群馬県立土屋文明記念文学館

特別館長日記

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上州水沢寺

 榛名山系の水沢山の東麓に、水沢寺があります。天台宗の寺院で、山号は五徳山、本尊は十一面千手観音、坂東十六番札所になっています。寺伝によれば、高句麗僧の恵灌が推古天皇の時代に開基したと伝えられています。
 前橋と伊香保温泉を結ぶ県道15号は、水沢寺の近くに来ると、両側に水沢うどんの店が並んでいます。その突き当りに寺に上る石段があり、少し登ると仁王門があります。しかし、もっと高い場所に寺の広い駐車場があり、そこからも境内に入れるので、石段を登る人は少なく、私も仁王門をくぐったことはありません。

水沢うどん店街

山門石段


 現在の本堂(観音堂)は天明7(1787)年の再建で、その側に六角二重塔が建てられています。
 六角二重塔は、二階部分に大日如来が安置され、一階部分は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界を守る六体の地蔵が安置され、手で押して回転させて祈願するようにできています。
 境内に樹齢約700年に達するといわれる杉の大木もあります。周辺には桜の木もたくさん植えられています。

本堂と六角堂

手水

古代杉

土屋文明の歌集『少安集』には、「上州水沢寺」と題して以下の15首が掲載されています。

 午後三時山のかげりの早くして檜原ひはらの道はこほりけるかも
 土ほこり立ててくだれるバスののち檜原の道のしづまる一時ひととき
 国原くにはらのなかばまでかげの及ぶ見え山中やまなかの道夕ぐれにけり
 氷しろき沢の日かげに道めぐり子供等はころぶ一人また一人
 冬山ふゆやまたきぎをきりて積む見れば昔の時のかへるごとしも
 立ちかはり水沢みづさは部落ぶらく栄ゆるは見るにこころよしいにしへおもひて
 新しき宿屋たちたり風呂をたく煙はなびく一村ひとむらの上に
 杉の下に寺あることの変らねば落ちたる水のとはに清しも
 わが母と吾と来し日をかへりみるに四十五年になりやしぬらむ
 うつつにし今のぼる石段いしだん有様ありさまこまかきことは多くわすれぬ
 ここにして船尾ふなをの滝のしら木綿ゆふの落ちざるまでに山はかれたり
 子供等と六角堂の六地蔵肩あて並めてめぐらしあそぶ
 二組ふたくみ異人いじんの夫婦いで来り地蔵をまはす吾等を真似て
 くれなゐ水木みづきの枝を折りあそび夕べの道に子等と吾と居り
 赤城あかぎにのこるむらさき夕映ゆふばえにいましめ合ひてこほりの上をゆく

 このときのことを、文明の長女である小市草子がその著書『かぐのひとつみ-父文明のこと』のなかで書いています。少し長くなりますが、短歌が詠まれた状況、文明の人柄や暮らしがよく分かるので引用させていただきます。

 昭和十三年の正月休みに私たち兄妹四人をつれた一泊旅行も、父が目論んだものだった。あの時はまず上郊村に行き、父の伯母のぶを井出に尋ねた。父を幼時育ててくれた私たちの井出のおばあちゃんは、当時一人暮しをしていたが、親子の訪問に驚き喜び、早速青菜のたっぷり入った雑煮を囲炉裏にかけた鉄鍋で煮てくれた。餅は焼かないでそのまま鍋に入れて煮たのが珍しくおいしかったのが、木の大きなお玉杓子と共に忘れられないものだ。体がほかほかとあたたまった。そこから水沢寺に寄った頃はもう日がかげり始めていた。年内に降った雪が残って凍っていた。親子五人で六地蔵を廻して興じたり、水木の枝を掛け合わせて勝負をきめて遊んだりした。そんな時父はとても楽しそうで一所懸命だった。そうこうしているうちに日が暮れ、伊香保温泉に泊まったのだが、翌日の榛名湖畔は雪がもっと深かった。私たち兄妹四人が一列になって歩く後から、父が声をかけながら要心深くついてきた。湖畔で熱い甘酒をふきふき飲んだ。榛名富士が影をおとしている湖水に向かって休んでいた父の横顔が思い出される。

 水沢寺は、高崎からは車で1時間くらいで行けるので、私も今までに何度も訪れていますが、今回は、文明の短歌にちなむ写真をスマホで撮りながらゆっくり歩いてみました。短歌が詠まれた時からは86年が経過していますが、当時をしのぶ情景はたくさん残っているように感じました。ただし、クマが怖いので船尾の滝までは行けませんでした。

船尾の滝入口

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