特別館長日記
信州松原湖
長野県佐久郡小海町に松原湖という湖があります。最もその名は、周辺で最も大きい猪名湖を指す場合もあれば、猪名湖、長湖、大月湖などその周辺に点在する複数の湖の総称として使われることもあるようです。
文明は昭和のはじめに2回ここを訪れ、それぞれ短歌を詠んでいます。
最初は、昭和4年5月18日に訪れています。翌日は、南佐久郡中込小学校で開かれた万葉集の会で講義をしています。歌集『往還集』に「信濃松原湖」の題を付した6首が掲載されています。
夜行車に来りし吾は山水の激に下りて歯みがきつかふ
今朝の汽車弁当を残し来て食ひ居るからだの疲労を思ふ
春すぎてゆくと云ふことも思はざりき桜のこれるに今日は遇ひける
うちかすむ村はまひるの蛙のこゑ畳のうへに覚めてまた眠る
湖のへの家に眠をむさぼりてわか芽立つ谷を見にゆかむとす
あさつきはすでに黄ばめる草はらに散れる桜の花をながめつ
もう1回は、昭和11年5月8日に訪れているようです。翌日は、上田別所で開かれた 歌会に出席しています。歌集『六月風』に「信州松原湖」の題を付した4首が掲載されています。
汗をながし吾はのぼりゆく長湖のやさしき水を再びみむとして
新はりの道に並びて落ち来る春の水あらし鳴りつつぞ来る
春日てる荒野の道をのぼり来て猪名の湖しづもりにけり
ふくらみし桜に降りつぐ雨寒し夕食すめば鞄をひらく
これらの短歌を詠むと、文明がこの地をたいへん愛していたことが分かり、かねてから一度行ってみたいと思っていました。文明が訪れたのは5月ですが、最近は春の訪れが早く、土屋文明記念文学館の周辺ではすでに桜の花もすっかり散ってしまったので、その名残惜しさもあり、4月17日(月)に松原湖に出かけました。
関越自動車道(80キロ制限)、中部横断自動車道(70キロ制限、無料)を利用し、高崎を出て2時間弱で松原湖に着きました。天候にも恵まれ、途中の道は高低差があるので、満開の桜を含め、さまざまな春の姿を見ることができ、快適な旅になりました。
猪名湖は、全体的にはひっそりしていました。湖畔に大きな桜の木があり、花が満開で、ハイキングの人たちが弁当を食べていました。文明もこの桜を見たのかと思うと、いっそう美しく見えました。
県道沿いの長湖は、最初平凡に見えましたが、細い道を少し上って行くと、静かな湖を小山が囲み、さらにその上に、雪を残した八ヶ岳に陽が差す、まさに絵のような光景が広がっていました。
<猪名湖畔の桜>
<猪名湖全景>
<長湖と八ヶ岳>
文明が訪れたのはすでに90年以上前のことなので、当時のことは分からないだろうと思いながらも、松原湖観光案内所で昭和初年には存在した宮本屋と蔦屋(現在はペンションアルコニ)を教えてもらいました。
いずれに文明が泊まったかは分かりませんでした。しかし、松原湖が関東、甲斐と善光寺を結ぶ、古くから開けた街道の脇にあること、文明が最初に松原湖を訪れた前年の昭和3年に斎藤茂吉が蔦屋に泊まった記録が残っていること、アララギの歌人は蔦屋を利用することが多かったこと、宮本屋にも若山牧水などの文人が泊まったことなどを教えてもらいました。
昭和4年10月24日、ニューヨーク株式取引所で株価が大暴落し、世界大恐慌が始まりました。昭和11年2月26日、陸軍青年将校らによるクーデターが勃発しました。
文明が松原湖を訪れたのは、陸軍をはじめとする誤った指導者のために日本がファシズム化し、太平洋戦争へと進んでいく時代でした。文明は、権力との激しい衝突を避けながらも権力に迎合することなく、良心と良識をもって対応する人生を送っていました。
松原湖から県道を上ったところにある温泉施設「八峰の湯」で露天風呂に入り、見慣れた群馬の山よりも天空に近い八ヶ岳をながめながら、昭和初期の文明のことをぼんやり想っていると、帰路に着かなければならない時間になりました。
虎見崎
群馬県で暮らしていると、時々海が見たくなります。12月12日、前日からの雨模様でしたが、午後には上がるという天気予報なので、千葉県の太東崎に出かけました。
そこは、九十九里浜の南端に当たり、「虎見崎」として、土屋文明が深く愛し、歌に詠んだ土地です。
そもそも、九十九里浜は、文明の恩師伊藤左千夫の故郷で、左千夫はその壮大な景色を見事に詠んだ歌をたくさん遺しました。
天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り 左千夫
九十九里の波の遠鳴り日のひかり青葉の村を一人来にけり 左千夫
文明の著した『伊藤左千夫』を読めばよく分かりますが、左千夫は、文明にとって、文学の師、人生の師であるとともに、その欠点をも承知して愛しく思う存在でした。
なき後の二三年ならむみ墓にもよりつかざりし吾をぞ思ふ (『少安集』)
明治42年に出会ってわずか5年足らずで急逝した伊藤左千夫への思いを抱いて、文明は、左千夫ゆかりの九十九里浜が見渡せる「虎見崎」を訪れていました。
秋草の草山岬に吾立ちてあはれはるかなり九十九里のはては (『山谷集』)
国の上に光はひくく億劫に湧き来る波のつひにくらしも (『少安集』)
この海を左千夫先生よみたまひ一生まねびて到りがたしも (『少安集』)
六十年思ふ九十九里に先生にうつつに従ふことなかりけり (『続々青南集』)
草木が無造作に茂る岬、はるかにかすむ九十九里浜、雄大に広がる太平洋。
それらを見ていると、素朴で広い心をもった左千夫をしのび、ともにこの景色を眺めることができなかったことを悔やむ文明の姿が浮かんできました。
〈左千夫が愛した九十九里浜〉
〈草木の茂る太東崎(灯台は昭和25年設置)〉
〈太東崎の前に広がる太平洋(手前は雀島(「夫婦岩」))〉
〈「虎見」ゆかりの「東浪見」の地名〉
祖父・土屋文明の思い出
土屋文明の孫であり、著作権者でもある、土屋安見氏に「祖父・土屋文明の思い出」という演題でご講演いただけることになりました。
土屋文明記念文学館では、令和5年1月21日から3月21日まで第118回企画展「文学者の愛用品-7Bの短くなるを愛しつつ使ふ-」を開催します。その記念講演として2月26日にご講演いただきます。
今年生れ安見はいまだ零歳なりああああ小さきかな (「青南集」)
京都人は踏切に警報機思はぬか幼きが通はむ学校の道 (「続々青南集」)
三世四人一日の行きの形見にて沙に生ひ続ぐ岩清水山藍 (「青南後集」)
安見さんは、文明の長男である故夏実氏の長女として生まれ、幼稚園の最後の年から小学校4年の秋まで5年間、東京南青山の家で文明と一緒に暮らしました。その後、夏実氏の仕事の関係で、京都に移りますが、文明は歌会が開かれる折などに京都の家を訪れていました。
安見さんが「アララギ」平成3年10月号(土屋文明追悼号)に寄稿された「思ひ出の断片の中から」を読ませていただくと、安見さんが祖父文明に親しく接し、さまざまなことを感じ、受け継いでいらっしゃることがよく分かります。
特に印象に残った部分を紹介させていただきます。
祖父は生活に関わるもの全て-庭に咲く小さな花から、政治経済に至るまで-に深い関心を持つてゐたが、「食べる」ことに対してもさうだつた。
祖父の話は、時に戦時中に歩いた、中国で見かけた風景であり、時に万葉集の足跡を訪ね歩いた旅であり、街の話、食の話、人の話、植物の話と、つきることがなかつた。
私は食卓での祖父の話のあれこれから、自分が居る場所の外に、もつとさまざまな世界があることを知つていつたのだと、今思ふ。
父の葬儀の時もそのあとも、祖父は私達の前で一度も涙を見せなかつた。ただ黙つて耐へてゐた。
桃山城が落城した時のことを話してくれた。(中略)
「さうして、みんな死んじまつた」何とも言ひやうのない響きをたたへた祖父の声に、驚いて見ると、祖父の目が赤く潤んでゐる。祖父は、父や祖母のことを、「悲しい」「口惜しい」などといふ言葉はもちろん、思ひ出話などもめつたに口にしなかつた。むしろ、口にすることを頑強に拒んでゐるふうですらあつた。
私は、この文章を読ませていただいて以来、ぜひいつか、安見さんに、当文学館で文明について語っていただきたいと考えてきましたが、このたび実現することをたいへんうれしく思います。そして、何よりも快くお引き受けいただいた安見さんに心より感謝申し上げます。
〈文明と安見さん〉
多胡碑の「羊」は「年」
山上碑、多胡碑、金井沢碑の「上野三碑」がユネスコの「世界の記憶」に登録されてから5年になります。
10月30日と31日、5周年を記念してガラス越しでなく見られる特別公開を行っていたので、参観してきました。
飛鳥、奈良の時代につくられたものに接していることを実感し、不思議な感動を覚えました。
<山上碑>
<多胡碑>
<金井沢碑>
「給羊」に私の考証のこさむも生れ育ちし上野思出のため 文明
この短歌は、文明が昭和19年6月に多胡碑の「給羊」について詠んだもので、私家集「山の間の霧」に収録されています。翌7月、文明は、戦火が逼迫するなかで、陸軍省嘱託として中国視察の旅に出かけました。
多胡碑は、現在の群馬県高崎市吉井町池に、周辺の三郡から三百戸を割いて新たに多胡郡をつくったことを記念して建てられたと、ほぼ見解が一致しています。
しかし、碑文中の「給羊」については見解が分かれます。文明が『日本紀行』の「十九上野三碑」で「此所でも土地の人は羊太夫説以外は頑として受付けないらしい。」と述べているとおり、地元では、羊太夫の伝説も広く流布されていることから、「羊」を人物名として捉え、多胡郡を羊に給したと一般的に解されています。
それに対し、文明は、西本願寺本萬葉集に「年」の字を「羊」と書いた例が多く見られることから、「給羊」は「給年」と読むべきだと主張します。そして、「一年間百姓の賦役を免ず」を「給復一年」というので、「給年」はその省略であり、新たに郡をつくり百姓に苦労をかけるからその年の賦役を免除すると解するべきだと主張します。そして、中国から持ち帰った、多胡碑よりも早い時期につくられた碑の拓本のなかに、「年」を「羊」と書いた実例を発見したと書いています。(以上、「支那で拾って来た多胡の『羊』」文藝春秋昭和20年2月号掲載による)
多胡碑の「給羊」も難解ですが、文明短歌の「『給羊』に私の考証のこさむ」も同じくらい難解でした。その謎は、数年前に文明のご親族から寄贈された『上野名跡志 二』(富田永世輯録)に遺された書き込みによって解決しました。
この短歌の意は、戦乱の中国に出かけるにあたり、自分が生まれ育った群馬の思い出として、多胡碑の「給羊」は「給年」で、「一年間百姓の賦役を免ず」と解するべきだという自説を、『上野名跡志 二』に書き込んでおく、と解してよいと思います。
これらのことを調べていきながら、土屋文明が文化や伝統を愛し、丹念に探求するなかで、歌人として大成していったことをあらためて認識しました。
<『上野名跡志 二』に遺る文明の書き込み>
柿の木は残った
九月十八日宵宮に我は生れしといふ産土神を五万図のせず 文明
9月18日は、土屋文明の誕生日です。
文明にとっての産土神は、榛名神社の末社で、生家から300mほど離れたところにあります。訪ねてみると、「榛名神社」の額が掲げられてあり、小さいながらも、高い樹木に囲まれ、森厳な佇まいでした。祭礼が近いせいか、草もきれいに刈り取られ、整然としていました。
文明は、明治23(1890)年に西群馬郡上郊村大字保渡田(現在の高崎市保渡田町)で生まれました。その生家は、当文学館から西へ1㎞ほど行ったところにありましたが、大正6年に父の保太郎が東京深川で米屋を開業するのにともない、地元の人に売り渡され、現在に至っています。
家屋はすべて建て替えられてしまいましたが、当時をしのぶものとして、一本の柿の大木が残されています。
「渋柿の木が一本あったが、一年として柿らしい柿のなったことのない木なので、父が切り倒そうとして三分の一程度鋸を入れた時に、外出先から帰って来た祖母が、屋敷に果物の木がないのはいけないと言って、とうとう切り倒すことを止めさせたということも私も聞いた。」
随筆『羊歯の芽』で、文明はこのように述べています。
現在の家主の方に、柿の木の撮影の許可をいただくとともに、文明にまつわることが何かないか、お聞きしたところ、すでに故人となられたお母さんが、今から70年くらい前、年配の男性が万感の思いを込めてその柿の木を抱きしめている姿を見かけたことがあるとのことです。
もちろん、その男性が文明であるかどうかはわかりませんが、文明のふるさとに対する強い愛着の念を思えば、十分あり得ることだと思いました。
文明の長女の小市草子も、『かぐのひとつみ-父文明のこと-』で、文明が一人でふるさとの思い出の地をまわったことがあると書いています。
さて、土屋文明記念文学館では、今年から「土屋文明記念文学講座」を開催することとしました。従来から文学講座は開催してきましたが、「土屋文明」の名前を冠して、短歌をはじめとする様々なテーマで開催することで、その功績を顕彰する行事であることを明確にし、長年にわたり「短歌界の牽引者」として活躍した文明にふさわしく、文学を愛好する皆様に全国からご参加いただけるような内容にすることを目指しています。
その第1回として、土屋文明の誕生日である9月18日に、「ことばの力」という演題で永田和宏先生にご講演いただきます。永田先生は、科学者でいらっしゃるとともに、現代歌壇の第一人者です。「塔」短歌会を拠点として活動され、朝日歌壇の選者、宮中歌会始詠進歌選者等を務められ、多数の歌集や著書を発表されています。
永田先生には、一昨年、土屋文明の生誕130年没後30年の記念展でも、「戦後歌壇の牽引者土屋文明」という演題でご講演いただきましたが、「土屋文明記念文学講座」の第1回にふさわしい先生は、永田先生以外にはいらっしゃらないということで、今回もお願い申し上げましたところ、ご多忙にもかかわらずお引き受けいただきました。
群馬県立土屋文明記念文学館は、土屋文明を顕彰する「土屋文明記念館」としての性格と、広く文学一般を対象とする「県立文学館」としての性格を併せ持っています。平成8年の開館以来四半世紀が過ぎましたが、今までを振り返ると、前者に関しては常設展示室が備えられているので、企画展として新規の内容に取り組むことになる後者に、職員の関心や活力が注がれがちになっていました。今後は、土屋文明の顕彰にも今まで以上に力を入れることで、当文学館の特徴である「二面性」を活かしていきたいと、土屋文明の誕生日にあたり考えています。
謎の伊藤左千夫像
五十年に余りてのこる墨のあとなそりし下にも生ける笑みはや 文明
伊藤左千夫の五十回忌を記念して刊行された土屋文明著『伊藤左千夫』には、左千夫像の口絵が掲載されています。文明は、同書のあとがきで「口絵の左千夫像は、正岡家保存の中から発見されたものを正岡忠三郎氏から贈られたのである。明治三十三四のものであらうか。上の図の方が左千夫を彷彿させるやうだ。正岡氏に感謝しつつ本巻頭をかざらしてもらつた」と述べています。
当館は、この左千夫像の複製に文明が冒頭の短歌を書き入れ、親しい友人に配布したものを古書店から購入し、所蔵しています。
この左千夫像にはいくつかの謎があります。
その1 左千夫像の実物は今どこにあるのか。
あとがきによれば、実物は、正岡忠三郎氏から文明に贈られたように読めるが、その後どうなったのか。
その2 なぜ、上下に2つの左千夫像が並んでいるのか。
正岡子規は、どのような状況でこの左千夫像を描いたのか。別に伝わる「左千夫像」の下書きとして描いたのか。
その3 上の左千夫像は、だれがなぜ薄黒くこすったのか。
子規が描いた画を子規以外の人物がこすったとは考えがたいので、こすったのは子規自身と考えてよいか。出来が悪いのでこすったのか、墨の濃淡を試すためにこすったのか。
伊藤左千夫は大正2年7月30日の午前2時頃に脳溢血で倒れ、午後6時頃に息を引き取りました。文学はもちろん、いろいろなことに父親のように世話をしてくれた左千夫の突然の死に、文明は、その柩にすがって号泣したと伝えられています。
あはれあはれ吾の一生のみちびきにこのよき先生にあひまつりけり 文明
世に従はず背かぬ
先日、深谷シネマで「わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-」を鑑賞しました。
映画は東京女子大で万葉集の講義をする土屋文明が諏訪高等女学校長時代の教え子伊藤千代子のことを女学生に語る回想シーンから始まります。
千代子は大正11年に生徒代表として答辞を読んで諏訪高等女学校を卒業します。地元の代用教員等を経て東京女子大に進学した千代子は、大学の社会科学研究会に参加し、共産党員の浅野晃と結婚、自らも入党して活動しますが、治安維持法違反で逮捕されます。厳しい転向の強要を拒否し続けますが、夫の転向を伝えられると、精神に異常をきたし、やがて亡くなります。
昭和10年に、東京女子大を講演で訪れた文明は千代子を偲び、「某日某学園にて」と題して短歌6首を詠んでいます。
語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
清き世をこひねがひつつひたすらなる処女等の中に今日はもの言ふ
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきておもはむ〈映画でも紹介〉
高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき
非運の死をとげた教え子を悼む気持ちがひしひしと伝わってきます。
文明は戦前の不幸な時代をどう生きていたのか、私は大変興味をもっていますが、現時点では、次のように推測しています。
○自由を束縛する軍国主義的な社会のあり方に強い不満を持っていた。
○社会との決定的な対立は避け、歌人としてできることを積み重ねた。
暴力をゆるし来し国よこの野蛮をなほたたへむとするか
代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき
芝の上に子を抱く兵多くして君若ければこともなく見ゆ
信濃にて此の国の磯菜食ひたりき世に従はず背かぬ吾等にて
おそれつつ世にありしかば思ひきり争ひたりしはただ妻とのみ
などの短歌はこの推測に端的に合っていると思います。
文明が太平洋戦争末期に陸軍省嘱託として中国を旅しながらも、当時の社会通年に反し中国の文化や民衆を尊重する短歌を詠んでいるのも同様です。
方を劃す黄なる甍の幾百ぞ一団の釉溶けて沸ぎらむとす
垢づける面にかがやく目の光民族の聡明を少年に見る
社会に矛盾を感じたとき、弾圧を恐れず一気に解決しようとする生き方と、激しい衝突を避けて少しずつ改善していく生き方があります。文明はどちらかと言えば後者でしょうが、前者の千代子のような生き方も理解し同情していたのだろうと思います。
「五人娘」
水郷で有名な佐原から西に10キロ程度離れたところに、神崎という町があります。
町の中心に神崎神社(境内に水戸光圀由来の「なんじゃもんじゃ」の楠木)の丘があり、北側には群馬に比べ、だいぶ川幅が増した利根川が流れています。「発酵の里」神崎は水田が豊かに広がり、古来すぐれた酵母菌が住み着いているので、酒造りや味噌造りが主要な産業として行われてきました。
寺田本家は江戸時代から続く創業340年以上の造り酒屋で、その主力の自然酒が「五人娘」です。土屋文明が命名しました。
明治42年、弟子入りした文明の優れた資質を見抜いた伊藤左千夫は、文明を将来の文学界を担う人物として大成させるために、帝大に進学させたいと考え、学費の支援者を探しました。そのとき、支援を承諾してくれたのが、すでに『アララギ』も支援していた寺田憲でした。寺田憲は、寺田本家の20代当主で、歌をたしなむ文化人でした。
やがて、23代当主の寺田啓佐氏が苦労して造りあげた自然酒への命名を文明先生にお願いしたとき、先生は、昔寺田本家を訪れたとき、娘さんがたくさん挨拶に出てきて驚いたのを覚えていて、その清純さと明るい雰囲気にちなんで「五人娘」と命名したそうです。ところが、実際は寺田家の娘さんは3人で、お母さんとお婆ちゃんは「文明さんはあたし達も娘にしてくれた」と喜んだというエピソードも伝わっています。
寺田本家には、「これが酒蔵」という存在感が漂っていました。門脇の店舗には、外にも内にも文明自筆の「五人娘」の布看板が下がっていて、「遠いのによく訪ねてきたな」と文明先生が言ってくれているように感じました。
「五人娘」のかすみ酒とお猪口を買ってお店の女性にご挨拶申し上げると、「五人娘」が背後の神崎神社に湧く水で造られていることなど、いろいろなお話をしてくださり、寺田憲氏の歌碑除幕に参列したときの文明の写真も見せてくれました。しかし、学費を支援していたことには決して触れようとはしないことに寺田本家の品格を感じました。
寺田本家の脇を通って背後の神崎神社の丘に登ると、参道の途中大木の下に、寺田憲の歌碑がありました。
碑には歌2首が刻まれていました。
新酒のかをりよろしも我醸みしこの新酒かおりよろしも
咲く花の香取とふ酒をくむ人は憂をとはに忘れてあらむ
裏の碑文末尾には、「昭和五十三年十月 受恩後生土屋文明 謹識」と刻まれていました。表裏合わせれば相当の字数で、文明先生が文字を書くのが大嫌いなことを知っている者には、先生が寺田家にいかに感謝していたか、さらには先生の義理堅さがよく伝わります。
此の石に君を彰はすついでにて君に受けたる名をぞとどむる 文明
旧制第一高等学校の入学試験は、願書締め切りが6月上旬、試験が7月中旬だったので、私が神崎を訪れた5月10日頃には、すでに寺田憲氏の学費支援が決まり、文明先生は入学試験に向けて勉強していたのでしょう。神崎はそのようなことに思いを馳せることのできる落ち着いた町でした。
諏訪を訪ねて
諏訪は、文明にとってたいへん思い出の深い町です。それだけにたくさんの歌を遺しています。
信州の春は遅いので、まだ桜の花の見頃ではないかと思い、4月19日に国道142号線を通って諏訪に出かけました。道中の山あいの桜はまだ満開のところが多く、「諏訪の浮城」と言われる高島城の桜も見事でした。
今回は、文明が諏訪で暮らした家のあった場所や文明が勤めた諏訪高等女学校のあった場所に行き、当時を偲ぶのが目的でした。
万葉集調査でよく現地の人に尋ねたという文明のことを思い出し、文明の住んだ家があったと思われる地域の家々を尋ねた結果、諏訪の文学を研究されている伊藤文夫氏に出会うことができました。伊藤氏は文明が住んだ2つの家だけでなく、その周辺のこともよくご存じで詳しく教えていただきました。多くの疑問が一気に解決し、文明先生がこの出会いを導いてくれたのではないかと感激しました。
槻の木の丘の上なるわが四年幾百人か育ちゆきにけむ(『自流泉』)
文明は、大正5年7月、東京帝国大学哲学科を卒業しました。当時の文化系学科卒業生の常で、なかなか安定した職を得られませんでしたが、大正7年3月、先輩歌人の島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校の教頭に採用されました。そして、大正9年1月、校長の三村安治が県の首席視学として転任すると、文明は、三村の強い推薦で校長に就任しました。そのとき、文明は、まだ29歳で全国で一番若い高等女学校の校長でした。活力に満ち、厳格さとユーモアを兼ね備え、恐いけれども人気のある教育者であったようです。大正デモクラシーの気運の中で、女性も知的教養を身につけることが重要であるという信念をもって、裁縫、家事、習い事が中心であった当時の女子教育から見れば、普通教科を重視する清新な教育を行いました。
現在、日本の学校教育は実用を重視しているようですが、知識を蓄え教養を身につけることを軽視してはいけないと思います。
寒き国に移りて秋の早ければ温泉の幸をたのむ妻かも(『ふゆくさ』)
温泉わけば借りてわが住む家の前をのろく流れ行く衣渡川( 〃 )
煙たつ湯をまぜながら言ふ妻の声はこもらふ深き湯室に( 〃 )
諏訪に赴任した文明は、最初の数日間、旅館「布半」から学校に通い、新年度の準備に当たりました。その後、新小路の有賀宅を借りて暮らし、9月には、衣之渡川に面した田宿の温泉が湧き出る別荘を借りることができ、大正11年4月に松本高等女学校へ転任するまでそこで暮らしました。女学校の教師は妻帯者がよいという先輩歌人平福百穂の助言もあって、文明は、諏訪着任の直前に同郷で相思相愛のテル子と結婚しました。苦学、就職難と苦労の耐えなかった文明にとって、はじめて手に入れた平穏な日々でした。ゆったりと流れているのは、衣之渡川だけでなく、文明夫妻の時間もそうだったのでしょう。
左千夫の生家を訪ねて
秋草の草山岬に吾立ちてあはれはるかなり九十九里のはては 文明
3月29日、山武市にある伊藤左千夫の生家を訪ねました。周辺は、田畑が広がり、簡素で、たいへんのどかでした。
明治42年4月10日、旧制高崎中学校を卒業した文明は、文学を志し、茅場町(現在の錦糸町駅付近)で牛舎を営む左千夫のもとに上京しました。文明の才能を素早く見抜いた左千夫は、学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校へ進学させました。
左千夫は、文明にとって、『アララギ』に迎え入れ、様々な薫陶、支援を与え、文学者として大成する道を拓いてくれた恩人です。
冒頭の歌は、生家近くの伊藤左千夫記念公園に、左千夫ゆかりの歌人として、歌碑が建てられています。
昭和8年頃の作ですが、文明は、雄大な九十九里浜と、大正2年文明が東京帝大に進学する直前に急死した左千夫を重ね合わせて詠んでいるような気がします。
牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る 左千夫
生家の入り口にこの歌の大きな歌碑が建てられていました。
茅葺平屋建ての母屋と土蔵は、約200年前に建築されたもので、中農の家構えということです。傍らには、移築された茶室「唯真閣」もありました。
左千夫は、政治を志し、法律の勉強のために東京に遊学しながらも、眼疾のため郷里に戻りました。しかし、末子のため家を継ぐ立場になかったので、当時景気のよかった乳牛の仕事に就くため再度上京し、文学の道に進んでいきます。生家をながめながら、文明のことも思い浮かべ、左千夫の人生に思いを馳せました。
天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り 左千夫
左千夫の生家から車で10分ほど行くと、この歌の碑が建っている本須賀海岸に行くことができます。広い砂浜がはてが見えないくらい続き、正面には太平洋が広がっていました。文明は、この歌を評し、「そののびのびとして居て、しかも緊張した調子、大自然と人間との調和が無理なくあらはれてゐるなど、まずまず左千夫短歌の一頂点といひ得るであらう」と述べています。文明にとって、伊藤左千夫は、九十九里の浜の向こうに広がる太平洋のように大きな存在だったのだろうと思います。