群馬県立土屋文明記念文学館

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特別館長日記

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旧跡も歌枕も意に介さず

慈覚大師御開扉過ぎし壬生寺に灰冷えびえと大火鉢二つ
輪王寺まゐり道の円仁産湯の井今日は三毳(みかも)の盥窪(たらいくぼ)は見ず
糸遊に結びつくべき煙なし風流風雅なし雑木の芽立ち
(『続々青南集』下野国壬生より)

宇都宮の近くに壬生(みぶ)という町があります。
平安時代の高僧、慈覚大師円仁由来の壬生寺にある文明先生の歌碑を見てきました。
円仁は、794年に生まれ、幼いときから仏典を学び、比叡山に登り最澄の弟子となりました。その後、留学僧として唐に渡り、10年間を五台山や長安などで過ごし、仏教を深く学びました。帰国後は、日本各地を行脚し、仏教を広めるとともに、地方文化の興隆や社会事業にも尽力し、第三世天台座主となり、864年入寂後、「慈覚大師」の称号を贈られました。
壬生は、円仁生誕の地と言われているにもかかわらず、その旧跡が荒廃しているのを嘆いた日光山輪王寺の門跡天真親王が1686年に大師堂を建立しました。やがて、大正時代に大師生誕1050年を記念して、輪王寺門跡彦坂大僧正の指導のもと、東京上野の寛永寺天台宗学問所を本堂として移建し、「壬生寺」となりました。
円仁生誕の地と言われている旧跡は、壬生町と同じ下都賀郡の岩舟町にもあり、三毳山(みかもやま)の麓の手洗窪(たらいくぼ)に小さな社があります。
文明先生がテル子夫人を伴って壬生寺を訪れたのは、昭和46年4月17日、81歳の時です。近くにある、「奥の細道」ゆかりの「室の八島」や道鏡ゆかりの「下野国薬師寺跡」も訪れました。
「慈覚大師…」の歌を刻んだ歌碑は、「慈覚大師生誕産湯の井戸」の側に建てられていました。壬生寺は、「節分のお宝まき」のときなどはたいそう賑わうそうですが、ひっそりとしていました。「灰冷えびえと大火鉢二つ」もそのような様子を詠まれたのではないかと思います。
現在ある「慈覚大師生誕産湯の井戸」は、大正時代に創られたもののようで、円仁生誕の地を強く実感することはできませんでした。「輪王寺…」の歌は、そのような感じを詠まれたのではないかと思います。
お寺の由来や歌碑については、ご住職ご夫妻からもいろいろなお話をお伺いすることができ、資料もたくさんいただきました。私からは、「文明先生の数少ない歌碑の一つなので大切にしていただければありがたい」と申し上げました。
「糸遊に…」の歌は、「室の八島」(現栃木県栃木市)で詠まれた歌です。「室の八島」は、一夜の契りで懐妊しニニギノミコトから不義を疑われた「木の花さくや姫」が産室にこもり火をつけると三神が生まれたという言い伝えに由来する歌枕で古来多くの歌人が訪れています。芭蕉も「奥の細道」の旅で訪れ、「糸遊に結つきたる煙哉」という句を遺しています。池の中に小さな島が8つあり、社がありましたが、文明先生の詠まれたとおり、「木の花さくや姫」由来の「煙」を感じ取ることはできませんでした。
現地に行ってみて、旧跡も歌枕も意に介さず、実景を率直に詠んだところがまさに「アララギの総帥」の面目躍如と思いました。

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