歯を染めて立てるにあへば遠き来て吾が亡き母にあふがにも思ふ
豊かなりし年のみのりを言ふ媼に心なぎつつ吾等ゆきつも
時おきて来る光に海にせまる片側に重ねし如き田のあり
首筋のいたくなるまでバスに乗り何に恋ひつつ行きし二日ぞ
(以上、『少安集』羇旅五十三首より、昭和16年)
朝きらふ島の宿りをいで立ちて栗ひとつ拾ふ道芝のなか
(『山の間の霧』能登一宿より、昭和17年)
能登の海の莫告藻食ふもはげみにて日に読む万葉集巻十七
(以上、『青南集』能登のなのりそより、昭和30年)
大根の葉を青々となびかせて市に出づる車見ての朝だち
木の葉より小さき田を斜面に重ね並べ耕すあはれはいつの代よりぞ
時々の政治我知らず今は人は出挙に頼らず出稼ぎに依る
(以上、『続青南集』珠洲郡より、昭和40年)
川原湯温泉
土屋文明は、昭和26年に当時の川原湯温泉を訪れ、10首の短歌を詠んでいます。それらは、『アララギ』の同年9月号と10月号にそれぞれ5首ずつ発表され、歌集『自流泉』に収録されています。
天を限る青き菅尾に次々に朝のしら雲あそぶ如しも
谷に奥草原に黄なる朝日さし菅尾の雲はやうやく高し
暇あるごとくに浴むる朝夕に横ふす菅尾ただにゆたけし
浴みつつ青葉に眠る夜々を何にうながし止まぬ瀬音ぞ
此のあした雲を抱ける青谷や行かば一日の息ひあるべし
時過ぎし塩手に寄りて道を譲る露にぬれ峠下り来る母子に
雲の中に榛名山みゆ芋柄を帯にして越えきと亡き祖母語りき
食らふもの干し芋がらを携へて遠く浴みにし祖母をぞおもふ
燕の峠に見下ろす谷の道雲より遥かなりふるさとの方は
山越えて二度浴みしこの出湯一生楽しみ語りしものを
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<王湯>
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<王湯正面>
文明は、東京南青山の自宅が空襲で焼けたために、戦後も長い間疎開していた吾妻町川戸から川原湯温泉を訪れました。短歌からは、苦労が絶えなかった祖母がこの温泉を好んだことを思い出しながら、周囲の自然に親しみ、温泉を楽しむ文明の姿や心を読み取ることができます。
昭和27年の調査開始からさまざまな経緯を経て八ッ場ダムがつくられ、令和2年から運用が開始されたことにより、かつての川原湯温泉はダム湖の底に沈みました。しかし、それに伴い、鉄道や温泉施設の移転整備が進められ、共同浴場の「王湯」もダム湖を臨む丘の上に移転されました。そこには、温泉発見者とされる源頼朝にちなんで、その家紋が掲げられています。また、伝統の湯かけまつりも毎年1月に行われています。さらに、玄関脇には、松尾芭蕉「山路来て何やら床し菫草」の句碑も移転されていますが、芭蕉が川原湯温泉を訪れたという確固たる記録はないようです。
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<川原湯温泉駅>
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<芭蕉句碑>
高崎市街からは、小栗上野介が没した倉渕を貫ければ1時間前後で行けるし、平日は貸し切りになるくらい空いているので、私も雪のない季節にはしばしば日帰りで通っています。
昔とは大きく様変わりしていると思いますが、周囲を取り囲む山々を眺めながら、かすかな硫黄臭を伴う無色透明で柔らかい源泉かけ流しの湯につかっていると、文明の短歌の気分が改めて感じられ、日々の疲れが癒されるような気がします。
川原湯温泉は、すばらしい温泉なので、たくさんの人に訪れていただきたいと思う反面、わがままなことに、自分が行くときには空いていることを願っています。
角館田沢湖
<田沢湖>
<御座石>
<御座の石の杉>
世の中にあやしく深き遠底の瑠璃の水底に姫は沈めり 左千夫
うつせみは願いを持てばあわれなりけり田沢の湖に伝説ひとつ 茂吉
たつこ像が建てられたのは、昭和43年だが、田沢湖のたつこ伝説は有名で、角館出身の平福百穂に促されて田沢湖を訪れた伊藤左千夫や斎藤茂吉も伝説に因んだ短歌を詠んでいる。
地元の人々に敬愛された親子2代の画伯で、アララギ派の歌人でもあった百穂の歌碑も田沢湖畔にある。
いにしえゆ國をさかひす嶺のうえ岩手秋田の国を界す 百穂
百穂は、さまざまな面で角館の発展に尽力したが、特に角館中学校(現角館高等学校)設立の中心的役割を果たした。角館中学校は武家屋敷通りの北端に建てれたが、現在は東側の丘陵上に移転している。
当時の中学校跡地には、現在、平福百穂の歌碑、秋田県立角館高等学校跡の碑、島木赤彦の原稿を斎藤茂吉が補筆した角館中学校校歌原稿の碑が立っている。
特に、百穂の歌碑は、昭和14年、昭和8年に55歳で亡くなった百穂の7回忌に建てられたもので、2つの短歌と百穂の半身像が刻まれている。その壮麗さを見ると、百穂が角館の人々から深く敬愛されていたことがよくわかる。
さらに、昭和63年には、その場所に角館町平福記念美術館が建てられ、百穂とその父である穂庵の絵が展示されている。
<角館武家屋敷の通り>
<角館町平福記念美術館>
<百穂の歌碑>
<同半身像>
<秋田県立角館高等学校跡の碑>
<角館中学校校歌原稿の碑>
<百穂の墓(学法寺)>
画伯として認められて、経済的に恵まれ、有力者との交際も広かった百穂は、アララギの歌人たちを支援したが、土屋文明もさまざまな支援を受けた。経済的に苦しかった学生時代、文明のアルバイトをさまざまな形で支援した。東京帝国大学卒業後、新聞記者になることを希望していた文明に国民新聞の有力者を紹介してくれた。しかし、文明は採用されなかった。長野県諏訪高等女学校に教頭として赴任する文明に、女学校であることから、結婚を強く勧め、文明はそれに従った。教育者としての信念を貫き、松本高等女学校から木曽中学校への転任を拒否して辞職した文明に、角館中学校の校長職を紹介した。文明はそれを受けなかったが、百穂の配慮に感激したにちがいない。
<生徒登校口の碑>
現在の角館高等学校の生徒の登校口に、「中学は角館に設立されればそれでよいとは思はぬ。それは尠なくも将来東北で尤も優良な中学にしなくてはならぬ」という百穂のことばの碑が建てられている。
このことばを読むと、百穂は、職を失った文明にたんに同情していたわけではなく、文明を評価し、学校の未来を託そうとしていたことがわかる。
百穂が昭和8年に亡くなると、すでにアララギの編集発行人になっていた文明は、各界有力者の追悼文を掲載するとともに、自らも「平福畫伯のこと」と題して追悼文を掲載し、昭和9年4月にアララギの平福百穂追悼号を発刊した。
左千夫も百穂も茂吉もすでにこの世を去ってかなりの時が過ぎた昭和39年9月、東北地方を旅した土屋文明は、この地を訪れ、「角館田沢湖」という題で23首の短歌を詠んでいる。
花植ゑし駅の多きを見つつゆく中に目に立つダチュラアルバか
山形よりいづくにて秋田に入りにしや稲のみのりは分ちなく見ゆ
耕す時すぎて稔りに働けど機械ありて馬を見ることのなし
韮の畝実をつけし見るしばしばにて角館に降り立ちにけり
この町の出身学生ありたりき平福百穂の名を知らざりき
教ふる人なき墓どころ尋ぬべく町の役場の白き中に入る
代々のみ墓かく保たれて故郷を思ひ給ひし心もしるし
大村藩士の為に立てたる墓のことも聞きたりき今日は見る
二度の火に焼けたりといふ石立てて二穂誕生の地をあらはす
木は高くなりて家居の立ちかはる静かなる出生の跡を保てり
力尽し此の町に成りし中学校職失ひし我を誘ひ給ひき
石に彫りしみ姿秋の日の中に草には低き風露草の花
湖の道ゆきすぎむとして足とどむ木下暗む時み歌ゑりし石
水ぎはまで田作り稲の熟れし色今日は波なしといふ水海に
過ぎし人々いかにか山の湖に上り来し別して明治四十二年左千夫先生
水海のかなたの岸の村も見ゆ黄にみのりたる親しさもちて
新しき水路のために水の色昔にかはりゆくといふものを
湖に近づく時によぎりたる一つ曲屋のくらし思ほゆ
杉の老木君の描きし形に見ゆ長かりしかな此の湖を我の思ひて
波の寄る御座の石に立ち夕日させば我が老妻も処女さび見ゆ
駒ヶ岳に雲凝り離れまた寄り来る朝のしばしは心しづまる
ぶなの梢の早きもみぢをあはれみて我が立つ前を霧は早しも
高きより朝の湖見て別る霧のたなびき人になつかし
12月4日と5日の両日、文明の短歌を参考にしながら、田沢湖と角館を旅した。雪がたくさん積もっていることに驚いたが、天候には恵まれ、文明の心境に思いをはせながらのんびり巡ることができた。町の至るところに枝垂れ桜の木が植えられ、春の爛漫が目に浮かんだ。桜の満開は4月下旬とのこと。
<枝垂れ桜>
白米千枚田
<白米千枚田>
<文明歌碑>
10月20日、長谷川誠主幹とともに、石川県輪島市の白米千枚田を訪ねました。そこは、世界農業遺産、日本の棚田百選、国指定文化財名勝に指定されています。今年千枚田を望む道の駅千枚田ポケットパークに、土屋文明の歌碑が建てられ、3月27日に除幕式が行われました。
一椀にも足らぬばかりの田を並べ継ぎて来にける国を思ふも
海に面した斜面に並ぶ棚田を目の当たりにし、苦労しても少ない米しか取れないであろう狭い田んぼをいくつも並べ耕し続けてきた能登の人々の生活に強く心を動かされた文明が詠んだ歌です。
この歌には、人々の生活や社会のあり方を見つめて歌を詠む文明の特徴がよく出ています。詠まれたのは、昭和15年12月ですが、戦後主張された「第二芸術論」に対抗するものをすでに備えていたことが分かります。
歌碑の建立にあたっては、一昨年、輪島市産業部長兼観光課長の永井一成氏、能登半島広域観光協会相談役の藤平朝雄氏に、土屋文明記念文学館までお越しいただきました。
お二人のお話をお伺いし、文明の歌が地元の人々にも深い感銘を与えていることが分かり、改めて歌人文明の大きさを認識しました。
生前土屋文明は歌碑の建立をあまり好まなかったので、ご遺族の了解が得られるか心配していましたが、了解が得られたことをうれしく思いました。
前日、福井ふるさと文学館を訪ねた後、金沢を通りすぎ和倉温泉で一泊して、翌日レンタカーで白米町へ行きましたが、能登半島の奥深さがよく分かりました。文明は万葉集調査のために訪れたようですが、当時の交通事情を考えると、その熱意がよく分かります。
当日は雷雨模様で、雨と風が強くなったり、弱くなったりする状況でした。弱まったときに車から出て、歌碑と千枚田の写真を撮りましたが、途中で風と雨が強まったりしたので、ずぶぬれになりながら、何度か繰り返し、何枚かの写真を写すことができました。
能登の自然の厳しさを私たちも味わっているようで、いやな気持ばかりではありませんでした。
馬湯を訪ねて
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<ホテル「蓼科親湯温泉」>
先日、長野県の蓼科高原にある親湯温泉に行ってきました。大正9年、当時諏訪高等女学校の校長であった土屋文明は、ここを訪れ、歌を詠んでいます。
茅野市街から「ビーナスライン」を上がっていくと、蓼科湖、さらに上っていくと、滝ノ湯温泉の入り口、その先に親湯温泉の入り口があります。
私は、群馬から出かけたので、上信越自動車道を佐久インターで下り、ナビの言うとおりによく分からない道を進み、長門牧場で温かい牛乳を飲んで、女神湖の横を通り、白樺湖に出る直前で寂しい脇道に入り、心配しながらしばらく進むと、ビーナスラインに合流することができました。道を下り、チェックインには早すぎたので、いったん通り越して蓼科湖の周囲を散策してから、親湯温泉に行きました。
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<蓼科湖>
そもそも、親湯温泉は、滝ノ湯温泉に対して、新しく見つかった温泉ということで、「新湯」と呼ばれたそうです。土屋文明の第一歌集『ふゆくさ』に「新湯」という題で8首の歌が載っています。前半6首で「馬湯」につかる馬の様子を詠み、後半2首で温泉宿に寛ぐ自分たちの様子を詠んでいます。
新湯
馬の湯に居る馬七つ日照雨に背のかけむしろみなぬれてあり
首筋を流るる雨におどろきてからだ動かす馬いとけなし
馬の湯につづく湯の池およぎつつ馬に近づけば馬くさきかも
馬の腹にひたひたとつく湯の湛へ底の石みな青光りせり
岩の上の青葉をあふる霧早し湯をいでし馬は振ひいななく
馬の湯に今朝ゐる馬は一つなり湯の中に楽楽尾をふり遊ぶ
霧ふれば暗き部屋ぬち三人居て言葉まれなりうときにはあらず
一日居て話はたえぬ窓にむき逸也は本をよみはじめたり
文明は、東京帝大を卒業しても2年間定職に就くことができず、大正7年にようやく先輩歌人島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校教頭の職に就くことができました。しかも、赴任の直前には長い間付き合っていた同郷の女性と結婚しました。三村安治校長のもとで2年間存分に手腕を発揮した文明は、長野県主席視学に転任する三村の推薦で大正9年1月に校長に就任し、大正11年に松本高等女学校に転任するまで、教育者、歌人として充実した日々を過ごしました。文明の100年の生涯で最も安定した時期だったのではないかと思います。文明は、温泉につかり、のんびりした馬の姿を詠んでいますが、自身ものんびりしていたのでしょう。
そもそも親湯温泉は、伊藤左千夫が好んで訪れ、裏山には2つの歌碑があり、アララギの歌人たちもたくさん訪れました。文明がここを訪れたのも、文学・人生の師である左千夫を強く慕う気持ちがあってのことと思います。
ホテル「蓼科親湯温泉」は、大正15年の創業で、勢いよく流れ落ちる谷川の左岸に建てられています。文明が訪れた当時は、地域の人々の湯治宿が現在のホテルと川をはさんで反対側にあったそうです。さらに、現在のホテルは、2019年4月に全面リニューアルしたそうですが、長い歴史と文化を守りながらも新しいきめ細かい工夫が加わり、快適な空間がつくられています。ラウンジ、廊下、客室など、至る所に興味深い書籍や絵画、軸、色紙などが配され、ながめていると時間の過ぎるのを忘れてしまいます。蔵書は、ラウンジだけで3万冊だそうです。私の泊まった部屋には斎藤茂吉の全集4冊が置かれていました。
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<ロビーの書籍>
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<ギャラリー>
また、「アララギ」「伊藤左千夫」「島木赤彦」「斎藤茂吉」等の名がつけられた10室のスイートルームがあり、「土屋文明」のスイートルームもありました。チェックアウトの時間後に見せていただくと、文明の部屋の壁には、文明の肖像画と、「歌ふものもなく老いたるむろの樹よ千年を重ねて大瀬の崎に」(『続々青南集』所収)の色紙と、「くもり夜の月あるごとくおもほゆれしらじらとして川遠くゆく」(『山谷集』所収)の短冊が飾られていました。次回訪れることがあれば、ぜひこの部屋に泊まりたいと思いました。
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<文明肖像画>
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<文明短冊>
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<文明色紙>
温泉は、無色透明で熱くもなくぬるくもなく、長時間入っていられました。文明先生も馬もさぞかし気持ち良かったことと思います。文明先生には申し訳ないのですが、夕朝の食事もたいへん豪華で満足しました。
さて、肝心の馬湯ですが、現在は存在しません。その痕跡もありません。ホテルの方に教えていただき、唯一、文明が「馬の湯につづく湯の池およぎつつ」と詠んだ場所で、後に温泉プールがつくられオリンピック選手も練習した場所の名残として、今もたくさんの注ぎ口から湯が絶えず沸き出ている場所が駐車場の脇にありました。
いずれにしても、文明先生が歌に詠んでくれたお陰で、思い出に残る秋の旅をすることができました。
信州山田温泉
昨日(6月1日)将棋の名人戦第5局2日目が行われ、藤井聡太六冠が勝って新名人が誕生しました。
対局が行われたのは、長野県上高井郡高山村山田温泉の緑霞山宿藤井荘です。
偶然ですが、1ヶ月ほど前の5月11日、文明の足跡をたずねて山田温泉に行ってきたところです。
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〈藤井荘〉
群馬県からみると、山田温泉は、位置的に県境の山を挟んで、草津や万座の反対側になります。往きは、高い山道を越える自信がないので、遠回りの上に高速道路代金もかかるのですが、上信越自動車を利用し、須坂市から訪ねました。帰りは、天候も良かったので、上田市から鳥居峠を越え、嬬恋村を通って帰ってきました。
昭和2年5月1日、文明は、万葉集の講演で長野県を訪れた際に山田温泉を訪れました。
『山谷集』に「信州山田温泉」と題して、次の9首が収められています。
斑尾の嶺につく雲の雪につく夕かぎろひを上り来にけり
足引の山桜花ほのぼのと硫黄にごれる沢はふかしも
硫黄にごりてたぎち流るる沢みればみどりかなしく柳萌え居り
とどろける硫黄の川に細谷の真清水川が落ち入りにつつ
なだれ雪土を被れるあたりには蕗の薹一尺ばかり伸び立ちにけり
こゑ上げて酔ひたる人ら浴み居り其が家妻を言にいひつつ
真日くれて大湯に集ふにぎはひや塩魚焙る香の寂しけれ
雪のこる山のかなたの七味湯を心に思へど行きがたきかな
忙しく一夜やどりて足引の山沢羊歯も食ひにけるかも
文明が宿泊した風景館も、歌に詠まれた大湯も、訪れた当時の建物ではないようですが、山の豊かな緑に囲まれ、底の見えない深い渓谷に臨む温泉全体の雰囲気から、当時を忍ぶことができました。
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〈風景館〉
山田温泉には、文明のほか、松尾芭蕉、小林一茶、森鷗外、与謝野晶子、会津八一など、多くの文人墨客が訪れています。
名人戦の行われた藤井荘には、明治23年鷗外が滞在しています。
また、温泉のいたるところに句碑や歌碑がありました。
大湯のかたわらには、「春風に猿もおや子の湯治哉」という、まさに一茶らしい句碑もありました。
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〈小林一茶の句碑〉
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〈大湯〉
風景館のすでに引退された女将さんのお話では、文明の歌碑を建てようという動きもあったそうですが、君は頭はいいけど、字は下手だと言われたことがトラウマになっていたのか、文明自身が歌碑に自分の字を遺すことを好まなかったこともあり、実現しなかったようです。
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〈松川渓谷に落ちる八滝〉
信州松原湖
長野県佐久郡小海町に松原湖という湖があります。最もその名は、周辺で最も大きい猪名湖を指す場合もあれば、猪名湖、長湖、大月湖などその周辺に点在する複数の湖の総称として使われることもあるようです。
文明は昭和のはじめに2回ここを訪れ、それぞれ短歌を詠んでいます。
最初は、昭和4年5月18日に訪れています。翌日は、南佐久郡中込小学校で開かれた万葉集の会で講義をしています。歌集『往還集』に「信濃松原湖」の題を付した6首が掲載されています。
夜行車に来りし吾は山水の激に下りて歯みがきつかふ
今朝の汽車弁当を残し来て食ひ居るからだの疲労を思ふ
春すぎてゆくと云ふことも思はざりき桜のこれるに今日は遇ひける
うちかすむ村はまひるの蛙のこゑ畳のうへに覚めてまた眠る
湖のへの家に眠をむさぼりてわか芽立つ谷を見にゆかむとす
あさつきはすでに黄ばめる草はらに散れる桜の花をながめつ
もう1回は、昭和11年5月8日に訪れているようです。翌日は、上田別所で開かれた 歌会に出席しています。歌集『六月風』に「信州松原湖」の題を付した4首が掲載されています。
汗をながし吾はのぼりゆく長湖のやさしき水を再びみむとして
新はりの道に並びて落ち来る春の水あらし鳴りつつぞ来る
春日てる荒野の道をのぼり来て猪名の湖しづもりにけり
ふくらみし桜に降りつぐ雨寒し夕食すめば鞄をひらく
これらの短歌を詠むと、文明がこの地をたいへん愛していたことが分かり、かねてから一度行ってみたいと思っていました。文明が訪れたのは5月ですが、最近は春の訪れが早く、土屋文明記念文学館の周辺ではすでに桜の花もすっかり散ってしまったので、その名残惜しさもあり、4月17日(月)に松原湖に出かけました。
関越自動車道(80キロ制限)、中部横断自動車道(70キロ制限、無料)を利用し、高崎を出て2時間弱で松原湖に着きました。天候にも恵まれ、途中の道は高低差があるので、満開の桜を含め、さまざまな春の姿を見ることができ、快適な旅になりました。
猪名湖は、全体的にはひっそりしていました。湖畔に大きな桜の木があり、花が満開で、ハイキングの人たちが弁当を食べていました。文明もこの桜を見たのかと思うと、いっそう美しく見えました。
県道沿いの長湖は、最初平凡に見えましたが、細い道を少し上って行くと、静かな湖を小山が囲み、さらにその上に、雪を残した八ヶ岳に陽が差す、まさに絵のような光景が広がっていました。
<猪名湖畔の桜>
<猪名湖全景>
<長湖と八ヶ岳>
文明が訪れたのはすでに90年以上前のことなので、当時のことは分からないだろうと思いながらも、松原湖観光案内所で昭和初年には存在した宮本屋と蔦屋(現在はペンションアルコニ)を教えてもらいました。
いずれに文明が泊まったかは分かりませんでした。しかし、松原湖が関東、甲斐と善光寺を結ぶ、古くから開けた街道の脇にあること、文明が最初に松原湖を訪れた前年の昭和3年に斎藤茂吉が蔦屋に泊まった記録が残っていること、アララギの歌人は蔦屋を利用することが多かったこと、宮本屋にも若山牧水などの文人が泊まったことなどを教えてもらいました。
昭和4年10月24日、ニューヨーク株式取引所で株価が大暴落し、世界大恐慌が始まりました。昭和11年2月26日、陸軍青年将校らによるクーデターが勃発しました。
文明が松原湖を訪れたのは、陸軍をはじめとする誤った指導者のために日本がファシズム化し、太平洋戦争へと進んでいく時代でした。文明は、権力との激しい衝突を避けながらも権力に迎合することなく、良心と良識をもって対応する人生を送っていました。
松原湖から県道を上ったところにある温泉施設「八峰の湯」で露天風呂に入り、見慣れた群馬の山よりも天空に近い八ヶ岳をながめながら、昭和初期の文明のことをぼんやり想っていると、帰路に着かなければならない時間になりました。
虎見崎
群馬県で暮らしていると、時々海が見たくなります。12月12日、前日からの雨模様でしたが、午後には上がるという天気予報なので、千葉県の太東崎に出かけました。
そこは、九十九里浜の南端に当たり、「虎見崎」として、土屋文明が深く愛し、歌に詠んだ土地です。
そもそも、九十九里浜は、文明の恩師伊藤左千夫の故郷で、左千夫はその壮大な景色を見事に詠んだ歌をたくさん遺しました。
天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り 左千夫
九十九里の波の遠鳴り日のひかり青葉の村を一人来にけり 左千夫
文明の著した『伊藤左千夫』を読めばよく分かりますが、左千夫は、文明にとって、文学の師、人生の師であるとともに、その欠点をも承知して愛しく思う存在でした。
なき後の二三年ならむみ墓にもよりつかざりし吾をぞ思ふ (『少安集』)
明治42年に出会ってわずか5年足らずで急逝した伊藤左千夫への思いを抱いて、文明は、左千夫ゆかりの九十九里浜が見渡せる「虎見崎」を訪れていました。
秋草の草山岬に吾立ちてあはれはるかなり九十九里のはては (『山谷集』)
国の上に光はひくく億劫に湧き来る波のつひにくらしも (『少安集』)
この海を左千夫先生よみたまひ一生まねびて到りがたしも (『少安集』)
六十年思ふ九十九里に先生にうつつに従ふことなかりけり (『続々青南集』)
草木が無造作に茂る岬、はるかにかすむ九十九里浜、雄大に広がる太平洋。
それらを見ていると、素朴で広い心をもった左千夫をしのび、ともにこの景色を眺めることができなかったことを悔やむ文明の姿が浮かんできました。
〈左千夫が愛した九十九里浜〉
〈草木の茂る太東崎(灯台は昭和25年設置)〉
〈太東崎の前に広がる太平洋(手前は雀島(「夫婦岩」))〉
〈「虎見」ゆかりの「東浪見」の地名〉
祖父・土屋文明の思い出
土屋文明の孫であり、著作権者でもある、土屋安見氏に「祖父・土屋文明の思い出」という演題でご講演いただけることになりました。
土屋文明記念文学館では、令和5年1月21日から3月21日まで第118回企画展「文学者の愛用品-7Bの短くなるを愛しつつ使ふ-」を開催します。その記念講演として2月26日にご講演いただきます。
今年生れ安見はいまだ零歳なりああああ小さきかな (「青南集」)
京都人は踏切に警報機思はぬか幼きが通はむ学校の道 (「続々青南集」)
三世四人一日の行きの形見にて沙に生ひ続ぐ岩清水山藍 (「青南後集」)
安見さんは、文明の長男である故夏実氏の長女として生まれ、幼稚園の最後の年から小学校4年の秋まで5年間、東京南青山の家で文明と一緒に暮らしました。その後、夏実氏の仕事の関係で、京都に移りますが、文明は歌会が開かれる折などに京都の家を訪れていました。
安見さんが「アララギ」平成3年10月号(土屋文明追悼号)に寄稿された「思ひ出の断片の中から」を読ませていただくと、安見さんが祖父文明に親しく接し、さまざまなことを感じ、受け継いでいらっしゃることがよく分かります。
特に印象に残った部分を紹介させていただきます。
祖父は生活に関わるもの全て-庭に咲く小さな花から、政治経済に至るまで-に深い関心を持つてゐたが、「食べる」ことに対してもさうだつた。
祖父の話は、時に戦時中に歩いた、中国で見かけた風景であり、時に万葉集の足跡を訪ね歩いた旅であり、街の話、食の話、人の話、植物の話と、つきることがなかつた。
私は食卓での祖父の話のあれこれから、自分が居る場所の外に、もつとさまざまな世界があることを知つていつたのだと、今思ふ。
父の葬儀の時もそのあとも、祖父は私達の前で一度も涙を見せなかつた。ただ黙つて耐へてゐた。
桃山城が落城した時のことを話してくれた。(中略)
「さうして、みんな死んじまつた」何とも言ひやうのない響きをたたへた祖父の声に、驚いて見ると、祖父の目が赤く潤んでゐる。祖父は、父や祖母のことを、「悲しい」「口惜しい」などといふ言葉はもちろん、思ひ出話などもめつたに口にしなかつた。むしろ、口にすることを頑強に拒んでゐるふうですらあつた。
私は、この文章を読ませていただいて以来、ぜひいつか、安見さんに、当文学館で文明について語っていただきたいと考えてきましたが、このたび実現することをたいへんうれしく思います。そして、何よりも快くお引き受けいただいた安見さんに心より感謝申し上げます。
〈文明と安見さん〉