特別館長日記
令和2年11月25日(水)
朝日さす家に目ざめぬ世に先んじ中居屋重兵衛生れしその家(中居屋の歌碑より)
11月23日、文明の歌碑のある嬬恋村三原の中居屋を訪ねました。晴天に恵まれましたが、気温は9度くらいで少し寒く感じました。現在の中居屋は、七代目の黒岩幸一さんが割烹を営んでいます。お昼時でお客さんがたくさんいました。私もそばとミニ天ぷら丼のセットを美味しくいただきました。
中居屋は、ペリー来航にともなって横浜が開港された時に、いちはやくそこに店を構え、当時の日本の主力産業である生糸の取引に従事した中居屋重兵衛の生家です。生糸関係の輸出の半分以上を重兵衛の店が占めていたとも言われ、重兵衛は日本の近代化に大きな役割を果たしました。今年は、重兵衛の生誕200年にあたり、嬬恋村の郷土資料館で記念特別企画展が開催されました。
文明は、鳥居峠を越えて長野県の上田に行くときなどに、しばしば旅館を営んでいた中居屋に宿泊しました。文明が宿泊した旅館は、慶応年間に建てられたもので、割烹よりも一段高いところに現在も保存されていました。
旅館の前の植え込みの中に、中居屋重兵衛を讃えた文明の歌碑が建てられています。
『山下水』によれば、文明がこの歌を詠んだのは、昭和20年7月29日。建立は、昭和58年5月と歌碑に記されています。群馬県内の文明歌碑では最も早いものです。
お昼時の忙しいときにもかかわらず、ご主人の黒岩さんが丁寧にいろいろと案内してくれました。黒岩さんは、土屋文明記念文学館に色紙や短冊を寄贈され、初代伊藤信吉館長が贈呈した感謝状も割烹のギャラリーに飾ってありました。
穂にいづるくま笹に日はてりてほととぎすひとつすぐそこにきこゆ(中居屋所蔵の折帖より)
文明自筆の上記短歌が記された折帖も見せていただきました。
歌の横に、「昭和二十年八月五日 文明」と記されています。
ほぼ同じ短歌が『山下水』に掲載されていますが、第二句は、「くま笹原に」となっていて、「原」が加えられています。題も「八月六日草津」となっています。第四句、第五句が八音の字余りですが、第二句は規定通り七音にした方がよいと判断されたのでしょうか。私自身は、「くま笹に」よりも「くま笹原に」の方が情景に広がりがあるとお考えになり、一日後に変えられたのだろうと考えています。
令和2年11月3日(火・祝)
山田良春君の歌集に 老いぼけて若き君らの作り出す新しき歌見るは楽しも(『青南後集以後』)
8月に、文明が大正11年から13年まで高等女学校の校長を務めた長野県松本市を訪ね、明治45年から創業している和菓子屋の梅月菓子舗さんに立ち寄りました。土屋文明に関する情報があったら知らせていただきたいとお願いしておいたところ、このたび貴重な書籍を送っていただきました。
故山田良春氏が平成元年3月に92歳で執筆された手書きの自伝『歌への熱き思い』です。
「月々長野へ来られる時に歌を見て頂いて先生の第二歌集「往還集」の原稿を書いて上げた。先生が長野へ来られなくなっても続けて歌を見てもらったから月々のアララギに余の歌がのった。」
「その夜先生の宿られた宿屋で慰労会をした時に土屋先生から歌を書いてもらった その歌は 春日照る荒野の道を登り来て猪名水海静もりにけり その翌日先生は南佐久から峠を越えて上州へ行かれたがその時余がバナナを十本ばかり買って上げて見送りをした。」
山田氏は、大正から昭和にかけて、長野県の小中学校に勤務しながら、文学活動をされていました。 自伝には、島木赤彦、土屋文明との交流が詳しく記されていて、大正時代から昭和時代前期にかけての「アララギ」の様子が窺われます。
没後30年が過ぎ、土屋文明の生前を知る人も少なくなってきました。生の情報を集める最後の時期を迎えているのだと思います。
令和2年10月28日(水)
年暮れぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢(西行『山家集』)
10月27日、本年度の文化勲章受章者が5人発表されました。
受章者の一人、東京大学名誉教授の久保田淳先生には、平成26年4月27日に当館で、「桜と月の歌人・西行-旅する歌僧の人と作品-」と題してご講演をしていただきました。
当初は、2月16日に開催の予定でしたが、大雪のため中止となり、上記の期日に変更して開催されました。先生には、通常の講演以上にご配慮いただきました。
冒頭に挙げた歌は、先生の講演資料「西行名歌五十選」の最初に載っている歌です。
久保田先生のご業績に厚く敬意を表しますとともに、この度の受章を心よりお祝い申し上げます。
文明は、松尾芭蕉や与謝蕪村も訪ねた西行ゆかりの歌枕「遊行柳」を訪ね、「下野芦野」と題して次の歌を詠んでいます。
秋あつき田の風の吹きわたる西行の柳はいまだ若木なり(文明『山谷集』)
文明も、昭和61年に、歌人としては佐佐木信綱、斎藤茂吉についで3人目の文化勲章を受章しています。
当館常設展示室内の「三十六歌人」コーナーには、開館時に独自に選んだ万葉から近代までの三十六人の人形があります。 西行については、次の歌をモチーフにしています。
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃(西行『山家集』)
結びに、久保田先生のご健勝とますますのご活躍をご祈念申し上げます。
令和2年10月28日(水)
青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ(『青南集』)
故郷の山の写真を引きのばし雲ある空にこひつつぞ居る(『少安集』)
古き国上つ毛に新しき時来り山河と共に栄えむ我等ぞ(昭和62年「上毛新聞に」)
秋も深まり、野山の木々が色づいてきました。文学館のある保渡田は、四季それぞれに趣がありますが、秋の美しさは格別です。
今日は、空が青く澄んで、景色が遠くまで見渡せるので、文学館に隣接する八幡塚古墳に上り、周囲を眺めました。
文学館を挟んで北側には、たくさんの峰をもつ榛名山が高崎を守る屏風のごとく横たわっています。 西側を見ると、すでに雪をかぶった浅間山が少し雲をともない、低い碓氷の山並みの上に天高くそびえています。
東側は、赤城山がなだらかに裾野を長く引いています。
南側には、多野の山並みが連なり、赤城山との間に関東平野が広がっていきます。
保渡田は、二子山古墳、八幡塚古墳、薬師塚古墳という三つの大きな古墳が点在し、古代から開けていたことが分かります。山々を遠望し、のどかな自然に恵まれたこの地を古代人も好んだのだと思います。
土屋文明も上州の山々を愛し、たくさんの歌を詠んでいます。
令和2年10月15日(木)
文学館の南側にある『方竹の庭』に植えられた橙に、今年できた青い実と年を越した黄色の実がいっしょに付いています。
この庭は、東京南青山の文明旧宅から配置をほぼ変えず草木を移植した庭です。茎が方形の珍しい「四方竹」が植えられていることから「方竹の庭」と呼ばれています。
文学館の常設展示室に再現されている「文明の書斎」の窓からも橙や四方竹をよく見ることができます。
文明の長女・小市草子さんは、『かぐのひとつみ-父文明のこと』で、この橙について書いています。
橙は、埼玉県安行の清美園という植木屋が持ってきたのを購入したけれども、何年も実を付けなかったそうです。
植ゑし者を年々貶しめ十幾年かくして成りぬだいだい三顆(『続々青南集』)
文明は、この橙をたいへん気に入っていたそうです。
「橙は、次第に丈高く、実も数えきれぬ程成るようになった。窓の橙は、書斎のソファーにくつろぐ父の眼にガラス越しにも先ず入るもので、日々の父のよい友であった。」と草子さんは書いています。
黄にかはる橙ひとつ窓にして何もせぬ日ぞ安けかりける(『青南後集』)
100歳まで生きた文明は、親しい人にたくさん先立たれました。特に、妻や長男に先立たれた悲しみは察するにあまりあります。
ただ一つ下れる去年の橙あり木の実は孤独といふこともなく(『青南後集』)
文学館にお越しの際は、ぜひ「方竹の庭」の橙をご覧いだだき、文明の生涯を想像してみてください。
令和2年10月10日(土)
文学を尊く思ひはじめし頃の心理が容易に思ひいだせず(『少安集』)
気短きわれをたしなめしかられし尊き人は死なせ給ひぬ(『ふゆくさ』)
10月10日から土屋文明生誕130年没後30年記念展「若き日の土屋文明-あまた人々の恵みあり-」が始まりました。
文明先生は、明治37年から42年まで、旧制高崎中学校に学び、その校友会誌『群馬』に写生文や短歌、俳句を投稿していました。先生の最も早い時期の文学活動です。
先生の在学当時、私の曾祖父小笠原藤太郎は、高崎中学校に在職し、『群馬』の編集責任者を務めていました。また、大叔父小笠原祐一は、先生の同級生で、『群馬』に、恩師村上成之、文明先生と見開きでいっしょに俳句が掲載されています。
文明先生が亡くなられた平成2年当時、私は高崎高等学校で国語を教えていました。授業の時間に生徒会長をしていたK君から先生のご逝去を悼んで先生のことを話してほしいと頼まれたのですが、不勉強で通り一遍のことしか話せませんでした。思い出すと、今でも恥ずかしいと同時に申し訳なく思います。 土屋文明先生とのこのような縁を思うと、先生のご生涯とご功績を多くの人に知ってもらえるように誠心誠意努めなければならないとあらためて強く思います。
今回の記念展は、伊藤左千夫、島木赤彦、岡麓、斎藤茂吉、中村憲吉、土屋文明のアララギ歌人六曲半双屏風の展示、現代を代表する27人の歌人の皆様に土屋文明先生の短歌を選んで批評してもらった特別企画、朝鮮金剛山の歌会で文明先生が詠んだ「金剛山五十首」折帖の特別展示なども用意させていただきました。 コスモスの咲く二子山古墳など、秋の保渡田は特に自然豊かで、落ち着いた時間を過ごせると思いますので、ぜひお出かけください。
令和2年9月30日(水)
西方に峡ひらけて夕あかし吾が恋ふる人の国の入り日か
閑ある日を幼児と今朝も来て土手にしゃがまり蓮をみて居る
手をひろげはげまして待てどおとろへし吾児は尻据ゑて歩み来らず
庫裡のかたに水汲む井戸の音きこゆ百日紅の落つるひるすぎ
文明の妻テル子は、文明よりも2歳年上でした。
明治45年3月に津田梅子の女子英学塾を卒業したテル子は、翌大正2年7月、足利高等女学校(有楽町)へ教諭心得(英語担当)として赴任し、医者を営んでいる親戚の池田愛三郎の家(井草町)に下宿しました。足利に赴任する頃までには、文明とテル子は親しくなっていたようで、文明は足利のテル子を思う歌をたくさん詠んでいます。大正7年3月に文明と結婚し、長野県諏訪高等女学校教頭として赴任する文明に同行するまでの5年間、テル子は足利に暮らしました。
そして、大正13年4月、文明が松本高等女学校長から木曽中学校長への転任を拒否して職探しのため単身で帰京すると、テル子は、ちょうど空きがあり、再び足利高等女学校に教諭として勤めます。2か月あまり雪輪町の長屋に借家した後、樹覚寺のある本城の一戸立て平屋を借り、翌年10月東京の田端に移るまで暮らしました。長野で生まれた長男夏実と長女草子草子、お手伝いの女性との4人暮らしでした。家の前に逆川という川が流れ、近くには蓮の生えている場所もありました。旧友の尽力でまもなく法政大学に職を得ることができた文明は、週末にときどき訪れて子どもと遊んだり散歩したりしました。
文明もテル子も多忙で、家族4人で出かけることはほとんどありませんでしたが、 病気回復まもない夏実と草子を連れ、百日紅で有名な小俣の大伽藍鶏足寺へ出かけたことがありました。
9月22日(秋分の日)、実家の墓参りをした後、文明とその妻テル子ゆかりの地足利を訪問しました。大きな渡良瀬川が流れ、山も近くに迫っていて、わずかな土地に町が開けたという感じでした。足利学校や隣接する鑁阿寺(ばんなじ)には寂しくないくらいの観光客がいましたが、コロナウイルスの影響がなければ、ずっと混雑していたのだろうと思います。大小さまざまな寺社がたくさんあり、落ち着いた雰囲気でした。
井草町に、「池田医院」がありましたが、テル子が下宿した家であるかを確かめることは時節柄遠慮しました。樹覚寺近くにテル子が居住した場所は、今二階家が建っている場所と、周囲の情景から確信しました。小俣の鶏足寺はまさに「山全体が寺」という大伽藍で、ちょうど天然記念物の百日紅が品よく咲いていました。
令和2年9月20日(日)
おもふにし心親しももろ鳥のねぐらもとむるここのみ寺に(茂吉)
夕暮るるみ寺に来り浄土絵の青き山々灯してみつ(文明)
昭和5年9月14日、文明は茂吉とともに、八木節のもととなったと言われる「木崎節」を見るために世良田の八坂神社を訪れました。その際、徳川家の祖とされる世良田義季が開いた長楽寺にも立ち寄りました。境内の三仏堂東側の池の前にある林の中には、二人の歌を刻んだ歌碑が建てられています。
この年の4月には、文明が茂吉のあとを継ぎ、『アララギ』の編集発行人となりました。
長楽寺の隣には、徳川3代将軍家光が天海大僧正に命じ、日光東照宮奥社の拝殿と宝塔を移築させて造った世良田東照宮があります。幕府は、この東照宮の祭祀を別当寺として長楽寺にあたらせました。
9月15日、天気も良かったので、たまたま思い立って「新田荘」に行ってみました。長楽寺に茂吉と文明の歌碑があると聞いていたので、それを見るのが目的でしたが、二人がこの地を訪れたのが前日の14日であることは知りませんでした。因縁を感じますが、「1日遅い」という文明先生の厳しい声が聞こえるような気もします。
歌碑を見つけるあいだ、たくさん蚊に食われました。茂吉と文明が訪れた昭和のはじめ頃はどうだったでしょうか、少し心配になりました。
令和2年9月14日(月)
一生の喜びに中学に入りし日よ其の時の靴屋あり吾は立ち止る(『少安集』)
これは、五十歳を超えた土屋文明が旧制の高崎中学校に進学できた喜びを回想している短歌です。当時は、進学するだけの資質を備えていても、家庭環境に恵まれなければ、中学校に進学することはできませんでした。文明も丁稚奉公することを覚悟していただけにその喜びは大きかったようです。入試に合格できたという喜びとは異なりますが、入学できた喜びを詠んでいることに共感を覚えます。
靴を買って貰ったことが中学校に入学できたことを象徴しているのですが、この靴屋がどの靴屋であったかは定まっていません。
しかし、歌誌『新アララギ』に連載された宮地伸一氏の「土屋文明雑記」の(1)「観音山歌会」を読むと、この短歌が詠まれた状況がわかります。
昭和16年6月15日、高崎の観音山にある慈眼院で、群馬県アララギ歌会が開かれました。土屋文明と宮地伸一を含む四名は前日から観音山にある錦山荘に泊まりました。歌会の懇親会を終えて、一行は歩いて柳川町へ向かいました。文明は、かなり酔っていましたが、だいぶ暗くなった通りで、ふと立ち止まって「この靴屋が、僕が中学に入った時に靴を買った靴屋だ」と、感慨深そうに示された、と書かれています。
このことから、この靴屋は、観音山から聖石橋を通り、柳川町へ向かう途中にあったことがわかります。さらに、高崎の商工業関係の資料を調べていくと、鞘町にあった高見沢靴店と推定するのが妥当であると考えています。
当館が燻蒸休館中で時間があったので、歌会が開かれた観音山の慈眼院、文明一行が泊まった錦山荘、かつて高見沢靴店があった鞘町(現、喫茶店「cafeあすなろ」)、一行が目指した柳川町、文明が通った高崎中学校(旧制)のあった上和田町(現、高崎市立第一中学校)、文明に代金後払いで書籍を売ってくれた立見屋書店のあった相生町を訪ねました。
町並みは大きく変化していますが、それでも昔をしのぶ「よすが」はたくさんあるように感じました。
追伸。中学校時代のことを詠んだ文明の短歌を挙げておきます。
払ひかねし本代を催促せざりけり立見屋三代目になりやしぬらむ(『青南集』)
用のなき我は入りゆく中学校昔のポプラがあるかと思ひて(『青南集』)
令和2年8月31日(月)
何にじれ伯母のべっ甲櫛投げうちし一生の記憶始まる三歳(『青南後集以後』)
縁日の露天はづれの銀杏の下みちを枉げ伯母の櫛尋ねき十年ならむ(『青南後集以後』)
文学館を西に二百メートル程行ったところに、西光寺というお寺があります。保渡田古墳群の一つである薬師塚古墳の上に建てられています。
明治時代、三歳の文明は、寺の縁日に母と伯母に連れられて出かけ、銀杏の木が生えている辺りで、何かに腹を立てて伯母が身に付けていたべっ甲の櫛を放り投げてしまい、見つからなくなってしまいました。その後長く、文明は、近くに来ると、銀杏の木のところに立ち寄り、櫛を探し続けたそうです。
その銀杏の木は、ずっと保存され、大木になっていました。しかし、昨年、倒木の危険があるということで、仕方のないことですが、切られてしまいました。
暑さも少しやわらいできたので、久しぶりに行ってみたところ、文明由来の銀杏を示す標識はそのままで、銀杏の木は、切り株だけが残っていますが、草に蔽われ、いきさつを知らなければそれとはわからないようになっていました。
やがて、前橋から富岡に通じる幹線道路がこのあたりを通ることが計画されています。この世のものがうつろいゆくことは避けられないことですが、できる限り大切なものを保存していく配慮も必要ではないかと改めて思いました。