特別館長日記
諏訪を訪ねて
諏訪は、文明にとってたいへん思い出の深い町です。それだけにたくさんの歌を遺しています。
信州の春は遅いので、まだ桜の花の見頃ではないかと思い、4月19日に国道142号線を通って諏訪に出かけました。道中の山あいの桜はまだ満開のところが多く、「諏訪の浮城」と言われる高島城の桜も見事でした。
今回は、文明が諏訪で暮らした家のあった場所や文明が勤めた諏訪高等女学校のあった場所に行き、当時を偲ぶのが目的でした。
万葉集調査でよく現地の人に尋ねたという文明のことを思い出し、文明の住んだ家があったと思われる地域の家々を尋ねた結果、諏訪の文学を研究されている伊藤文夫氏に出会うことができました。伊藤氏は文明が住んだ2つの家だけでなく、その周辺のこともよくご存じで詳しく教えていただきました。多くの疑問が一気に解決し、文明先生がこの出会いを導いてくれたのではないかと感激しました。
槻の木の丘の上なるわが四年幾百人か育ちゆきにけむ(『自流泉』)
文明は、大正5年7月、東京帝国大学哲学科を卒業しました。当時の文化系学科卒業生の常で、なかなか安定した職を得られませんでしたが、大正7年3月、先輩歌人の島木赤彦の紹介で諏訪高等女学校の教頭に採用されました。そして、大正9年1月、校長の三村安治が県の首席視学として転任すると、文明は、三村の強い推薦で校長に就任しました。そのとき、文明は、まだ29歳で全国で一番若い高等女学校の校長でした。活力に満ち、厳格さとユーモアを兼ね備え、恐いけれども人気のある教育者であったようです。大正デモクラシーの気運の中で、女性も知的教養を身につけることが重要であるという信念をもって、裁縫、家事、習い事が中心であった当時の女子教育から見れば、普通教科を重視する清新な教育を行いました。
現在、日本の学校教育は実用を重視しているようですが、知識を蓄え教養を身につけることを軽視してはいけないと思います。
寒き国に移りて秋の早ければ温泉の幸をたのむ妻かも(『ふゆくさ』)
温泉わけば借りてわが住む家の前をのろく流れ行く衣渡川( 〃 )
煙たつ湯をまぜながら言ふ妻の声はこもらふ深き湯室に( 〃 )
諏訪に赴任した文明は、最初の数日間、旅館「布半」から学校に通い、新年度の準備に当たりました。その後、新小路の有賀宅を借りて暮らし、9月には、衣之渡川に面した田宿の温泉が湧き出る別荘を借りることができ、大正11年4月に松本高等女学校へ転任するまでそこで暮らしました。女学校の教師は妻帯者がよいという先輩歌人平福百穂の助言もあって、文明は、諏訪着任の直前に同郷で相思相愛のテル子と結婚しました。苦学、就職難と苦労の耐えなかった文明にとって、はじめて手に入れた平穏な日々でした。ゆったりと流れているのは、衣之渡川だけでなく、文明夫妻の時間もそうだったのでしょう。
左千夫の生家を訪ねて
秋草の草山岬に吾立ちてあはれはるかなり九十九里のはては 文明
3月29日、山武市にある伊藤左千夫の生家を訪ねました。周辺は、田畑が広がり、簡素で、たいへんのどかでした。
明治42年4月10日、旧制高崎中学校を卒業した文明は、文学を志し、茅場町(現在の錦糸町駅付近)で牛舎を営む左千夫のもとに上京しました。文明の才能を素早く見抜いた左千夫は、学資の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校へ進学させました。
左千夫は、文明にとって、『アララギ』に迎え入れ、様々な薫陶、支援を与え、文学者として大成する道を拓いてくれた恩人です。
冒頭の歌は、生家近くの伊藤左千夫記念公園に、左千夫ゆかりの歌人として、歌碑が建てられています。
昭和8年頃の作ですが、文明は、雄大な九十九里浜と、大正2年文明が東京帝大に進学する直前に急死した左千夫を重ね合わせて詠んでいるような気がします。
牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る 左千夫
生家の入り口にこの歌の大きな歌碑が建てられていました。
茅葺平屋建ての母屋と土蔵は、約200年前に建築されたもので、中農の家構えということです。傍らには、移築された茶室「唯真閣」もありました。
左千夫は、政治を志し、法律の勉強のために東京に遊学しながらも、眼疾のため郷里に戻りました。しかし、末子のため家を継ぐ立場になかったので、当時景気のよかった乳牛の仕事に就くため再度上京し、文学の道に進んでいきます。生家をながめながら、文明のことも思い浮かべ、左千夫の人生に思いを馳せました。
天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の濱に玉拾ひ居り 左千夫
左千夫の生家から車で10分ほど行くと、この歌の碑が建っている本須賀海岸に行くことができます。広い砂浜がはてが見えないくらい続き、正面には太平洋が広がっていました。文明は、この歌を評し、「そののびのびとして居て、しかも緊張した調子、大自然と人間との調和が無理なくあらはれてゐるなど、まずまず左千夫短歌の一頂点といひ得るであらう」と述べています。文明にとって、伊藤左千夫は、九十九里の浜の向こうに広がる太平洋のように大きな存在だったのだろうと思います。
暮鳥ゆかりの大洗
寒い日が続いていますが、12月21日は比較的暖かかったので、山村暮鳥ゆかりの大洗をたずねました。
山村暮鳥は、群馬県西群馬郡棟高村(現高崎市)の農民の子に生まれ、キリスト教の伝道師として関東・東北の各地を転々としながら、詩作を続けました。地元で教員をしていたこともあり、地域の人々から敬愛されています。
土屋文明記念文学館前の公園には、「いちめんのなのはな」の反復で、その情景を的確に表現した「風景 純銀もざいく」という詩の碑があります。
命日が土屋文明と同じ12月8日なので、高崎市内の子どもたちから詩・短歌を募集して優秀作品を表彰する「暮鳥・文明まつり」が毎年12月に行われています。今年も先日第31回が行われました。
大洗は、大正13年に40歳で亡くなった暮鳥が晩年の5年間を過ごした土地なので、今年は訪ねてみたいと思っていました。
まず、「大洗町幕末と明治の博物館」に立ち寄りました。詩碑の場所等、暮鳥に関することを教えてもらうのが目的でしたが、折角なので、常設展、企画展を見せてもらいました。天皇陛下の愛用品や幕末・明治に活躍した偉人の品々など、時間がいくらあっても足らない貴重な資料ばかりでしたが、幕末、水戸の精神的支柱であった藤田東湖の力のこもった憂国の書が特に印象に残りました。
大洗磯前神社を中心に散策するのが便利という助言をいただき、車を境内の駐車場に移してゆかりの地をまわりました。
暮鳥の鬼坊裏別荘の跡地は、漁港近く、民家に囲まれ、海よりも少し高い場所にありました。平成19年に暮鳥会の有志によって建立された「老漁夫の詩」の詩碑が立っていました。故郷を離れ、海の光や音や風を慰めとして晩年を過ごした暮鳥を偲ぶことができました。
暮鳥の生前にはまだ建てられていなかった岩礁に立つ鳥居の向こうに、雄大な太平洋を眺めながら高台に登ると、萩原朔太郎撰の「ある時」の詩碑が説明の掲示板とともに松林の中にありました。暮鳥の没後間もない昭和2年に建てられ、昭和28年に場所を移され、現在に至っているそうです。碑は文字が刻まれていることが分かるだけでしたが、暮鳥、朔太郎を偲ぶには十分でした。
2つの碑をまわった後、境内からしばし海をながめ、神社に参拝して帰路につきました。太陽のまぶしさが気になりましたが、まもなく日が沈み、しばらくは夕焼けが見られました。やがて空は闇に包まれました。
12月8日
12月8日といえば、「太平洋戦争開戦の日」ですが、最近の私にとっては、「文明先生の命日」という思いがずっと強くなっています。
文学館の庭には、先生が愛した橙の木がたくさんの黄色い実を付けています。先生が眠る慈光寺の木々も冬支度を整えたことと思います。
百年はめでたしめでたし我にありては生きて汚き百年なりき 文明
土屋文明は、1890(明治23)年9月18日に生まれ、1990(平成2)年12月8日に亡くなるまで、明治、大正、昭和、平成の4つの時代を生きました。
30代のまだ若い頃、短歌をやめ教育者として生きていこうとしたにもかかわらず、自分の信念が受け入れられないと、長野県当局の転任命令を拒否して校長職を辞任しました。
40代から50代前半の日中戦争から太平洋戦争の頃、当時の国民としては普通のことでしたが、戦後の価値観とは相容れない歌も詠みました。
陸軍省の嘱託として中国各地を旅したこともありました。旅の中で詠んだ歌は『韮菁集』として発表されました。戦いの勝利を願ったり、祝ったりする歌も詠んでいますが、戦いに斃れていく兵の悲劇、中国の文化への尊敬の念や人々への親愛の情を込めた歌もたくさん詠んでいます。
文明は、1930(昭和5)年から1952(昭和27)年までの22年間、歌壇の中心であった『アララギ』の編集発行人として短歌界を牽引しました。
特に、日本で最も長い伝統をもつ短歌(和歌)という文学を、太平洋戦争後の「第二芸術論」に代表されるような混乱から守った功績は、明治維新の「混乱」から守った正岡子規のそれに匹敵すると思います。
「現在の短歌には、日本民族の伝統というものがよほどの分量ではいっている」
「簡単に現在のような商業主義文化受用方式がいつも優先するものだとは考えられない」
「人間の生活というものと非常に密接しておる文学としての短歌といふものは…いかなる社会機構の中でも存在しつづける」
こうした文明の言葉は、今も色褪せることがありません。
100年の人生にはいろいろなことがありました。文明先生は良いことも悪いこともすべて含めて「生きて汚き百年なりき」と詠んでいるような気がします。
故郷を離れて
新型コロナウイルス感染症の流行も収まっているので、11月18日、学芸係の職員と東京に出かけ、
青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ 文明
の歌を時に思い浮かべながら、土屋文明ゆかりの地を訪ねてきました。
四つ目通りに地図ひろげ茅場町さがしたりき四月の十日五十年前 文明
明治42(1909)年、旧制高崎中学校を卒業した文明は、文学の道を志し、牛舎を営みながら短歌を作り小説を書いていた伊藤左千夫のもとに上京しました。左千夫は、学費の支援者を見つけ、文明を旧制第一高等学校へ進学させ、文学者として大成する道を開いてくれました。
左千夫の屋敷は、本所区茅場町(現在の錦糸町駅南口構内)にありました。その場所には、「よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも 左千夫」という歌碑が建てられています。歌碑の裏側には「文明抄」と刻まれていました。ビルに囲まれた風景から当時を偲ぶことはできませんでしたが、文明が選んだ歌碑の歌から、子煩悩な左千夫のそば近く仕える文明の姿が思い浮かびました。
乏しき職を得てこの町に住みたりきあはれ世にふる今日かへりみる 文明
東京帝国大学哲学科を卒業したが定職のなかった文明は、大正6(1917)年7月から、日本体育会(現在の日本体育大学)付属の荏原中学校の英語講師として勤務し、学校近くの下荏原郡大井町(現在の品川区大井)で暮らしました。文明が借りた下宿、一軒家があったと思われる地は旧東海道沿いの下町的な雰囲気の町でした。海抜2.7メートルの標識が特に印象に残りました。
田端の木立よろしとこの夕べ近き梟を子等と聞き居り 文明
松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)校長から木曽中学校長への予告なしの転任を拒否して東京に戻った文明が法政大学に職を得て一時離ればなれだった妻子とともに過ごしたのが田端でした。当時田端にはたくさんの文人が暮らしていました。文明が暮らした家は大学の同窓生であった芥川龍之介が紹介してくれたものでした。今でも、東京にしては、樹木が豊富で閑静な雰囲気に、ようやく穏やかに暮らすことができるようになった文明の心境を偲ぶことができました。
うから六人五ところより集りて七年ぶりの暮しを始む 文明
幾つありし香の木の実か何時の間に一つとなりし香の一つ果 文明
昭和3年から赤坂区青山南町(現在の港区南青山)で暮らしていた文明でしたが、太平洋戦争の戦局が切迫すると、群馬県吾妻郡原町川戸(現在の群馬県吾妻郡東吾妻町川戸)に疎開し、終戦後もしばらくそこで過ごしました。
昭和26(1951)年11月24日、ようやく新居が出来て南青山に帰って来ることができ、平成2(1990)年に亡くなるまで、百年の生涯の半分以上をそこで過ごしました。文明は、花や木を大切に育て、多くの人に先立たれてゆく悲しさを癒やしていましたが、現在はマンションになっていました。賑やかな通りから奥に入った閑静な雰囲気だけが、文明を偲ぶよすがでした。
宮柊二記念館
亡き父のありし昔の聲のごと魚野川鳴るその音恋ひし 柊二
中国に兵なりし日の五ヶ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ 柊二
新潟県魚沼市にある宮柊二記念館に行ってきました。
快晴に恵まれ、越後駒ヶ岳、中ノ岳、八海山の越後三山が幾筋も雪を残した姿で空高くそびえ、魚野川が青く澄んで滔々と流れていました。
堀之内インターチェンジで下りて10分ほど行くと、魚沼市の堀之内庁舎、公民館、体育館と並んで、木と白壁で造られた宮柊二記念館がありました。
5月30日から始まった「柊二の歌一首」展は、歌誌『コスモス』のアンケートで高得票を得た短歌を中心に、軸や色紙などの資料がゆったりと展示されていました。
柊二と文明は、それぞれ歌誌『コスモス』、『アララギ』の中心として、長年にわたり短歌界を牽引し、いくつかの共通点をもっています。
柊二は堀之内町、文明は群馬町、それぞれ魚沼、高崎という都市の周辺地域で生まれ育ちました。
旧制中学校を卒業すると故郷を離れ、人生のほとんどを東京で暮らし、柊二は魚野川に、文明は榛名山に、望郷の思いを託しました。
柊二は北原白秋、文明は伊藤左千夫、先輩歌人に親しく師事し研鑽を積みました。
戦時中には、中国に渡り、戦争の現実を見て、柊二は『山西省』、文明は『韮菁集(かいせいしゅう)』という歌集を遺しました。
柊二の率直に表現された情感豊かな短歌と、文明の写実的で深みのある短歌という違いはありますが、ともに近現代を代表する歌人です。
宮柊二記念館は、少ない職員にもかかわらず、全国短歌大会を開催し、今年で27回を迎えています。第二芸術論をはじめとする戦後の混乱から短歌を守った土屋文明のかけがえのない功績を考えれば、当館もその名を冠した全国短歌大会を開催すべきだと、私は考えています。
今回の訪問では、下村正人館長様をはじめ、職員の皆様にたいへんお世話になりました。今後も交流させていただければありがたいと考えています。
旧跡も歌枕も意に介さず
慈覚大師御開扉過ぎし壬生寺に灰冷えびえと大火鉢二つ
輪王寺まゐり道の円仁産湯の井今日は三毳の盥窪は見ず
糸遊に結びつくべき煙なし風流風雅なし雑木の芽立ち
(『続々青南集』下野国壬生より)
宇都宮の近くに壬生という町があります。
平安時代の高僧、慈覚大師円仁由来の壬生寺にある文明先生の歌碑を見てきました。
円仁は、794年に生まれ、幼いときから仏典を学び、比叡山に登り最澄の弟子となりました。その後、留学僧として唐に渡り、10年間を五台山や長安などで過ごし、仏教を深く学びました。帰国後は、日本各地を行脚し、仏教を広めるとともに、地方文化の興隆や社会事業にも尽力し、第三世天台座主となり、864年入寂後、「慈覚大師」の称号を贈られました。
壬生は、円仁生誕の地と言われているにもかかわらず、その旧跡が荒廃しているのを嘆いた日光山輪王寺の門跡天真親王が1686年に大師堂を建立しました。やがて、大正時代に大師生誕1050年を記念して、輪王寺門跡彦坂大僧正の指導のもと、東京上野の寛永寺天台宗学問所を本堂として移建し、「壬生寺」となりました。
円仁生誕の地と言われている旧跡は、壬生町と同じ下都賀郡の岩舟町にもあり、三毳山の麓の手洗窪に小さな社があります。
文明先生がテル子夫人を伴って壬生寺を訪れたのは、昭和46年4月17日、81歳の時です。近くにある、「奥の細道」ゆかりの「室の八島」や道鏡ゆかりの「下野国薬師寺跡」も訪れました。
「慈覚大師…」の歌を刻んだ歌碑は、「慈覚大師生誕産湯の井戸」の側に建てられていました。壬生寺は、「節分のお宝まき」のときなどはたいそう賑わうそうですが、ひっそりとしていました。「灰冷えびえと大火鉢二つ」もそのような様子を詠まれたのではないかと思います。
現在ある「慈覚大師生誕産湯の井戸」は、大正時代に創られたもののようで、円仁生誕の地を強く実感することはできませんでした。「輪王寺…」の歌は、そのような感じを詠まれたのではないかと思います。
お寺の由来や歌碑については、ご住職ご夫妻からもいろいろなお話をお伺いすることができ、資料もたくさんいただきました。私からは、「文明先生の数少ない歌碑の一つなので大切にしていただければありがたい」と申し上げました。
「糸遊に…」の歌は、「室の八島」(現栃木県栃木市)で詠まれた歌です。「室の八島」は、一夜の契りで懐妊しニニギノミコトから不義を疑われた「木の花さくや姫」が産室にこもり火をつけると三神が生まれたという言い伝えに由来する歌枕で古来多くの歌人が訪れています。芭蕉も「奥の細道」の旅で訪れ、「糸遊に結つきたる煙哉」という句を遺しています。池の中に小さな島が8つあり、社がありましたが、文明先生の詠まれたとおり、「木の花さくや姫」由来の「煙」を感じ取ることはできませんでした。
現地に行ってみて、旧跡も歌枕も意に介さず、実景を率直に詠んだところがまさに「アララギの総帥」の面目躍如と思いました。
深谷にも文明の歌碑
荒川のあふれなかるゝ道を来て静かに秋づく擁月荘にすわる 文明 (大圓寺の歌碑より)
過日、埼玉県深谷市へ行ってきました。
深谷市は今、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一の故郷として注目されています。
渋沢栄一記念館、その生地「中の家」は、混雑しているわけではありませんが、平日にもかかわらず、それなりの見学者がいました。
大圓寺という小さなお寺は、家並みが続く深谷町にひっそりとありました。大圓寺には文明先生の歌碑があります。
昭和22年9月17日、山口平八の学塾「擁月荘」を訪れたときの歌です。
山口平八は、地元の青年たちに、政治・経済・芸術などを幅広く教授し、「擁月荘」は多くの著名人を輩出しました。
文明先生は、2日前の15日に関東を襲った「キャサリン台風」であふれた荒川の水がまだ引いていない中、擁月荘を訪れました。
高等女学校教育や大学教育に携わり、文学者としても現実を直視していた文明と山口平八は、おそらく、戦後の日本がどうあるべきか、などについて語り合ったのだろうと思います。
二人が過ごした貴重な時間の記念である、この歌碑は、昭和40年6月25日、山口平八が66歳の誕生日に自宅の庭に建てたものです。後に、山口平八夫妻に対する謝恩の気持ちを込めて近隣の人々が建てた「擁月荘景慕の碑」とともに、山口家の菩提寺「大圓寺」に移されました。
生前、文明先生は、歌碑建立の依頼があると、「あんなものは、犬のしょんべんじょになるだけさ」とほとんどお断りになったそうです。犬の小便はどうかわかりませんが、大圓寺の歌碑には鳥の糞がたくさん付いていました。
「ほら見たことか」と微笑む文明先生のお顔が浮かびました。
令和3年3月31日(水)
桜の花
染井桜みにくき幹の老いざれてなほこの年の花をかざすか 文明
(『自流泉』昭和22年)
我がさくら花
わが花の東海ザクラにはじまり終ひににぎはふ八重桜 文明
(『青南集』昭和35年)
3月31日、人事異動で文学館を去っていく職員に最も美しい光景を見せようとするかのごとく、周辺の桜が満開になりました。
文学館正面の庭では、文明の歌碑と暮鳥の詩碑を満面の桜が取り囲んでいます。
八幡塚古墳の頂からながめると、文学館の側らに桜が咲き、その向こうに榛名山が紫にたたずんでいます。
草木を愛する文明にしては、桜を詠んだ短歌は少ないように思いますが、老いてなお咲く桜、春を彩るとりどりの桜を的確に詠んでいます。
令和3年3月27日(土)
諏訪湖畔
湖の氷はとけて猶さむし三日月の影波にうつろふ 赤彦
(『太虚集』大正13年)
高木村
亡き人の村冬に入る菜の茂り山を見るこそ静かなりけれ 文明
(『山谷集』昭和6年)
島木赤彦五十年忌に
生くるに難くありたる時に先づ来り救の手をばのべし君なり 文明
(『青南後集』昭和50年)
3月27日は「赤彦忌」、諏訪が生んだ『アララギ』の代表的歌人島木赤彦の命日です。
赤彦は、明治9年に生まれ、大正15年に亡くなるまでの49年間、短歌界に大きな足跡を残しました。
大正2年に、伊藤左千夫が没すると、嘱望されていた教育界を退き、短歌誌『アララギ』の編集発行人となって、多士済々の歌人たちをよくまとめました。『アララギ』の編集発行人は、斎藤茂吉、土屋文明と受け継がれていきますが、赤彦がいなければ、早くに途切れてしまったかもしれません。
赤彦は、文明にとって、歌人としての先輩であるだけでなく、かけがえのない人生の恩人でした。
東京帝国大学を卒業したにもかかわらず2年間定職のなかった文明に、諏訪高等女学校教頭の職を紹介してくれました。長野師範学校の先輩で同校校長の三村安治との縁によるものでした。
文明は2年後、同校の校長となり、松本高等女学校の校長として退職するまで6年間、長野県の教育界で過ごしました。この6年間は、文明にとって、必ずしも順風満帆ではありませんでしたが、歌人として活躍するための貴重な社会的経験を積むことができました。
赤彦の功績を讃えて、諏訪湖のほとりには、「赤彦記念館」が建てられています。諏訪は、まだ朝晩、寒さが厳しいかもしれませんが、野山の草木も少しずつ春の装いを見せはじめているのではないかと思います。