特別館長日記
令和3年3月31日(水)
桜の花
染井桜みにくき幹の老いざれてなほこの年の花をかざすか 文明
(『自流泉』昭和22年)
我がさくら花
わが花の東海ザクラにはじまり終ひににぎはふ八重桜 文明
(『青南集』昭和35年)
3月31日、人事異動で文学館を去っていく職員に最も美しい光景を見せようとするかのごとく、周辺の桜が満開になりました。
文学館正面の庭では、文明の歌碑と暮鳥の詩碑を満面の桜が取り囲んでいます。
八幡塚古墳の頂からながめると、文学館の側らに桜が咲き、その向こうに榛名山が紫にたたずんでいます。
草木を愛する文明にしては、桜を詠んだ短歌は少ないように思いますが、老いてなお咲く桜、春を彩るとりどりの桜を的確に詠んでいます。
令和3年3月27日(土)
諏訪湖畔
湖の氷はとけて猶さむし三日月の影波にうつろふ 赤彦
(『太虚集』大正13年)
高木村
亡き人の村冬に入る菜の茂り山を見るこそ静かなりけれ 文明
(『山谷集』昭和6年)
島木赤彦五十年忌に
生くるに難くありたる時に先づ来り救の手をばのべし君なり 文明
(『青南後集』昭和50年)
3月27日は「赤彦忌」、諏訪が生んだ『アララギ』の代表的歌人島木赤彦の命日です。
赤彦は、明治9年に生まれ、大正15年に亡くなるまでの49年間、短歌界に大きな足跡を残しました。
大正2年に、伊藤左千夫が没すると、嘱望されていた教育界を退き、短歌誌『アララギ』の編集発行人となって、多士済々の歌人たちをよくまとめました。『アララギ』の編集発行人は、斎藤茂吉、土屋文明と受け継がれていきますが、赤彦がいなければ、早くに途切れてしまったかもしれません。
赤彦は、文明にとって、歌人としての先輩であるだけでなく、かけがえのない人生の恩人でした。
東京帝国大学を卒業したにもかかわらず2年間定職のなかった文明に、諏訪高等女学校教頭の職を紹介してくれました。長野師範学校の先輩で同校校長の三村安治との縁によるものでした。
文明は2年後、同校の校長となり、松本高等女学校の校長として退職するまで6年間、長野県の教育界で過ごしました。この6年間は、文明にとって、必ずしも順風満帆ではありませんでしたが、歌人として活躍するための貴重な社会的経験を積むことができました。
赤彦の功績を讃えて、諏訪湖のほとりには、「赤彦記念館」が建てられています。諏訪は、まだ朝晩、寒さが厳しいかもしれませんが、野山の草木も少しずつ春の装いを見せはじめているのではないかと思います。
令和3年3月11日(木)
毛野国 稔り豊か人多く毛野国群馬県山河悠々日本のまん中 土屋文明
(『青南後集以後』昭和61年1月6日上毛新聞掲載)
絲山秋子展も3月14日の閉幕まで余すところ4日となりました。
1月16日に開幕した当初は、コロナウイルスの感染状況が厳しく、予定通り開催していくことができるか、大変心配しましたが、ここまで関連行事もほぼ予定通り実施することができ、たくさんの皆様にご観覧いただきました。ありがとうございます。
本日(3月11日)は、上毛新聞社の内山充社長さんにご多忙にもかかわらずご来館いただき、絲山展をご観覧いただきました。
内山社長さんは、絲山さんが平成23年10月から26年3月まで2年半にわたり、上毛新聞に群馬県周辺のドライブ探訪記を連載されたときに、編集部で関わったそうです。
絲山さんが群馬を拠点としてすばらしい作品をつぎつぎと発表されていることをたいへんうれしく思っているとおっしゃっていました。
令和3年2月28日(日)
十一月二十日児夏実を伴ひ両崖山に登る をさな児がもぐ山すげの実は小く落葉の下にまろび落つるよ(『ふゆくさ』)
足利法楽寺山 児と坐りネーブル蜜柑を食ひ居ればいで遊ぶ人われのみにあらず(『往還集』)
21日に発生した足利市の山林火災はまだ続いています。
現在(28日)、火の勢いは弱まり、「鎮圧までいま一歩」ということなので、一刻も早い鎮火を願っています。
足利は土屋文明と縁の深い土地です。
文明の妻テル子は、「大正2年7月から大正7年3月まで」と「大正13年4月から大正14年10月まで」の2度足利で暮らしました。
テル子は、文明と同じく群馬郡上郊村保渡田出身で、明治45年3月に津田梅子の女子英学塾を卒業し、私立東京女子商業学校に一時勤務した後、大正2年7月から大正7年3月まで、足利高等女学校の英語教員として勤務しました。
おそらくテル子が女子英学塾、文明が旧制第一高等学校在学中から、二人は付き合い始めていたようで、テル子の足利赴任で離ればなれになった文明が足利のテル子を慕って詠んだと思われる短歌が『ふゆくさ』に掲載されています。
大正7年3月、文明とテル子は結婚し、文明の赴任地諏訪で新婚生活を送ります。
大正13年4月、文明は、木曽中学校への突然の転任発令を拒否して長野県の教職を退職しました。そのとき、ちょうど足利高等女学校に英語教員の空きがあって、テル子は再び勤務しました。夏実と草子、二人の子がいたので、子育てのお手伝いを雇っての勤務でした。文明もまもなく法政大学講師の職に就くことができましたが、当分の間離ればなれの生活となりました。
子煩悩の文明は、休日に足利を訪れ、息子と両崖山に登ったり、近くの法楽寺に遊んだりしました。そのときの短歌が『ふゆくさ』や『往還集』に掲載されています。
このとき、テル子と子どもたちが暮らした本城は、今回の山林火災の避難対象区域になっています。 足利は、歌人文明を慕う者にとって聖地の一つです。被害が最小限であることを祈っています。
令和3年2月14日(日)
青々とゆたかなる上毛(かみつけ)をめぐる山遠くかすめり雪残る山も(『続青南集』昭和39年)
いろいろなことがあってしばらく日記を休んでしまいました。
その間に春の訪れが実感できるようになりました。八幡塚古墳の頂上からながめると、文学館の向こうに見える榛名山は霞がかかり、穏やかな春らしい色をしています。
年により咲く木咲かぬ木遅早の梅は歌ふと植ゑしにはあらず(『続々青南集』昭和44年)
文学館の南の「方竹の庭」(東京南青山の土屋家旧宅から移植した庭)は、最近植木屋さんに手入れをしてもらったので、かなりすっきりしました。
梅の木が何本か植えられていますが、いずれも遅咲きらしく、まだほとんど花をつけていません。それでもよく見ると一輪咲いていました。
年々に衰へしるき方竹のやや持ち直す去年より今年(『青南後集』昭和50年)
文明先生が愛した、茎が四角いシホウチクは、若緑の葉をたくさんつけて元気な姿を見せています。
まだ決して予断は許されませんが、新型コロナウイルスの状況も明るい兆しが若干見えているような気がします。憂いなく春を楽しめるようになることを心より願っています。
令和2年12月21日(月)
この三朝(みあさ)あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず(『ふゆくさ』)
10月10日から開催してきた土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」が、昨日12月20日閉幕しました。
新型コロナウイルス感染症で行動が制限されるなかにもかかわらず、大勢の皆様にご観覧いただきました。たいへんありがとうございました。
笹公人先生、永田和宏先生には、当館の歴史に残るすばらしい記念講演をしていただきました。
「現代歌人27人が選ぶ土屋文明短歌」は、文明の短歌がいかに多彩で卓越したものであるかをあらためて理解するきっかけとなりました。
「アララギ六歌人六曲半双屏風」(諏訪湖博物館・赤彦記念館蔵)、「『金剛山五十首』折帖」(雁部貞夫氏蔵)は記念展に華を添える資料でした。
土屋家をはじめ文明先生とご縁のある皆様にもご来館いただき、貴重な出会いに恵まれました。
今回の記念展にご支援ご協力をいただきました大勢の皆様に心より感謝申し上げます。たいへんありがとうございました。
土屋文明記念文学館は、都道府県立では全国で唯一の個人名を冠した文学館です。太平洋戦争敗戦後の混乱期、「第二芸術論」をはじめ短歌を軽視する動きが展開されるなかで、1400年に及ぶ「和歌・短歌」の伝統を守る上で土屋文明が果たした役割はそれに十分値するものと考えています。
群馬テレビでコメンテーターの熊倉浩靖氏がおっしゃっていたように、「土屋文明の業績は千年を超えて語り継がれていく」のだろうと思います。そして、そのために尽力することが当館に課せられた使命と考えています。
令和2年12月14日(月)
祖母は朝々みぎりの草を引く佐々子来たり歩まむがため(『自流泉』)
汝が父も汝が母も祖父を手伝ひて佐々子は独遊ぶにやあらむ( 〃 )
先週の土屋安見さんご夫妻、高野明さんご夫妻のご来館に引き続きまして、12月13日(日)は、土屋文明先生のご長女である故小市草子さんのご長女平田佐佐子さんご一家にお越しいただき、土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」や常設展示をご覧いただきました。
佐佐子さんからは生前の文明先生を偲ぶお話をお伺いしました。
移築した書斎にある机をご覧になって、文明先生が一番下の引き出しから氷砂糖を取り出して口に入れてくれたのがおいしかったというお話。
特別展示の「金剛山五十首」(雁部貞夫氏蔵)をご覧になって、文明先生が書をお書きになるときは自分の母などまわりの者が墨を摺って差し上げていたというお話。
実が色づいた橙の木をご覧になって、この木が青山南町にあった頃は、軒に届くか届かないくらいで、今の半分くらいの高さだったというお話、などです。
文明先生の第8歌集『自流泉』には、「佐々子を思ふ」という詞書きの付された短歌5首が掲載されています。文明先生ご夫妻が、孫の佐佐子さんをかわいがっていたことが伺われます。
なお、佐佐子さんからは、お母様である故小市草子様のご著書『かぐのひとつみ-父文明のこと』をたくさんご寄贈していただきましたので、大切に活用させていただきたいと考えております。
また、本日は、長野県松本市にある梅月菓子舗の馬瀬由利子さんご夫妻にもご来館いただきました。馬瀬さんには、私が文明先生の松本高等女学校校長時代のことを現地調査したとき以来お世話になっています。
両ご家族にご来館いただき、「若き日の土屋文明」をご観覧いただけたことは、私どもにとってたいへん大きな励みとなりました。
令和2年12月9日(水)
京都人は踏切に警報機思はぬか幼きが通はむ学校の道(『続々青南集』) 北京の天気ラジオは伝ふ幼き等沙塵(しやぢん)あらしの窓に寄るらむ(『続青南集』)
12月6日(日)、土屋文明先生のご親族、長男故夏実さんのご長女土屋安見さんご夫妻、次女故高野うめ子さんのご長男高野明さんご夫妻が当館にお越しになり、土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」や常設展示をご覧になりました。
東京南青山の旧土屋邸から移築した書斎のテーブルの上に置かれたカステラをご覧になり、「祖父はカステラを好んでよく食べていた」、その窓から見える「方竹の庭」の木々をご覧になり、「祖父は植木や草花をたいへん愛し、小まめに手を入れていた」とお話になっていました。
そして、当館が文明先生のご功績を大切に顕彰していることに対して丁重な謝意を述べられるとともに、遺された資料の寄贈等、ご親族としてのご協力を惜しまないとおっしゃってくださいました。
私からは、「今後も当館を実家と思って訪ねていただきたい」と申し上げました。
「京都人は」の短歌は、文明先生が京都の夏実さん宅に滞在したときに、通学路に警報機のない踏切があるのを見て、孫の安見さんのことを心配し詠んだ短歌です。
「北京の」の短歌は、夫の仕事の関係でうめ子さん一家が北京に滞在したときに、孫の明さん、たまきさんのことを思って詠んだ短歌です。
お孫さんにとって、文明先生は、書きものをしているとき以外は、たいへんやさしいおじいさんだったそうです。
令和2年12月9日(水)
子持山若葉のときに我は來て草をぞあつむ手に餘るまで(歌碑による)
国道17号線で、渋川を越え沼田へ向かう途上にある「伊熊北」信号を子持山山頂方面へ左折してすぐの道路脇に文明の歌碑があります。
昭和54年12月に「農免農道開通記念」として建立されました。建立は文明に事後承諾だったようです。
文明の歌碑は群馬県内には4つしかありません。建立のいきさつはありますが、今となっては大切にしていく方がよいと私自身は考えています。
歌集『自流泉』では、〈子持山若葉の時に吾は来て山草を採む手に余るまで〉となっています。
他の3つの歌碑は以下のとおりです。
○土屋文明記念文学館前の庭 青き上に榛名を永久の幻に出でて帰らぬ我のみにあらじ
○長楽寺境内(太田市尾島町) 夕暮るるみ寺に来たり浄土絵の青き山々灯してみつ
○割烹中居屋庭(嬬恋村) 朝日さす家に目ざめぬ世に先んじ中居屋重兵衛生まれしその家
令和2年11月30日(月)
気短きわれをたしなめしかられし尊き人は死なせ給ひぬ(『ふゆくさ』)
11月30日は、土屋文明の恩師村上成之の命日です。
恩師の死を悼む文明の短歌が第一歌集『ふゆくさ』(歌数380首)の最後に収録されています。「十一月三十日村上先生逝く即参りて死顔を拝す」という詞書があります。
明治40年、文明が旧制高崎中学校(現高崎高等学校)4年のとき、村上は、千葉県の成東中学校から国語の教員として着任しました。
成東は、伊藤左千夫の故郷で、村上は、左千夫と親交があり、『アカネ』に短歌、『ホトトギス』に俳句を出詠していました。
文明は、挨拶の仕方で村上に注意され反発したこともありましたが、やがて村上を文学の師と仰ぎ、指導を受けるようになりました。
明治42年、高崎中学校を卒業した文明は、村上の仲介で、搾乳業を営みながら文学者として活躍していた左千夫のもとに上京し、牧夫をしながら文学の道を歩みはじめました。
そして、左千夫は、文明の豊かな資質をすばやく見抜き、文学者として大成させるために、寺田憲をはじめとする学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校に進学させます。
大正7年3月、諏訪高等女学校教頭としての赴任を前に、文明は塚越テル子と結婚しますが、村上が媒酌の労を取りました。
大正13年、文明は、松本高等女学校長から木曽中学校長への転任を拒否して長野県の教職を退職し、大学で講師をしながら、文学者として活動します。その年の11月30日に、村上成之は、故郷の名古屋で亡くなりました。
村上のもとにかけつけ、万感の悲しみを込めて詠んだのが冒頭の短歌です。
「たしなめ」「しかられし」とことばを重ねていることで、文明と村上の親交の深さが表現されています。「気短きわれ」は文明の短所でした。村上は、その短所を見抜き、親身になって繰り返し指導してくれたのだと思います。
「死なせ給ひぬ」は素朴な表現ですが、ことばを飾らないことで、恩師の死に戸惑う姿や深い悲しみが的確に表現されています。
私も高崎高等学校で11年間国語の教員として勤めましたが、生徒を感化する力量において、村上先生に遠く及ばなかったことを残念に思っています。