特別館長日記
令和3年2月14日(日)
青々とゆたかなる上毛(かみつけ)をめぐる山遠くかすめり雪残る山も(『続青南集』昭和39年)
いろいろなことがあってしばらく日記を休んでしまいました。
その間に春の訪れが実感できるようになりました。八幡塚古墳の頂上からながめると、文学館の向こうに見える榛名山は霞がかかり、穏やかな春らしい色をしています。
年により咲く木咲かぬ木遅早の梅は歌ふと植ゑしにはあらず(『続々青南集』昭和44年)
文学館の南の「方竹の庭」(東京南青山の土屋家旧宅から移植した庭)は、最近植木屋さんに手入れをしてもらったので、かなりすっきりしました。
梅の木が何本か植えられていますが、いずれも遅咲きらしく、まだほとんど花をつけていません。それでもよく見ると一輪咲いていました。
年々に衰へしるき方竹のやや持ち直す去年より今年(『青南後集』昭和50年)
文明先生が愛した、茎が四角いシホウチクは、若緑の葉をたくさんつけて元気な姿を見せています。
まだ決して予断は許されませんが、新型コロナウイルスの状況も明るい兆しが若干見えているような気がします。憂いなく春を楽しめるようになることを心より願っています。
令和2年12月21日(月)
この三朝(みあさ)あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず(『ふゆくさ』)
10月10日から開催してきた土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」が、昨日12月20日閉幕しました。
新型コロナウイルス感染症で行動が制限されるなかにもかかわらず、大勢の皆様にご観覧いただきました。たいへんありがとうございました。
笹公人先生、永田和宏先生には、当館の歴史に残るすばらしい記念講演をしていただきました。
「現代歌人27人が選ぶ土屋文明短歌」は、文明の短歌がいかに多彩で卓越したものであるかをあらためて理解するきっかけとなりました。
「アララギ六歌人六曲半双屏風」(諏訪湖博物館・赤彦記念館蔵)、「『金剛山五十首』折帖」(雁部貞夫氏蔵)は記念展に華を添える資料でした。
土屋家をはじめ文明先生とご縁のある皆様にもご来館いただき、貴重な出会いに恵まれました。
今回の記念展にご支援ご協力をいただきました大勢の皆様に心より感謝申し上げます。たいへんありがとうございました。
土屋文明記念文学館は、都道府県立では全国で唯一の個人名を冠した文学館です。太平洋戦争敗戦後の混乱期、「第二芸術論」をはじめ短歌を軽視する動きが展開されるなかで、1400年に及ぶ「和歌・短歌」の伝統を守る上で土屋文明が果たした役割はそれに十分値するものと考えています。
群馬テレビでコメンテーターの熊倉浩靖氏がおっしゃっていたように、「土屋文明の業績は千年を超えて語り継がれていく」のだろうと思います。そして、そのために尽力することが当館に課せられた使命と考えています。
令和2年12月14日(月)
祖母は朝々みぎりの草を引く佐々子来たり歩まむがため(『自流泉』)
汝が父も汝が母も祖父を手伝ひて佐々子は独遊ぶにやあらむ( 〃 )
先週の土屋安見さんご夫妻、高野明さんご夫妻のご来館に引き続きまして、12月13日(日)は、土屋文明先生のご長女である故小市草子さんのご長女平田佐佐子さんご一家にお越しいただき、土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」や常設展示をご覧いただきました。
佐佐子さんからは生前の文明先生を偲ぶお話をお伺いしました。
移築した書斎にある机をご覧になって、文明先生が一番下の引き出しから氷砂糖を取り出して口に入れてくれたのがおいしかったというお話。
特別展示の「金剛山五十首」(雁部貞夫氏蔵)をご覧になって、文明先生が書をお書きになるときは自分の母などまわりの者が墨を摺って差し上げていたというお話。
実が色づいた橙の木をご覧になって、この木が青山南町にあった頃は、軒に届くか届かないくらいで、今の半分くらいの高さだったというお話、などです。
文明先生の第8歌集『自流泉』には、「佐々子を思ふ」という詞書きの付された短歌5首が掲載されています。文明先生ご夫妻が、孫の佐佐子さんをかわいがっていたことが伺われます。
なお、佐佐子さんからは、お母様である故小市草子様のご著書『かぐのひとつみ-父文明のこと』をたくさんご寄贈していただきましたので、大切に活用させていただきたいと考えております。
また、本日は、長野県松本市にある梅月菓子舗の馬瀬由利子さんご夫妻にもご来館いただきました。馬瀬さんには、私が文明先生の松本高等女学校校長時代のことを現地調査したとき以来お世話になっています。
両ご家族にご来館いただき、「若き日の土屋文明」をご観覧いただけたことは、私どもにとってたいへん大きな励みとなりました。
令和2年12月9日(水)
京都人は踏切に警報機思はぬか幼きが通はむ学校の道(『続々青南集』) 北京の天気ラジオは伝ふ幼き等沙塵(しやぢん)あらしの窓に寄るらむ(『続青南集』)
12月6日(日)、土屋文明先生のご親族、長男故夏実さんのご長女土屋安見さんご夫妻、次女故高野うめ子さんのご長男高野明さんご夫妻が当館にお越しになり、土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」や常設展示をご覧になりました。
東京南青山の旧土屋邸から移築した書斎のテーブルの上に置かれたカステラをご覧になり、「祖父はカステラを好んでよく食べていた」、その窓から見える「方竹の庭」の木々をご覧になり、「祖父は植木や草花をたいへん愛し、小まめに手を入れていた」とお話になっていました。
そして、当館が文明先生のご功績を大切に顕彰していることに対して丁重な謝意を述べられるとともに、遺された資料の寄贈等、ご親族としてのご協力を惜しまないとおっしゃってくださいました。
私からは、「今後も当館を実家と思って訪ねていただきたい」と申し上げました。
「京都人は」の短歌は、文明先生が京都の夏実さん宅に滞在したときに、通学路に警報機のない踏切があるのを見て、孫の安見さんのことを心配し詠んだ短歌です。
「北京の」の短歌は、夫の仕事の関係でうめ子さん一家が北京に滞在したときに、孫の明さん、たまきさんのことを思って詠んだ短歌です。
お孫さんにとって、文明先生は、書きものをしているとき以外は、たいへんやさしいおじいさんだったそうです。
令和2年12月9日(水)
子持山若葉のときに我は來て草をぞあつむ手に餘るまで(歌碑による)
国道17号線で、渋川を越え沼田へ向かう途上にある「伊熊北」信号を子持山山頂方面へ左折してすぐの道路脇に文明の歌碑があります。
昭和54年12月に「農免農道開通記念」として建立されました。建立は文明に事後承諾だったようです。
文明の歌碑は群馬県内には4つしかありません。建立のいきさつはありますが、今となっては大切にしていく方がよいと私自身は考えています。
歌集『自流泉』では、〈子持山若葉の時に吾は来て山草を採む手に余るまで〉となっています。
他の3つの歌碑は以下のとおりです。
○土屋文明記念文学館前の庭 青き上に榛名を永久の幻に出でて帰らぬ我のみにあらじ
○長楽寺境内(太田市尾島町) 夕暮るるみ寺に来たり浄土絵の青き山々灯してみつ
○割烹中居屋庭(嬬恋村) 朝日さす家に目ざめぬ世に先んじ中居屋重兵衛生まれしその家
令和2年11月30日(月)
気短きわれをたしなめしかられし尊き人は死なせ給ひぬ(『ふゆくさ』)
11月30日は、土屋文明の恩師村上成之の命日です。
恩師の死を悼む文明の短歌が第一歌集『ふゆくさ』(歌数380首)の最後に収録されています。「十一月三十日村上先生逝く即参りて死顔を拝す」という詞書があります。
明治40年、文明が旧制高崎中学校(現高崎高等学校)4年のとき、村上は、千葉県の成東中学校から国語の教員として着任しました。
成東は、伊藤左千夫の故郷で、村上は、左千夫と親交があり、『アカネ』に短歌、『ホトトギス』に俳句を出詠していました。
文明は、挨拶の仕方で村上に注意され反発したこともありましたが、やがて村上を文学の師と仰ぎ、指導を受けるようになりました。
明治42年、高崎中学校を卒業した文明は、村上の仲介で、搾乳業を営みながら文学者として活躍していた左千夫のもとに上京し、牧夫をしながら文学の道を歩みはじめました。
そして、左千夫は、文明の豊かな資質をすばやく見抜き、文学者として大成させるために、寺田憲をはじめとする学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校に進学させます。
大正7年3月、諏訪高等女学校教頭としての赴任を前に、文明は塚越テル子と結婚しますが、村上が媒酌の労を取りました。
大正13年、文明は、松本高等女学校長から木曽中学校長への転任を拒否して長野県の教職を退職し、大学で講師をしながら、文学者として活動します。その年の11月30日に、村上成之は、故郷の名古屋で亡くなりました。
村上のもとにかけつけ、万感の悲しみを込めて詠んだのが冒頭の短歌です。
「たしなめ」「しかられし」とことばを重ねていることで、文明と村上の親交の深さが表現されています。「気短きわれ」は文明の短所でした。村上は、その短所を見抜き、親身になって繰り返し指導してくれたのだと思います。
「死なせ給ひぬ」は素朴な表現ですが、ことばを飾らないことで、恩師の死に戸惑う姿や深い悲しみが的確に表現されています。
私も高崎高等学校で11年間国語の教員として勤めましたが、生徒を感化する力量において、村上先生に遠く及ばなかったことを残念に思っています。
令和2年11月25日(水)
朝日さす家に目ざめぬ世に先んじ中居屋重兵衛生れしその家(中居屋の歌碑より)
11月23日、文明の歌碑のある嬬恋村三原の中居屋を訪ねました。晴天に恵まれましたが、気温は9度くらいで少し寒く感じました。現在の中居屋は、七代目の黒岩幸一さんが割烹を営んでいます。お昼時でお客さんがたくさんいました。私もそばとミニ天ぷら丼のセットを美味しくいただきました。
中居屋は、ペリー来航にともなって横浜が開港された時に、いちはやくそこに店を構え、当時の日本の主力産業である生糸の取引に従事した中居屋重兵衛の生家です。生糸関係の輸出の半分以上を重兵衛の店が占めていたとも言われ、重兵衛は日本の近代化に大きな役割を果たしました。今年は、重兵衛の生誕200年にあたり、嬬恋村の郷土資料館で記念特別企画展が開催されました。
文明は、鳥居峠を越えて長野県の上田に行くときなどに、しばしば旅館を営んでいた中居屋に宿泊しました。文明が宿泊した旅館は、慶応年間に建てられたもので、割烹よりも一段高いところに現在も保存されていました。
旅館の前の植え込みの中に、中居屋重兵衛を讃えた文明の歌碑が建てられています。
『山下水』によれば、文明がこの歌を詠んだのは、昭和20年7月29日。建立は、昭和58年5月と歌碑に記されています。群馬県内の文明歌碑では最も早いものです。
お昼時の忙しいときにもかかわらず、ご主人の黒岩さんが丁寧にいろいろと案内してくれました。黒岩さんは、土屋文明記念文学館に色紙や短冊を寄贈され、初代伊藤信吉館長が贈呈した感謝状も割烹のギャラリーに飾ってありました。
穂にいづるくま笹に日はてりてほととぎすひとつすぐそこにきこゆ(中居屋所蔵の折帖より)
文明自筆の上記短歌が記された折帖も見せていただきました。
歌の横に、「昭和二十年八月五日 文明」と記されています。
ほぼ同じ短歌が『山下水』に掲載されていますが、第二句は、「くま笹原に」となっていて、「原」が加えられています。題も「八月六日草津」となっています。第四句、第五句が八音の字余りですが、第二句は規定通り七音にした方がよいと判断されたのでしょうか。私自身は、「くま笹に」よりも「くま笹原に」の方が情景に広がりがあるとお考えになり、一日後に変えられたのだろうと考えています。
令和2年11月3日(火・祝)
山田良春君の歌集に 老いぼけて若き君らの作り出す新しき歌見るは楽しも(『青南後集以後』)
8月に、文明が大正11年から13年まで高等女学校の校長を務めた長野県松本市を訪ね、明治45年から創業している和菓子屋の梅月菓子舗さんに立ち寄りました。土屋文明に関する情報があったら知らせていただきたいとお願いしておいたところ、このたび貴重な書籍を送っていただきました。
故山田良春氏が平成元年3月に92歳で執筆された手書きの自伝『歌への熱き思い』です。
「月々長野へ来られる時に歌を見て頂いて先生の第二歌集「往還集」の原稿を書いて上げた。先生が長野へ来られなくなっても続けて歌を見てもらったから月々のアララギに余の歌がのった。」
「その夜先生の宿られた宿屋で慰労会をした時に土屋先生から歌を書いてもらった その歌は 春日照る荒野の道を登り来て猪名水海静もりにけり その翌日先生は南佐久から峠を越えて上州へ行かれたがその時余がバナナを十本ばかり買って上げて見送りをした。」
山田氏は、大正から昭和にかけて、長野県の小中学校に勤務しながら、文学活動をされていました。 自伝には、島木赤彦、土屋文明との交流が詳しく記されていて、大正時代から昭和時代前期にかけての「アララギ」の様子が窺われます。
没後30年が過ぎ、土屋文明の生前を知る人も少なくなってきました。生の情報を集める最後の時期を迎えているのだと思います。
令和2年10月28日(水)
年暮れぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢(西行『山家集』)
10月27日、本年度の文化勲章受章者が5人発表されました。
受章者の一人、東京大学名誉教授の久保田淳先生には、平成26年4月27日に当館で、「桜と月の歌人・西行-旅する歌僧の人と作品-」と題してご講演をしていただきました。
当初は、2月16日に開催の予定でしたが、大雪のため中止となり、上記の期日に変更して開催されました。先生には、通常の講演以上にご配慮いただきました。
冒頭に挙げた歌は、先生の講演資料「西行名歌五十選」の最初に載っている歌です。
久保田先生のご業績に厚く敬意を表しますとともに、この度の受章を心よりお祝い申し上げます。
文明は、松尾芭蕉や与謝蕪村も訪ねた西行ゆかりの歌枕「遊行柳」を訪ね、「下野芦野」と題して次の歌を詠んでいます。
秋あつき田の風の吹きわたる西行の柳はいまだ若木なり(文明『山谷集』)
文明も、昭和61年に、歌人としては佐佐木信綱、斎藤茂吉についで3人目の文化勲章を受章しています。
当館常設展示室内の「三十六歌人」コーナーには、開館時に独自に選んだ万葉から近代までの三十六人の人形があります。 西行については、次の歌をモチーフにしています。
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃(西行『山家集』)
結びに、久保田先生のご健勝とますますのご活躍をご祈念申し上げます。
令和2年10月28日(水)
青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ(『青南集』)
故郷の山の写真を引きのばし雲ある空にこひつつぞ居る(『少安集』)
古き国上つ毛に新しき時来り山河と共に栄えむ我等ぞ(昭和62年「上毛新聞に」)
秋も深まり、野山の木々が色づいてきました。文学館のある保渡田は、四季それぞれに趣がありますが、秋の美しさは格別です。
今日は、空が青く澄んで、景色が遠くまで見渡せるので、文学館に隣接する八幡塚古墳に上り、周囲を眺めました。
文学館を挟んで北側には、たくさんの峰をもつ榛名山が高崎を守る屏風のごとく横たわっています。 西側を見ると、すでに雪をかぶった浅間山が少し雲をともない、低い碓氷の山並みの上に天高くそびえています。
東側は、赤城山がなだらかに裾野を長く引いています。
南側には、多野の山並みが連なり、赤城山との間に関東平野が広がっていきます。
保渡田は、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳という三つの大きな古墳が点在し、古代から開けていたことが分かります。山々を遠望し、のどかな自然に恵まれたこの地を古代人も好んだのだと思います。
土屋文明も上州の山々を愛し、たくさんの歌を詠んでいます。