特別館長日記
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多胡碑の「羊」は「年」
山上碑、多胡碑、金井沢碑の「上野三碑」がユネスコの「世界の記憶」に登録されてから5年になります。
10月30日と31日、5周年を記念してガラス越しでなく見られる特別公開を行っていたので、参観してきました。
飛鳥、奈良の時代につくられたものに接していることを実感し、不思議な感動を覚えました。
<山上碑>
<多胡碑>
<金井沢碑>
「給羊」に私の考証のこさむも生れ育ちし上野思出のため 文明
この短歌は、文明が昭和19年6月に多胡碑の「給羊」について詠んだもので、私家集「山の間の霧」に収録されています。翌7月、文明は、戦火が逼迫するなかで、陸軍省嘱託として中国視察の旅に出かけました。
多胡碑は、現在の群馬県高崎市吉井町池に、周辺の三郡から三百戸を割いて新たに多胡郡をつくったことを記念して建てられたと、ほぼ見解が一致しています。
しかし、碑文中の「給羊」については見解が分かれます。文明が『日本紀行』の「十九上野三碑」で「此所でも土地の人は羊太夫説以外は頑として受付けないらしい。」と述べているとおり、地元では、羊太夫の伝説も広く流布されていることから、「羊」を人物名として捉え、多胡郡を羊に給したと一般的に解されています。
それに対し、文明は、西本願寺本萬葉集に「年」の字を「羊」と書いた例が多く見られることから、「給羊」は「給年」と読むべきだと主張します。そして、「一年間百姓の賦役を免ず」を「給復一年」というので、「給年」はその省略であり、新たに郡をつくり百姓に苦労をかけるからその年の賦役を免除すると解するべきだと主張します。そして、中国から持ち帰った、多胡碑よりも早い時期につくられた碑の拓本のなかに、「年」を「羊」と書いた実例を発見したと書いています。(以上、「支那で拾って来た多胡の『羊』」文藝春秋昭和20年2月号掲載による)
多胡碑の「給羊」も難解ですが、文明短歌の「『給羊』に私の考証のこさむ」も同じくらい難解でした。その謎は、数年前に文明のご親族から寄贈された『上野名跡志 二』(富田永世輯録)に遺された書き込みによって解決しました。
この短歌の意は、戦乱の中国に出かけるにあたり、自分が生まれ育った群馬の思い出として、多胡碑の「給羊」は「給年」で、「一年間百姓の賦役を免ず」と解するべきだという自説を、『上野名跡志 二』に書き込んでおく、と解してよいと思います。
これらのことを調べていきながら、土屋文明が文化や伝統を愛し、丹念に探求するなかで、歌人として大成していったことをあらためて認識しました。
<『上野名跡志 二』に遺る文明の書き込み>
柿の木は残った
九月十八日宵宮に我は生れしといふ産土神を五万図のせず 文明
9月18日は、土屋文明の誕生日です。
文明にとっての産土神は、榛名神社の末社で、生家から300mほど離れたところにあります。訪ねてみると、「榛名神社」の額が掲げられてあり、小さいながらも、高い樹木に囲まれ、森厳な佇まいでした。祭礼が近いせいか、草もきれいに刈り取られ、整然としていました。
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〈文明の産土神「榛名神社」〉
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〈土屋家の菩提寺「善龍寺」〉
文明は、明治23(1890)年に西群馬郡上郊村大字保渡田(現在の高崎市保渡田町)で生まれました。その生家は、当文学館から西へ1㎞ほど行ったところにありましたが、大正6年に父の保太郎が東京深川で米屋を開業するのにともない、地元の人に売り渡され、現在に至っています。
家屋はすべて建て替えられてしまいましたが、当時をしのぶものとして、一本の柿の大木が残されています。
「渋柿の木が一本あったが、一年として柿らしい柿のなったことのない木なので、父が切り倒そうとして三分の一程度鋸を入れた時に、外出先から帰って来た祖母が、屋敷に果物の木がないのはいけないと言って、とうとう切り倒すことを止めさせたということも私も聞いた。」
随筆『羊歯の芽』で、文明はこのように述べています。
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〈文明生家跡に残る柿の木〉
現在の家主の方に、柿の木の撮影の許可をいただくとともに、文明にまつわることが何かないか、お聞きしたところ、すでに故人となられたお母さんが、今から70年くらい前、年配の男性が万感の思いを込めてその柿の木を抱きしめている姿を見かけたことがあるとのことです。
もちろん、その男性が文明であるかどうかはわかりませんが、文明のふるさとに対する強い愛着の念を思えば、十分あり得ることだと思いました。
文明の長女の小市草子も、『かぐのひとつみ-父文明のこと-』で、文明が一人でふるさとの思い出の地をまわったことがあると書いています。
さて、土屋文明記念文学館では、今年から「土屋文明記念文学講座」を開催することとしました。従来から文学講座は開催してきましたが、「土屋文明」の名前を冠して、短歌をはじめとする様々なテーマで開催することで、その功績を顕彰する行事であることを明確にし、長年にわたり「短歌界の牽引者」として活躍した文明にふさわしく、文学を愛好する皆様に全国からご参加いただけるような内容にすることを目指しています。
その第1回として、土屋文明の誕生日である9月18日に、「ことばの力」という演題で永田和宏先生にご講演いただきます。永田先生は、科学者でいらっしゃるとともに、現代歌壇の第一人者です。「塔」短歌会を拠点として活動され、朝日歌壇の選者、宮中歌会始詠進歌選者等を務められ、多数の歌集や著書を発表されています。
永田先生には、一昨年、土屋文明の生誕130年没後30年の記念展でも、「戦後歌壇の牽引者土屋文明」という演題でご講演いただきましたが、「土屋文明記念文学講座」の第1回にふさわしい先生は、永田先生以外にはいらっしゃらないということで、今回もお願い申し上げましたところ、ご多忙にもかかわらずお引き受けいただきました。
群馬県立土屋文明記念文学館は、土屋文明を顕彰する「土屋文明記念館」としての性格と、広く文学一般を対象とする「県立文学館」としての性格を併せ持っています。平成8年の開館以来四半世紀が過ぎましたが、今までを振り返ると、前者に関しては常設展示室が備えられているので、企画展として新規の内容に取り組むことになる後者に、職員の関心や活力が注がれがちになっていました。今後は、土屋文明の顕彰にも今まで以上に力を入れることで、当文学館の特徴である「二面性」を活かしていきたいと、土屋文明の誕生日にあたり考えています。
謎の伊藤左千夫像
五十年に余りてのこる墨のあとなそりし下にも生ける笑みはや 文明
伊藤左千夫の五十回忌を記念して刊行された土屋文明著『伊藤左千夫』には、左千夫像の口絵が掲載されています。文明は、同書のあとがきで「口絵の左千夫像は、正岡家保存の中から発見されたものを正岡忠三郎氏から贈られたのである。明治三十三四のものであらうか。上の図の方が左千夫を彷彿させるやうだ。正岡氏に感謝しつつ本巻頭をかざらしてもらつた」と述べています。
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〈土屋文明著『伊藤左千夫』の口絵〉
当館は、この左千夫像の複製に文明が冒頭の短歌を書き入れ、親しい友人に配布したものを古書店から購入し、所蔵しています。
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〈左千夫像〉
この左千夫像にはいくつかの謎があります。
その1 左千夫像の実物は今どこにあるのか。
あとがきによれば、実物は、正岡忠三郎氏から文明に贈られたように読めるが、その後どうなったのか。
その2 なぜ、上下に2つの左千夫像が並んでいるのか。
正岡子規は、どのような状況でこの左千夫像を描いたのか。別に伝わる「左千夫像」の下書きとして描いたのか。
その3 上の左千夫像は、だれがなぜ薄黒くこすったのか。
子規が描いた画を子規以外の人物がこすったとは考えがたいので、こすったのは子規自身と考えてよいか。出来が悪いのでこすったのか、墨の濃淡を試すためにこすったのか。
伊藤左千夫は大正2年7月30日の午前2時頃に脳溢血で倒れ、午後6時頃に息を引き取りました。文学はもちろん、いろいろなことに父親のように世話をしてくれた左千夫の突然の死に、文明は、その柩にすがって号泣したと伝えられています。
あはれあはれ吾の一生のみちびきにこのよき先生にあひまつりけり 文明
世に従はず背かぬ
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〈諏訪高等女学校卒業写真(3列左から2人目千代子、4列右から2人目文明)〉
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〈大正時代に諏訪高等女学校のあった現上諏訪小学校〉
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〈諏訪のシンボル高島城〉
先日、深谷シネマで「わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-」を鑑賞しました。
映画は東京女子大で万葉集の講義をする土屋文明が諏訪高等女学校長時代の教え子伊藤千代子のことを女学生に語る回想シーンから始まります。
千代子は大正11年に生徒代表として答辞を読んで諏訪高等女学校を卒業します。地元の代用教員等を経て東京女子大に進学した千代子は、大学の社会科学研究会に参加し、共産党員の浅野晃と結婚、自らも入党して活動しますが、治安維持法違反で逮捕されます。厳しい転向の強要を拒否し続けますが、夫の転向を伝えられると、精神に異常をきたし、やがて亡くなります。
昭和10年に、東京女子大を講演で訪れた文明は千代子を偲び、「某日某学園にて」と題して短歌6首を詠んでいます。
語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
清き世をこひねがひつつひたすらなる処女等の中に今日はもの言ふ
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに
こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきておもはむ〈映画でも紹介〉
高き世をただめざす少女等ここに見れば伊藤千代子がことぞかなしき
非運の死をとげた教え子を悼む気持ちがひしひしと伝わってきます。
文明は戦前の不幸な時代をどう生きていたのか、私は大変興味をもっていますが、現時点では、次のように推測しています。
○自由を束縛する軍国主義的な社会のあり方に強い不満を持っていた。
○社会との決定的な対立は避け、歌人としてできることを積み重ねた。
暴力をゆるし来し国よこの野蛮をなほたたへむとするか
代々木野を朝ふむ騎兵の列みれば戦争といふは涙ぐましき
芝の上に子を抱く兵多くして君若ければこともなく見ゆ
信濃にて此の国の磯菜食ひたりき世に従はず背かぬ吾等にて
おそれつつ世にありしかば思ひきり争ひたりしはただ妻とのみ
などの短歌はこの推測に端的に合っていると思います。
文明が太平洋戦争末期に陸軍省嘱託として中国を旅しながらも、当時の社会通年に反し中国の文化や民衆を尊重する短歌を詠んでいるのも同様です。
方を劃す黄なる甍の幾百ぞ一団の釉溶けて沸ぎらむとす
垢づける面にかがやく目の光民族の聡明を少年に見る
社会に矛盾を感じたとき、弾圧を恐れず一気に解決しようとする生き方と、激しい衝突を避けて少しずつ改善していく生き方があります。文明はどちらかと言えば後者でしょうが、前者の千代子のような生き方も理解し同情していたのだろうと思います。
「五人娘」
水郷で有名な佐原から西に10キロ程度離れたところに、神崎という町があります。
町の中心に神崎神社(境内に水戸光圀由来の「なんじゃもんじゃ」の楠木)の丘があり、北側には群馬に比べ、だいぶ川幅が増した利根川が流れています。「発酵の里」神崎は水田が豊かに広がり、古来すぐれた酵母菌が住み着いているので、酒造りや味噌造りが主要な産業として行われてきました。
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〈利根川〉
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〈神崎神社〉
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〈なんじゃもんじゃの木〉
寺田本家は江戸時代から続く創業340年以上の造り酒屋で、その主力の自然酒が「五人娘」です。土屋文明が命名しました。
明治42年、弟子入りした文明の優れた資質を見抜いた伊藤左千夫は、文明を将来の文学界を担う人物として大成させるために、帝大に進学させたいと考え、学費の支援者を探しました。そのとき、支援を承諾してくれたのが、すでに『アララギ』も支援していた寺田憲でした。寺田憲は、寺田本家の20代当主で、歌をたしなむ文化人でした。
やがて、23代当主の寺田啓佐氏が苦労して造りあげた自然酒への命名を文明先生にお願いしたとき、先生は、昔寺田本家を訪れたとき、娘さんがたくさん挨拶に出てきて驚いたのを覚えていて、その清純さと明るい雰囲気にちなんで「五人娘」と命名したそうです。ところが、実際は寺田家の娘さんは3人で、お母さんとお婆ちゃんは「文明さんはあたし達も娘にしてくれた」と喜んだというエピソードも伝わっています。
寺田本家には、「これが酒蔵」という存在感が漂っていました。門脇の店舗には、外にも内にも文明自筆の「五人娘」の布看板が下がっていて、「遠いのによく訪ねてきたな」と文明先生が言ってくれているように感じました。
「五人娘」のかすみ酒とお猪口を買ってお店の女性にご挨拶申し上げると、「五人娘」が背後の神崎神社に湧く水で造られていることなど、いろいろなお話をしてくださり、寺田憲氏の歌碑除幕に参列したときの文明の写真も見せてくれました。しかし、学費を支援していたことには決して触れようとはしないことに寺田本家の品格を感じました。
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〈寺田本家〉
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〈寺田本家 店内〉
寺田本家の脇を通って背後の神崎神社の丘に登ると、参道の途中大木の下に、寺田憲の歌碑がありました。
碑には歌2首が刻まれていました。
新酒のかをりよろしも我醸みしこの新酒かおりよろしも
咲く花の香取とふ酒をくむ人は憂をとはに忘れてあらむ
裏の碑文末尾には、「昭和五十三年十月 受恩後生土屋文明 謹識」と刻まれていました。表裏合わせれば相当の字数で、文明先生が文字を書くのが大嫌いなことを知っている者には、先生が寺田家にいかに感謝していたか、さらには先生の義理堅さがよく伝わります。
此の石に君を彰はすついでにて君に受けたる名をぞとどむる 文明
旧制第一高等学校の入学試験は、願書締め切りが6月上旬、試験が7月中旬だったので、私が神崎を訪れた5月10日頃には、すでに寺田憲氏の学費支援が決まり、文明先生は入学試験に向けて勉強していたのでしょう。神崎はそのようなことに思いを馳せることのできる落ち着いた町でした。
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〈寺田憲の歌碑〉
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〈歌碑裏〉
諏訪を訪ねて
諏訪は、文明にとってたいへん思い出の深い町です。それだけにたくさんの歌を遺しています。
信州の春は遅いので、まだ桜の花の見頃ではないかと思い、4月19日に国道142号線を通って諏訪に出かけました。道中の山あいの桜はまだ満開のところが多く、「諏訪の浮城」と言われる高島城の桜も見事でした。
今回は、文明が諏訪で暮らした家のあった場所や文明が勤めた諏訪高等女学校のあった場所に行き、当時を偲ぶのが目的でした。
万葉集調査でよく現地の人に尋ねたという文明のことを思い出し、文明の住んだ家があったと思われる地域の家々を尋ねた結果、諏訪の文学を研究されている伊藤文夫氏に出会うことができました。伊藤氏は文明が住んだ2つの家だけでなく、その周辺のこともよくご存じで詳しく教えていただきました。多くの疑問が一気に解決し、文明先生がこの出会いを導いてくれたのではないかと感激しました。
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<「諏訪の浮城」高島城>
槻の木の丘の上なるわが四年幾百人か育ちゆきにけむ(『自流泉』)
文明は、大正5年7月、東京帝国大学哲学科を卒業しました。当時の文化系学科卒業生の常で、なかなか安定した職を得られませんでしたが、大正7年3月、先輩歌人の島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校の教頭に採用されました。そして、大正9年1月、校長の三村安治が県の首席視学として転任すると、文明は、三村の強い推薦で校長に就任しました。そのとき、文明は、まだ29歳で全国で一番若い高等女学校の校長でした。活力に満ち、厳格さとユーモアを兼ね備え、恐いけれども人気のある教育者であったようです。大正デモクラシーの気運の中で、女性も知的教養を身につけることが重要であるという信念をもって、裁縫、家事、習い事が中心であった当時の女子教育から見れば、普通教科を重視する清新な教育を行いました。
現在、日本の学校教育は実用を重視しているようですが、知識を蓄え教養を身につけることを軽視してはいけないと思います。
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<諏訪高等女学校のあった岡見山から望む諏訪湖>
寒き国に移りて秋の早ければ温泉の幸をたのむ妻かも(『ふゆくさ』)
温泉わけば借りてわが住む家の前をのろく流れ行く衣渡川( 〃 )
煙たつ湯をまぜながら言ふ妻の声はこもらふ深き湯室に( 〃 )
諏訪に赴任した文明は、最初の数日間、旅館「布半」から学校に通い、新年度の準備に当たりました。その後、新小路の有賀宅を借りて暮らし、9月には、衣之渡川に面した田宿の温泉が湧き出る別荘を借りることができ、大正11年4月に松本高等女学校へ転任するまでそこで暮らしました。女学校の教師は妻帯者がよいという先輩歌人平福百穂の助言もあって、文明は、諏訪着任の直前に同郷で相思相愛のテル子と結婚しました。苦学、就職難と苦労の耐えなかった文明にとって、はじめて手に入れた平穏な日々でした。ゆったりと流れているのは、衣之渡川だけでなく、文明夫妻の時間もそうだったのでしょう。
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<衣之渡川の流れる田宿、温泉汲み上げタンクも見えます>
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<田宿の共同浴場、共同洗場>
左千夫の生家を訪ねて
秋草の草山岬に吾立ちてあはれはるかなり九十九里のはては 文明
3月29日、山武市にある伊藤左千夫の生家を訪ねました。周辺は、田畑が広がり、簡素で、たいへんのどかでした。
明治42年4月10日、旧制高崎中学校を卒業した文明は、文学を志し、茅場町(現在の錦糸町駅付近)で牛舎を営む左千夫のもとに上京しました。文明の才能を素早く見抜いた左千夫は、学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校へ進学させました。
左千夫は、文明にとって、『アララギ』に迎え入れ、様々な薫陶、支援を与え、文学者として大成する道を拓いてくれた恩人です。
冒頭の歌は、生家近くの伊藤左千夫記念公園に、左千夫ゆかりの歌人として、歌碑が建てられています。
昭和8年頃の作ですが、文明は、雄大な九十九里浜と、大正2年文明が東京帝大に進学する直前に急死した左千夫を重ね合わせて詠んでいるような気がします。
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〈『野菊の墓』の記念像、アララギ八歌人の歌碑などがあります。〉
牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る 左千夫
生家の入り口にこの歌の大きな歌碑が建てられていました。
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〈入り口に「牛飼…」の歌の歌碑があります。〉
茅葺平屋建ての母屋と土蔵は、約200年前に建築されたもので、中農の家構えということです。傍らには、移築された茶室「唯真閣」もありました。
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〈左千夫が愛した茶室〉
左千夫は、政治を志し、法律の勉強のために東京に遊学しながらも、眼疾のため郷里に戻りました。しかし、末子のため家を継ぐ立場になかったので、当時景気のよかった乳牛の仕事に就くため再度上京し、文学の道に進んでいきます。生家をながめながら、文明のことも思い浮かべ、左千夫の人生に思いを馳せました。
天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り 左千夫
左千夫の生家から車で10分ほど行くと、この歌の碑が建っている本須賀海岸に行くことができます。広い砂浜がはてが見えないくらい続き、正面には太平洋が広がっていました。文明は、この歌を評し、「そののびのびとして居て、しかも緊張した調子、大自然と人間との調和が無理なくあらはれてゐるなど、まずまず左千夫短歌の一頂点といひ得るであらう」と述べています。文明にとって、伊藤左千夫は、九十九里の浜の向こうに広がる太平洋のように大きな存在だったのだろうと思います。
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〈「天地の…」の歌の歌碑があります。〉
暮鳥ゆかりの大洗
寒い日が続いていますが、12月21日は比較的暖かかったので、山村暮鳥ゆかりの大洗をたずねました。
山村暮鳥は、群馬県西群馬郡棟高村(現高崎市)の農民の子に生まれ、キリスト教の伝道師として関東・東北の各地を転々としながら、詩作を続けました。地元で教員をしていたこともあり、地域の人々から敬愛されています。
土屋文明記念文学館前の公園には、「いちめんのなのはな」の反復で、その情景を的確に表現した「風景 純銀もざいく」という詩の碑があります。
命日が土屋文明と同じ12月8日なので、高崎市内の子どもたちから詩・短歌を募集して優秀作品を表彰する「暮鳥・文明まつり」が毎年12月に行われています。今年も先日第31回が行われました。
大洗は、大正13年に40歳で亡くなった暮鳥が晩年の5年間を過ごした土地なので、今年は訪ねてみたいと思っていました。
まず、「大洗町幕末と明治の博物館」に立ち寄りました。詩碑の場所等、暮鳥に関することを教えてもらうのが目的でしたが、折角なので、常設展、企画展を見せてもらいました。天皇陛下の愛用品や幕末・明治に活躍した偉人の品々など、時間がいくらあっても足らない貴重な資料ばかりでしたが、幕末、水戸の精神的支柱であった藤田東湖の力のこもった憂国の書が特に印象に残りました。
大洗磯前神社を中心に散策するのが便利という助言をいただき、車を境内の駐車場に移してゆかりの地をまわりました。
暮鳥の鬼坊裏別荘の跡地は、漁港近く、民家に囲まれ、海よりも少し高い場所にありました。平成19年に暮鳥会の有志によって建立された「老漁夫の詩」の詩碑が立っていました。故郷を離れ、海の光や音や風を慰めとして晩年を過ごした暮鳥を偲ぶことができました。
暮鳥の生前にはまだ建てられていなかった岩礁に立つ鳥居の向こうに、雄大な太平洋を眺めながら高台に登ると、萩原朔太郎撰の「ある時」の詩碑が説明の掲示板とともに松林の中にありました。暮鳥の没後間もない昭和2年に建てられ、昭和28年に場所を移され、現在に至っているそうです。碑は文字が刻まれていることが分かるだけでしたが、暮鳥、朔太郎を偲ぶには十分でした。
2つの碑をまわった後、境内からしばし海をながめ、神社に参拝して帰路につきました。太陽のまぶしさが気になりましたが、まもなく日が沈み、しばらくは夕焼けが見られました。やがて空は闇に包まれました。
12月8日
12月8日といえば、「太平洋戦争開戦の日」ですが、最近の私にとっては、「文明先生の命日」という思いがずっと強くなっています。
文学館の庭には、先生が愛した橙の木がたくさんの黄色い実を付けています。先生が眠る慈光寺の木々も冬支度を整えたことと思います。
百年はめでたしめでたし我にありては生きて汚き百年なりき 文明
土屋文明は、1890(明治23)年9月18日に生まれ、1990(平成2)年12月8日に亡くなるまで、明治、大正、昭和、平成の4つの時代を生きました。
30代のまだ若い頃、短歌をやめ教育者として生きていこうとしたにもかかわらず、自分の信念が受け入れられないと、長野県当局の転任命令を拒否して校長職を辞任しました。
40代から50代前半の日中戦争から太平洋戦争の頃、当時の国民としては普通のことでしたが、戦後の価値観とは相容れない歌も詠みました。
陸軍省の嘱託として中国各地を旅したこともありました。旅の中で詠んだ歌は『韮菁集』として発表されました。戦いの勝利を願ったり、祝ったりする歌も詠んでいますが、戦いに斃れていく兵の悲劇、中国の文化への尊敬の念や人々への親愛の情を込めた歌もたくさん詠んでいます。
文明は、1930(昭和5)年から1952(昭和27)年までの22年間、歌壇の中心であった『アララギ』の編集発行人として短歌界を牽引しました。
特に、日本で最も長い伝統をもつ短歌(和歌)という文学を、太平洋戦争後の「第二芸術論」に代表されるような混乱から守った功績は、明治維新の「混乱」から守った正岡子規のそれに匹敵すると思います。
「現在の短歌には、日本民族の伝統というものがよほどの分量ではいっている」
「簡単に現在のような商業主義文化受用方式がいつも優先するものだとは考えられない」
「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌といふものは…いかなる社会機構の中でも存在しつづける」
こうした文明の言葉は、今も色褪せることがありません。
100年の人生にはいろいろなことがありました。文明先生は良いことも悪いこともすべて含めて「生きて汚き百年なりき」と詠んでいるような気がします。
故郷を離れて
新型コロナウイルス感染症の流行も収まっているので、11月18日、学芸係の職員と東京に出かけ、
青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ 文明
の歌を時に思い浮かべながら、土屋文明ゆかりの地を訪ねてきました。
四つ目通りに地図ひろげ茅場町さがしたりき四月の十日五十年前 文明
明治42(1909)年、旧制高崎中学校を卒業した文明は、文学の道を志し、牛舎を営みながら短歌を作り小説を書いていた伊藤左千夫のもとに上京しました。左千夫は、学費の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校へ進学させ、文学者として大成する道を開いてくれました。
左千夫の屋敷は、本所区茅場町(現在の錦糸町駅南口構内)にありました。その場所には、「よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも 左千夫」という歌碑が建てられています。歌碑の裏側には「文明抄」と刻まれていました。ビルに囲まれた風景から当時を偲ぶことはできませんでしたが、文明が選んだ歌碑の歌から、子煩悩な左千夫のそば近く仕える文明の姿が思い浮かびました。
乏しき職を得てこの町に住みたりきあはれ世にふる今日かへりみる 文明
東京帝国大学哲学科を卒業したが定職のなかった文明は、大正6(1917)年7月から、日本体育会(現在の日本体育大学)付属の荏原中学校の英語講師として勤務し、学校近くの下荏原郡大井町(現在の品川区大井)で暮らしました。文明が借りた下宿、一軒家があったと思われる地は旧東海道沿いの下町的な雰囲気の町でした。海抜2.7メートルの標識が特に印象に残りました。
田端の木立よろしとこの夕べ近き梟を子等と聞き居り 文明
松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)校長から木曽中学校長への予告なしの転任を拒否して東京に戻った文明が法政大学に職を得て一時離ればなれだった妻子とともに過ごしたのが田端でした。当時田端にはたくさんの文人が暮らしていました。文明が暮らした家は大学の同窓生であった芥川龍之介が紹介してくれたものでした。今でも、東京にしては、樹木が豊富で閑静な雰囲気に、ようやく穏やかに暮らすことができるようになった文明の心境を偲ぶことができました。
うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮しを始む 文明
幾つありし香の木の実か何時の間に一つとなりし香の一つ果 文明
昭和3年から赤坂区青山南町(現在の港区南青山)で暮らしていた文明でしたが、太平洋戦争の戦局が切迫すると、群馬県吾妻郡原町川戸(現在の群馬県吾妻郡東吾妻町川戸)に疎開し、終戦後もしばらくそこで過ごしました。
昭和26(1951)年11月24日、ようやく新居が出来て南青山に帰って来ることができ、平成2(1990)年に亡くなるまで、百年の生涯の半分以上をそこで過ごしました。文明は、花や木を大切に育て、多くの人に先立たれてゆく悲しさを癒やしていましたが、現在はマンションになっていました。賑やかな通りから奥に入った閑静な雰囲気だけが、文明を偲ぶよすがでした。