群馬県立土屋文明記念文学館

130周年

特別館長日記

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特別館長日記

令和2年12月9日(水)

2020年12月09日

京都人は踏切に警報機思はぬか幼きが通はむ学校の道(『続々青南集』)
北京の天気ラジオは伝ふ幼き等沙塵(しやぢん)あらしの窓に寄るらむ(『続青南集』)

12月6日(日)、土屋文明先生のご親族、長男故夏実(なつみ)さんのご長女土屋安見(やすみ)さんご夫妻、次女故高野うめ子さんのご長男高野明さんご夫妻が当館にお越しになり、土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」や常設展示をご覧になりました。
東京南青山の旧土屋邸から移築した書斎のテーブルの上に置かれたカステラをご覧になり、「祖父はカステラを好んでよく食べていた」、その窓から見える「方竹(ほうちく)の庭」の木々をご覧になり、「祖父は植木や草花をたいへん愛し、小まめに手を入れていた」とお話になっていました。
そして、当館が文明先生のご功績を大切に顕彰していることに対して丁重な謝意を述べられるとともに、遺された資料の寄贈等、ご親族としてのご協力を惜しまないとおっしゃってくださいました。
私からは、「今後も当館を実家と思って訪ねていただきたい」と申し上げました。

「京都人は」の短歌は、文明先生が京都の夏実さん宅に滞在したときに、通学路に警報機のない踏切があるのを見て、孫の安見さんのことを心配し詠んだ短歌です。

「北京の」の短歌は、夫の仕事の関係でうめ子さん一家が北京に滞在したときに、孫の明さん、たまきさんのことを思って詠んだ短歌です。

お孫さんにとって、文明先生は、書きものをしているとき以外は、たいへんやさしいおじいさんだったそうです。


  

令和2年12月9日(水)

2020年12月09日

子持山若葉のときに我は來て草をぞあつむ手に餘るまで(歌碑による)

国道17号線で、渋川を越え沼田へ向かう途上にある「伊熊北」信号を子持山山頂方面へ左折してすぐの道路脇に文明の歌碑があります。
昭和54年12月に「農免農道開通記念」として建立されました。建立は文明に事後承諾だったようです。
文明の歌碑は群馬県内には4つしかありません。建立のいきさつはありますが、今となっては大切にしていく方がよいと私自身は考えています。

歌集『自流泉』では、
子持山若葉の時に吾は来て山草を採(つ)む手に余るまで
となっています。

他の3つの歌碑は以下のとおりです。
○土屋文明記念文学館前の庭
青き上に榛名を永久の幻に出でて帰らぬ我のみにあらじ

○長楽寺境内(太田市尾島町)
夕暮るるみ寺に来たり浄土絵の青き山々灯してみつ

○割烹中居屋庭(嬬恋村)
朝日さす家に目ざめぬ世に先んじ中居屋重兵衛生まれしその家


    

令和2年11月30日(月)

2020年11月30日

気短(きみじか)きわれをたしなめしかられし尊(たふと)き人(ひと)は死(し)なせ給(たま)ひぬ(『ふゆくさ』)

11月30日は、土屋文明の恩師村上成之(しげゆき)の命日です。
恩師の死を悼む文明の短歌が第一歌集『ふゆくさ』(歌数380首)の最後に収録されています。「十一月三十日村上先生逝く即参りて死顔を拝す」という詞書があります。
明治40年、文明が旧制高崎中学校(現高崎高等学校)4年のとき、村上は、千葉県の成東(なるとう)中学校から国語の教員として着任しました。
成東は、伊藤左千夫の故郷で、村上は、左千夫と親交があり、『アカネ』に短歌、『ホトトギス』に俳句を出詠していました。
文明は、挨拶の仕方で村上に注意され反発したこともありましたが、やがて村上を文学の師と仰ぎ、指導を受けるようになりました。
明治42年、高崎中学校を卒業した文明は、村上の仲介で、搾乳業を営みながら文学者として活躍していた左千夫のもとに上京し、牧夫をしながら文学の道を歩みはじめました。
そして、左千夫は、文明の豊かな資質をすばやく見抜き、文学者として大成させるために、寺田憲をはじめとする学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校に進学させます。
大正7年3月、諏訪高等女学校教頭としての赴任を前に、文明は、塚越テル子と結婚しますが、村上が媒酌の労を取りました。
大正13年、文明は、松本高等女学校長から木曽中学校長への転任を拒否して長野県の教職を退職し、大学で講師をしながら、文学者として活動します。その年の11月30日に、村上成之は、故郷の名古屋で亡くなりました。
村上のもとにかけつけ、万感の悲しみを込めて詠んだのが冒頭の短歌です。
「たしなめ」「しかられし」とことばを重ねていることで、文明と村上の親交の深さが表現されています。「気短きわれ」は文明の短所でした。村上は、その短所を見抜き、親身になって繰り返し指導してくれたのだと思います。
「死なせ給ひぬ」は素朴な表現ですが、ことばを飾らないことで、恩師の死に戸惑う姿や深い悲しみが的確に表現されています。
私も高崎高等学校で11年間国語の教員として勤めましたが、生徒を感化する力量において、村上先生に遠く及ばなかったことを残念に思っています。



令和2年11月25日(水)

2020年11月25日

朝日さす家に目ざめぬ世に先んじ中居屋重兵衛生れしその家(中居屋の歌碑より)

11月23日、文明の歌碑のある嬬恋村三原の中居屋を訪ねました。晴天に恵まれましたが、気温は9度くらいで少し寒く感じました。現在の中居屋は、七代目の黒岩幸一さんが割烹を営んでいます。お昼時でお客さんがたくさんいました。私もそばとミニ天ぷら丼のセットを美味しくいただきました。
中居屋は、ペリー来航にともなって横浜が開港された時に、いちはやくそこに店を構え、当時の日本の主力産業である生糸の取引に従事した中居屋重兵衛の生家です。生糸関係の輸出の半分以上を重兵衛の店が占めていたとも言われ、重兵衛は日本の近代化に大きな役割を果たしました。今年は、重兵衛の生誕200年にあたり、嬬恋村の郷土資料館で記念特別企画展が開催されました。
文明は、鳥居峠を越えて長野県の上田に行くときなどに、しばしば旅館を営んでいた中居屋に宿泊しました。文明が宿泊した旅館は、慶応年間に建てられたもので、割烹よりも一段高いところに現在も保存されていました。
旅館の前の植え込みの中に、中居屋重兵衛を讃えた文明の歌碑が建てられています。
『山下水』によれば、文明がこの歌を詠んだのは、昭和20年7月29日。建立は、昭和58年5月と歌碑に記されています。群馬県内の文明歌碑では最も早いものです。
お昼時の忙しいときにもかかわらず、ご主人の黒岩さんが丁寧にいろいろと案内してくれました。黒岩さんは、土屋文明記念文学館に色紙や短冊を寄贈され、初代伊藤信吉館長が贈呈した感謝状も割烹のギャラリーに飾ってありました。

穂にいづるくま笹に日はてりてほととぎすひとつすぐそこにきこゆ(中居屋所蔵の折帖より)

文明自筆の上記短歌が記された折帖も見せていただきました。
歌の横に、「昭和二十年八月五日 文明」と記されています。
ほぼ同じ短歌が『山下水』に掲載されていますが、第二句は、「くま笹原に」となっていて、「原」が加えられています。題も「八月六日草津」となっています。第四句、第五句が八音の字余りですが、第二句は規定通り七音にした方がよいと判断されたのでしょうか。私自身は、「くま笹に」よりも「くま笹原に」の方が情景に広がりがあるとお考えになり、一日後に変えられたのだろうと考えています。


    

令和2年11月3日(火・祝)

2020年11月03日

山田良春君の歌集に
老いぼけて若き君らの作り出す新しき歌見るは楽しも(『青南後集以後』)

8月に、文明が大正11年から13年まで高等女学校の校長を務めた長野県松本市を訪ね、明治45年から創業している和菓子屋の梅月菓子舗さんに立ち寄りました。土屋文明に関する情報があったら知らせていただきたいとお願いしておいたところ、このたび貴重な書籍を送っていただきました。

故山田良春氏が平成元年3月に92歳で執筆された手書きの自伝『歌への熱き思い』です。
「月々長野へ来られる時に歌を見て頂いて先生の第二歌集「往還集」の原稿を書いて上げた。先生が長野へ来られなくなっても続けて歌を見てもらったから月々のアララギに余の歌がのった。」

「その夜先生の宿られた宿屋で慰労会をした時に土屋先生から歌を書いてもらった その歌は
春日照る荒野の道を登り来て猪名水海静もりにけり
その翌日先生は南佐久から峠を越えて上州へ行かれたがその時余がバナナを十本ばかり買って上げて見送りをした。」

山田氏は、大正から昭和にかけて、長野県の小中学校に勤務しながら、文学活動をされていました。
自伝には、島木赤彦、土屋文明との交流が詳しく記されていて、大正時代から昭和時代前期にかけての「アララギ」の様子が窺われます。

没後30年が過ぎ、土屋文明の生前を知る人も少なくなってきました。生の情報を集める最後の時期を迎えているのだと思います。


  

令和2年10月28日(水)

2020年10月28日

年暮れぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢(西行『山家集』)

10月27日、本年度の文化勲章受章者が5人発表されました。
受章者の一人、東京大学名誉教授の久保田淳先生には、平成26年4月27日に当館で、「桜と月の歌人・西行-旅する歌僧の人と作品-」と題してご講演をしていただきました。
当初は、2月16日に開催の予定でしたが、大雪のため中止となり、上記の期日に変更して開催されました。先生には、通常の講演以上にご配慮いただきました。
冒頭に挙げた歌は、先生の講演資料「西行名歌五十選」の最初に載っている歌です。
久保田先生のご業績に厚く敬意を表しますとともに、この度の受章を心よりお祝い申し上げます。

文明は、松尾芭蕉や与謝蕪村も訪ねた西行ゆかりの歌枕「遊行柳」を訪ね、「下野芦野」と題して次の歌を詠んでいます。
秋あつき田の風の吹きわたる西行の柳はいまだ若木なり(文明『山谷集』)
文明も、昭和61年に、歌人としては佐佐木信綱、斎藤茂吉についで3人目の文化勲章を受章しています。

当館常設展示室内の「三十六歌人」コーナーには、開館時に独自に選んだ万葉から近代までの三十六人の人形があります。
西行については、次の歌をモチーフにしています。
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃(西行『山家集』)

結びに、久保田先生のご健勝とますますのご活躍をご祈念申し上げます。



令和2年10月28日(水)

2020年10月28日

青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ(『青南集』)
故郷の山の写真を引きのばし雲ある空にこひつつぞ居る(『少安集』)
古き国上つ毛に新しき時来り山河と共に栄えむ我等ぞ(昭和62年「上毛新聞に」)

秋も深まり、野山の木々が色づいてきました。文学館のある保渡田は、四季それぞれに趣がありますが、秋の美しさは格別です。
今日は、空が青く澄んで、景色が遠くまで見渡せるので、文学館に隣接する八幡塚古墳に上り、周囲を眺めました。
文学館を挟んで北側には、たくさんの峰をもつ榛名山が高崎を守る屏風のごとく横たわっています。
西側を見ると、すでに雪をかぶった浅間山が少し雲をともない、低い碓氷の山並みの上に天高くそびえています。
東側は、赤城山がなだらかに裾野を長く引いています。
南側には、多野の山並みが連なり、赤城山との間に関東平野が広がっていきます。
保渡田は、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳という三つの大きな古墳が点在し、古代から開けていたことが分かります。山々を遠望し、のどかな自然に恵まれたこの地を古代人も好んだのだと思います。
土屋文明も上州の山々を愛し、たくさんの歌を詠んでいます。


    

令和2年10月15日(木)

2020年10月15日

文学館の南側にある『方竹の庭』に植えられた橙に、今年できた青い実と年を越した黄色の実がいっしょに付いています。
この庭は、東京南青山の文明旧宅から配置をほぼ変えず草木を移植した庭です。茎が方形の珍しい「四方竹」が植えられていることから「方竹の庭」と呼ばれています。
文学館の常設展示室に再現されている「文明の書斎」の窓からも橙や四方竹をよく見ることができます。
文明の長女・小市草子(こいちかやこ)さんは、『かぐのひとつみ-父文明のこと』で、この橙について書いています。
橙は、埼玉県安行の清美園という植木屋が持ってきたのを購入したけれども、何年も実を付けなかったそうです。

植ゑし者を年々貶しめ十幾年かくして成りぬだいだい三顆(『続々青南集』)

文明は、この橙をたいへん気に入っていたそうです。
「橙は、次第に丈高く、実も数えきれぬ程成るようになった。窓の橙は、書斎のソファーにくつろぐ父の眼にガラス越しにも先ず入るもので、日々の父のよい友であった。」と草子さんは書いています。

黄にかはる橙ひとつ窓にして何もせぬ日ぞ安けかりける(『青南後集』)

100歳まで生きた文明は、親しい人にたくさん先立たれました。特に、妻や長男に先立たれた悲しみは察するにあまりあります。

ただ一つ下れる去年の橙あり木の実は孤独といふこともなく(『青南後集』)

文学館にお越しの際は、ぜひ「方竹の庭」の橙をご覧いだだき、文明の生涯を想像してみてください。


   

令和2年10月10日(土)

2020年10月10日

文学を尊く思ひはじめし頃の心理が容易に思ひいだせず(『少安集』)
気短きわれをたしなめしかられし尊き人は死なせ給ひぬ(『ふゆくさ』)

10月10日から土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」が始まりました。
文明先生は、明治37年から42年まで、旧制高崎中学校に学び、その校友会誌『群馬』に写生文や短歌、俳句を投稿していました。先生の最も早い時期の文学活動です。
先生の在学当時、私の曾祖父小笠原藤太郎は、高崎中学校に在職し、『群馬』の編集責任者を務めていました。また、大叔父小笠原祐一は、先生の同級生で、『群馬』に、恩師村上成之、文明先生と見開きでいっしょに俳句が掲載されています。
文明先生が亡くなられた平成2年当時、私は高崎高等学校で国語を教えていました。授業の時間に生徒会長をしていたK君から先生のご逝去を悼んで先生のことを話してほしいと頼まれたのですが、不勉強で通り一遍のことしか話せませんでした。思い出すと、今でも恥ずかしいと同時に申し訳なく思います。
土屋文明先生とのこのような縁を思うと、先生のご生涯とご功績を多くの人に知ってもらえるように誠心誠意努めなければならないとあらためて強く思います。
今回の記念展は、伊藤左千夫、島木赤彦、岡麓、斎藤茂吉、中村憲吉、土屋文明のアララギ歌人六曲半双屏風の展示、現代を代表する27人の歌人の皆様に土屋文明先生の短歌を選んで批評してもらった特別企画、朝鮮金剛山の歌会で文明先生が詠んだ「金剛山五十首」折帖の特別展示なども用意させていただきました。
コスモスの咲く二子山古墳など、秋の保渡田は特に自然豊かで、落ち着いた時間を過ごせると思いますので、ぜひお出かけください。


  

令和2年9月30日(水)

2020年09月30日

西方(せいはう)に峡(はざま)ひらけて夕(ゆふ)あかし吾(わ)が恋(こ)ふる人(ひと)の国(くに)の入(い)り日(ひ)か
閑ある日を幼児と今朝も来て土手にしゃがまり蓮をみて居る
手をひろげはげまして待てどおとろへし吾児(あこ)は尻据ゑて歩み来らず
庫裡のかたに水汲む井戸の音きこゆ百日紅の落つるひるすぎ

文明の妻テル子は、文明よりも2歳年上でした。
明治45年3月に津田梅子の女子英学塾を卒業したテル子は、翌大正2年7月、足利高等女学校(有楽町)へ教諭心得(英語担当)として赴任し、医者を営んでいる親戚の池田愛三郎の家(井草町)に下宿しました。足利に赴任する頃までには、文明とテル子は親しくなっていたようで、文明は足利のテル子を思う歌をたくさん詠んでいます。大正7年3月に文明と結婚し、長野県諏訪高等女学校教頭として赴任する文明に同行するまでの5年間、テル子は足利に暮らしました。
そして、大正13年4月、文明が松本高等女学校長から木曽中学校長への転任を拒否して職探しのため単身で帰京すると、テル子は、ちょうど空きがあり、再び足利高等女学校に教諭として勤めます。2か月あまり雪輪町の長屋に借家した後、樹覚寺のある本城の一戸立て平屋を借り、翌年10月東京の田端に移るまで暮らしました。長野で生まれた長男夏実と長女草子(かやこ)、お手伝いの女性との4人暮らしでした。家の前に逆川(さかさがわ)という川が流れ、近くには蓮の生えている場所もありました。旧友の尽力でまもなく法政大学に職を得ることができた文明は、週末にときどき訪れて子どもと遊んだり散歩したりしました。
文明もテル子も多忙で、家族4人で出かけることはほとんどありませんでしたが、 病気回復まもない夏実と草子を連れ、百日紅で有名な小俣の大伽藍鶏足寺(けいそくじ)へ出かけたことがありました。
9月22日(秋分の日)、実家の墓参りをした後、文明とその妻テル子ゆかりの地足利を訪問しました。大きな渡良瀬川が流れ、山も近くに迫っていて、わずかな土地に町が開けたという感じでした。足利学校や隣接する鑁阿寺(ばんなじ)には寂しくないくらいの観光客がいましたが、コロナウイルスの影響がなければ、ずっと混雑していたのだろうと思います。大小さまざまな寺社がたくさんあり、落ち着いた雰囲気でした。
井草町に、「池田医院」がありましたが、テル子が下宿した家であるかを確かめることは時節柄遠慮しました。樹覚寺近くにテル子が居住した場所は、今二階家が建っている場所と、周囲の情景から確信しました。小俣の鶏足寺はまさに「山全体が寺」という大伽藍で、ちょうど天然記念物の百日紅(さるすべり)が品よく咲いていました。


     

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