特別館長日記
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令和2年9月20日(日)
おもふにし心親しももろ鳥のねぐらもとむるここのみ寺に(茂吉)
夕暮るるみ寺に来り浄土絵の青き山々灯してみつ(文明)
昭和5年9月14日、文明は茂吉とともに、八木節のもととなったと言われる「木崎節」を見るために世良田の八坂神社を訪れました。その際、徳川家の祖とされる世良田義季が開いた長楽寺にも立ち寄りました。境内の三仏堂東側の池の前にある林の中には、二人の歌を刻んだ歌碑が建てられています。
この年の4月には、文明が茂吉のあとを継ぎ、『アララギ』の編集発行人となりました。
長楽寺の隣には、徳川3代将軍家光が天海大僧正に命じ、日光東照宮奥社の拝殿と宝塔を移築させて造った世良田東照宮があります。幕府は、この東照宮の祭祀を別当寺として長楽寺にあたらせました。
9月15日、天気も良かったので、たまたま思い立って「新田荘」に行ってみました。長楽寺に茂吉と文明の歌碑があると聞いていたので、それを見るのが目的でしたが、二人がこの地を訪れたのが前日の14日であることは知りませんでした。因縁を感じますが、「1日遅い」という文明先生の厳しい声が聞こえるような気もします。
歌碑を見つけるあいだ、たくさん蚊に食われました。茂吉と文明が訪れた昭和のはじめ頃はどうだったでしょうか、少し心配になりました。
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令和2年9月14日(月)
一生の喜びに中学に入りし日よ其の時の靴屋あり吾は立ち止る(『少安集』)
これは、五十歳を超えた土屋文明が旧制の高崎中学校に進学できた喜びを回想している短歌です。当時は、進学するだけの資質を備えていても、家庭環境に恵まれなければ、中学校に進学することはできませんでした。文明も丁稚奉公することを覚悟していただけにその喜びは大きかったようです。入試に合格できたという喜びとは異なりますが、入学できた喜びを詠んでいることに共感を覚えます。
靴を買って貰ったことが中学校に入学できたことを象徴しているのですが、この靴屋がどの靴屋であったかは定まっていません。
しかし、歌誌『新アララギ』に連載された宮地伸一氏の「土屋文明雑記」の(1)「観音山歌会」を読むと、この短歌が詠まれた状況がわかります。
昭和16年6月15日、高崎の観音山にある慈眼院で、群馬県アララギ歌会が開かれました。土屋文明と宮地伸一を含む四名は前日から観音山にある錦山荘に泊まりました。歌会の懇親会を終えて、一行は歩いて柳川町へ向かいました。文明は、かなり酔っていましたが、だいぶ暗くなった通りで、ふと立ち止まって「この靴屋が、僕が中学に入った時に靴を買った靴屋だ」と、感慨深そうに示された、と書かれています。
このことから、この靴屋は、観音山から聖石橋を通り、柳川町へ向かう途中にあったことがわかります。さらに、高崎の商工業関係の資料を調べていくと、鞘町にあった高見沢靴店と推定するのが妥当であると考えています。
当館が燻蒸休館中で時間があったので、歌会が開かれた観音山の慈眼院、文明一行が泊まった錦山荘、かつて高見沢靴店があった鞘町(現、喫茶店「cafeあすなろ」)、一行が目指した柳川町、文明が通った高崎中学校(旧制)のあった上和田町(現、高崎市立第一中学校)、文明に代金後払いで書籍を売ってくれた立見屋書店のあった相生町を訪ねました。
町並みは大きく変化していますが、それでも昔をしのぶ「よすが」はたくさんあるように感じました。
追伸。中学校時代のことを詠んだ文明の短歌を挙げておきます。
払ひかねし本代を催促せざりけり立見屋三代目になりやしぬらむ(『青南集』)
用のなき我は入りゆく中学校昔のポプラがあるかと思ひて(『青南集』)
令和2年8月31日(月)
何にじれ伯母のべっ甲櫛投げうちし一生の記憶始まる三歳(『青南後集以後』)
縁日の露天はづれの銀杏の下みちを枉げ伯母の櫛尋ねき十年ならむ(『青南後集以後』)
文学館を西に二百メートル程行ったところに、西光寺というお寺があります。保渡田古墳群の一つである薬師塚古墳の上に建てられています。
明治時代、三歳の文明は、寺の縁日に母と伯母に連れられて出かけ、銀杏の木が生えている辺りで、何かに腹を立てて伯母が身に付けていたべっ甲の櫛を放り投げてしまい、見つからなくなってしまいました。その後長く、文明は、近くに来ると、銀杏の木のところに立ち寄り、櫛を探し続けたそうです。
その銀杏の木は、ずっと保存され、大木になっていました。しかし、昨年、倒木の危険があるということで、仕方のないことですが、切られてしまいました。
暑さも少しやわらいできたので、久しぶりに行ってみたところ、文明由来の銀杏を示す標識はそのままで、銀杏の木は、切り株だけが残っていますが、草に蔽われ、いきさつを知らなければそれとはわからないようになっていました。
やがて、前橋から富岡に通じる幹線道路がこのあたりを通ることが計画されています。この世のものがうつろいゆくことは避けられないことですが、できる限り大切なものを保存していく配慮も必要ではないかと改めて思いました。
令和2年8月26日(水)
眉氷るあしたの道をともにせし処女等のかがやく頬を忘れず(『続々青南集』)
先日、土屋文明が松本高等女学校(現、松本蟻ヶ崎高等学校)の校長として大正11年から13年まで2年間を過ごした松本を訪ねました。文明が住んでいた「松本市西町451番地」(現、開智3-4-27)は駐車場になっていました。閑静な場所で、学校までは2キロくらい。 ヒゲをはやして厳しそうな若い校長先生が思いがけず女学生に優しく微笑んで出勤する光景を思い浮かべました。
近くに「梅月」という老舗の和菓子屋さんがありました。創業は明治45年だそうで、大正時代の大黒帳を見せてくれましたが、残念ながら「土屋文明」の名前はありませんでした。
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